巡り会うハルヴァンベント 第二話③ イルドクリス
水の流れに身を任せ放り出された先は、総司のよく知るリスティリアの国々からは大きく様相がかけ離れた「都会」の只中だった。
総司は驚きに一瞬目を見張ったが、すぐに冷静さを取り戻して周囲を見回し、やはりリシアが傍にいない――――分断されてしまった緊急事態に陥っていることを確認する。
周囲に広がる景色は、総司の故郷である日本の街だった。首都・東京ではないが関東圏に存在するそれなりの都市――――住むにはちょうどいい街。今となっては遠い思い出の中に消えてしまいそうな、しかしやはり懐かしい景色。
と言って、「元の世界に戻されたのかもしれない」という不安を抱くことはなかった。
昼日中だというのにヒトがいない上、総司の記憶にある限りでは夜更けであってもそれなりに往来していた車すら、1台もない。褒められた話ではないが路駐していた車も多かったし、日の高い内から道端にただの1台もなく、歩行者の一人もいないのはあり得ない。
既に女神の領域の中枢にまで入り込んでいるらしいスヴェン・ディージングの故郷が再現されていたのとは、また成り立ちが異なるだろうが――――この景色もまた「本物」ではない。
総司はふと誰もいないはずの道端で何か視界にちらつく違和感を覚えて、高くそびえるビルの一つを見た。ガラス張りのデパートの一階へ目をやって、反射した景色に目を見張る。
「……“誰の思惑”だ、今更」
相変わらず生命の気配は一切なく、幻想の故郷の中で総司はただ一人のはずだというのに、窓ガラスに映る自分の背後には懐かしい姿がある。
愛したあの頃のままの、『彼女』の姿が。
『酷い物言いだね。総司の薄情っぷりには驚かされるよ。始まりの国以来、私のことを思い出すことすらしないんだから』
「下らねえ」
総司は吐き捨てるように言った。
「そんなわけねえだろ、特に“ここ最近は”な。俺の記憶を覗いたんだろうに粗末な演技だ。台本ぐらい書いてから来いよ」
ぐにゃりと『彼女』の姿が歪む。銀と黒の魔力の光が迸り、『彼女』の周囲を包み込み、光の中からすっと出てきたのは一人の女――――『彼女』よりもずっと背が高い、怜悧な顔立ちと目つきを湛える、露出の激しいくすんだ銀のドレスを纏う絶世の美女。総司に対しわずかも親しみを覚えていないと存分にアピールする氷のような目つきと表情。
突き刺すような危険な魔力が、彼女が何者であるかを十二分に総司に教えてくれた。
「“古代魔法”はレヴァンチェスカの力の劣化版って話だったが……あからさまに“ディスタジアス”の気配だ。誰だよ、お前」
『……ふっふっふ』
ティタニエラのエルフにして、アレインと並ぶ当代最強格の魔女の一人――――ミスティルが掌握する“ディスタジアス”の気配。
総司に“伝承魔法”と“古代魔法”の違いを語ってくれたのもまたミスティルだった。もっとも、それを語ってくれた時点でのミスティルは「猫を被っていた」のだが、かと言ってあの知識に嘘を交える必要もなかったはずだ。
“伝承魔法”は“精霊”の力を行使する。
“古代魔法”は女神の力を劣化させて現世に再現する。
その知識に基づけば、“ラヴォージアス”の力の源泉たるネフィアゾーラや、“イラファスケス”の力の源泉たるレナトゥーラのような存在がいないはずの力だ――――
「……あぁ――――ミスティルが従えようとしてたのは、お前か」
『お?』
「そうだ、あの時アイツは“精霊”を従えようとしていた。“厳密にはそうじゃなかった”だけってことか」
ティタニエラでの戦いにおいて最も無力化すべきだったのは、ミスティルではなかった。ほとんど無抵抗にもかかわらず、総司とリシア、それに神獣ジャンジットテリオスの力までぶつけてようやく消し飛ばすことのできた異形の存在。総司もようやく思い出してきた――――あの“精霊”もどきは、そう言えば女性体だった。
「“精霊”じゃないなら、お前は何なんだ?」
『よくぞ――――よくぞ聞いてくれたね!』
人となりを知らない人間には特に「冷たい」印象を与えがちなアレインよりも、更に危険な気配を思わせる美女――――からは、想像もできないぐらいのはつらつとした口調、元気の良さ。見た目とのギャップに総司が目を丸くした。
「え? いや、あの――――」
『キミの流儀に倣おう、ボクは“イルドクリス”! キミが思い当たった通り、“ディスタジアス”を担う上位存在ってヤツだ』
「ボク?」
『一言で言えばキミの知る神獣たちと似てるね、ボクらは。彼らがレヴァンチェスカの意思の具現であるのなら、こちらは力の具現ってとこかな? 存分に光栄に思ってくれよ、キミはボクの名前を知る史上初のヒトだ! “精霊”とは成り立ちが違うからね、下界でボクらの名前なんて絶対わからないんだから!』
ミスティルが従えようとしたあの異形を撃破した時、総司とミスティルの精神は一時的に同化し、互いの過去を見た。互いにとって最も悲しい記憶を見せつけられた。
イルドクリスと名乗る“ディスタジアス”の力の権化は、それ故に総司の過去を知っていて、“彼女”のことも知っていたわけだ。あの場にいた「三人目」として――――厳密にはヒトではないが。
『ちょっと凝った登場を狙ってみたんだけどなぁ、キミってば少しも動揺しないんだから。つまんない話だよ。年頃の男の子らしい慌て方を見たかったんだけどねぇ』
「今の方がよっぽど驚いてるよ……」
見た目で人となりにまで勝手なイメージを持つのはヒトの悪癖に違いないが、それにしてもこの“イルドクリス”なる上位存在の「ルックス」と「キャラ」の乖離はあまりにも強烈で、総司はぽかんとしながらげんなりもしていた。完成され過ぎた「クールな美女」であり、明らかに何でも完璧にこなしそうな存在なのに、どこか残念そうな、肝心なところで大ポカをやらかしそうな、コメディチックなオーラが出てしまっている。
軽快さと軽薄さはレスディール・スティンゴルドを思わせるが、レスディールは彼女の過去を辿れば割と抜け目のない才媛であり、先見の明もある傑物だ。イルドクリスはそれにもちょっと当てはまらない雰囲気を纏っている。
“精霊”のように魔法の結果として下界に顕現することもないであろう上位存在。クローディアの画策とミスティルの暴走により、下界に落とし込まれようとしていたが、もちろんそれは本来あり得ない話。こうして向き合って話せるなんて奇跡的だ。そう思わせない雰囲気が迸っているのは残念ではあるが。
「まさかここに来てこんな“濃い”のがまだ出てくんのか……」
『何で不満げなんだいキミは。このボクがキミの窮地に駆け付けてあげたんだよ? 頼もしく思ってほしいね、そして存分にありがたがってくれ!』
「窮地……確かに、窮地には違いないな」
総司がハッと我に返る。とても強烈な闖入者の存在に思考がフリーズしていたが、現在の総司の状況は非常によくない。相棒であるリシアと、案内人のような役割を担っていたゼルレインをはぐれ、ただでさえ様々な法則が下界と違う場所で、これまた訳のわからない空間に放り出されてしまっているのだ。
一刻も早くリシアと合流する必要があるが、そのためにどうすればいいか皆目見当がつかない状況にある。イルドクリスの存在は総司にとってもありがたい――――イルドクリスが彼女の言葉通り、「総司のために」ここに来てくれているのなら、だ。
「俺の置かれた状況が悪いことを知ってきてくれたんなら、そもそも今何が起こってるのかわかるってことで良いんだな?」
『ふふん、もちろん』
イルドクリスは得意げにぴっと人差し指を立てて語った。
『まずこの空間はレヴァンチェスカによって構築されたものだ。で、レヴィアトールによって“捕まりそうだった”キミを無理やりココへ押し込んだのがボク。つまりキミがここにいる現状はレヴィアトールの思惑とは反しているってことになるね。ここまではいいかい?』
「レヴァンチェスカの……?」
『アイツの本音までは知らないけど、キミに見せたいものでもあったんじゃないかな。もともとココには来させるつもりだったとは思うんだけど、想定外だったんだろうねぇ、まさかレヴィアトールからキミを取り返してココへ“引っ張り込む”力ももう残されていないぐらい追い詰められてる』
総司の目がきっと細くなった。
既に時間がないというのはわかっていたが、女神の力の具現と名乗るイルドクリスが言うと説得力が増す。
『レヴィアトールはキミを捕まえて閉じ込めておきたいみたいだね。何のためにかまではボクにもわからないけど、少なくともレヴァンチェスカが望んでる流れじゃないことはわかる。だからボクが出しゃばったわけ。あぁ、あの子の名誉のために言っておきたいんだけど』
「あの子? 誰のことだ?」
『ネフィアゾーラさ。あの子も事態に気づいて割って入ろうとはしてたんだけど、キミも知っての通り今のあの子は全快には程遠い。あの子はホントちょー強いとは言え、存在の位置づけとしてはレヴィアトールとあくまでも同格だ。今のネフィアゾーラじゃレヴィアトールとの引っ張り合いはきつかった。優しい子だからねぇ、自己嫌悪に陥っていないと良いけど』
「別にそれでアイツのことを薄情だとか思ったりしねえよ。今度伝えておいてくれ。気持ちだけでも十分ありがたいって」
『ま、機会があればね』
イルドクリスが肩を竦めながら笑った。
『この騒動のオチとしては、キミを押し込む時に勢い余ってボクまでココに突っ込んじゃってさ。だから仕方なし、合流しちゃおうかなって』
「……んん? 待て待て、表現がよくわからんのはひとまず置いておくとして、それはつまり――――」
『あ、うん、ボクも単独では多分出られないね! なんといっても女神お手製の空間だし!』
「やっぱそういうことかよ!」
『もともとキミを連れてくるつもりだっただろうから“入る”のは難しくなかったけど、キミが入っちゃったらレヴァンチェスカが見せたいモノ見るまで出口はないよねそりゃあ』
「……ちなみになんだが、その“見せたいモノ”ってのは何か、お前はわかってるのか?」
『え? まさかぁ、言ったでしょ? レヴァンチェスカの本音はボクも知らないって』
「つまりそれは俺が推測することだと」
『そりゃあね、ボクは本来出しゃばる予定もなかったんだし。レヴァンチェスカの筋書き通りなら、キミかキミの可愛い相棒ちゃんがどこを目指すべきか決めることになったんじゃない?』
「……どうやら閉じ込められそうだったところを助けてもらったみたいで、そのことには感謝するよ。ありがとう。でもさっき頼もしく思ってほしいって言ってたが、じゃあイルドクリスには何を頼れば良いんだよ、ここから先」
『……そう言えばそうだね?』
「だよな」
『……こう見えてヒト好きでね、話し相手としてはキミの相棒ちゃん並に性能が良いと思うんだよね』
「言い方……」
『ま、まぁまぁホラ! 一人よりずっと頼もしいだろ? それにこう見えて頭も良いぜ、なんたって上位存在だ! 頭脳労働も相棒ちゃん並にこなしてあげるとも!』
「上位存在なのに“並”かよ。リシア“以上”は無理なんだな。確かに無理っぽいけど」
『あっはっはうっさいなこの救世主!』
総司は腕を組み、しばらく考えた。
極論、イルドクリスの言葉に信憑性を見出すことは、現時点では不可能である。証明のしようがないのだ。下界のヒトからすれば想像もつかない上位存在同士のパワーバランスの中で、知覚できないせめぎ合いや駆け引きがあって、その結果この場所に共にいる、なんて話に、総司にも理解できるようなわかりやすい裏付けなど存在しない。
イルドクリスに悪意があるかどうかも見定めることは不可能だろう。いや、もしかしたら善悪という物差しそのものが意味を為さない。親しげだったアニムソルスを推し量ることができなかったように。
総司はすっと手を差し出した。
『おっ?』
「手を貸してくれ。頼む」
『折り合いつけんの早いじゃん? 難しい顔してたけど』
「選択の正解なんざ今わかるはずもねえんだ。選んだ後で正しくする、これでいく」
昔に聞いたリシアの言葉の受け売りを語りながら、総司は真剣な顔で言った。
「それには力業も必要になるかもしれない。“力”で言えば破格だろ、お前は」
『ふふん、悪くないね!』
イルドクリスがバシッと総司の手を取って、楽しそうに笑った。
『ボクを自分の目的のために利用するなんて二度と出来ない経験だ。存分に楽しめよ!』
「そうさせてもらう」
『んで、アタリはついてんの?』
握った手をパッと離して、しかし距離は離さないままイルドクリスが聞いた。
『レヴァンチェスカに何かしら意図があるからココは生まれたわけだけど、その意図を読めるとすればキミだ』
「俺の記憶は見たんだろ? お前の考えは?」
『ヒト好きだしヒトの物語も好きだけどねぇ、ボクには難易度の高い話だ。けどまあ一つの方針としては一案ある』
にっと笑ってイルドクリスが言う。
『ココはキミの故郷を模した空間だろ? でもあくまで模しただけ。じゃあ、“キミの知る故郷にはなかったモノ”、これが重要だと思うね! そいつを探し当てるってのも悪くない方針じゃない?』
「なるほど、一理ある。けど実際、あるかないのかわからねえものをしらみつぶしにってのも難題だ」
『確かに? 無限に時間があればそれも良かったけど』
「だから同時進行だ。俺の心当たりが二つある。“友達の家”と“病院”だ。とりあえずその二つを目指しながら、道中でイルドクリスの言う“違うところ”を見つけたらそっちを優先だ」
『友達? 友達ねぇ?』
「うるせえな、惚れてたけど恋人にはなれなかったんだから、友達で間違いねえだろ」
総司が鬱陶しそうに言った。イルドクリスはクスクス笑って、
『ごめんごめん。了解だ、どっちから行く?』
「本命を先に行く。アイツの家に行くぞ」
『遠いの?』
「あー……俺が“向こう”にいた頃の感覚じゃあ、この場所からはちょっと距離があるが……今の俺の速さなら、そこまでじゃねえな。すぐ着くと思う」
『キミの記憶を全て見たわけじゃないし、ボクも正確な位置がわからないと“ディスタジアス”で連れていけないからね。方角はどっちだっけ?』
「あっちだ、お前の後方側。とりあえずこの道をまっすぐ走って――――」
総司が言葉を切った。イルドクリスがハッと気づいて足元を見た。
いつの間にか、総司とイルドクリスの足元が水に浸されていた。深さはわずか数センチ程度、くるぶしまで浸かるかどうかという程度のものだったが、澄んだ水が足元を覆っている。
「これは――――!」
『やっばいかもっ!』
イルドクリスが総司の服をがっと掴んだ。同時に“セグノイア・ディスタジアス”が発動し、総司とイルドクリスは地上十メートル程度の高さへ一瞬で移動する。
ざぱん、と大きな水音。総司とイルドクリスが先ほどまで立っていた場所から水柱が上がった。周囲の水がせり上がり、飲み込もうとしたところだった。
『あれっ!?』
打ち上がる水柱の水滴が飛んできて、イルドクリスが目を丸くする。
『なんか低くね!?』
「任せろ!」
イルドクリスの体を抱えて、総司が空中を蹴り飛ばす。巨大な蛇の形をして追いすがってくる水を一気に引き離した。
手近なビルの上をざあっと滑って、周囲の気配を探る。だが、魔力の察知ができない――――というよりは、そこかしこからレヴィアトールの魔力の気配が漂っていて、追いかけてくる水の動きが掴み切れない。
ドパッと派手な音を立てて、水飛沫とともに水の蛇が数十匹も、群れを成してビルの上に躍り出てきた。総司はイルドクリスを抱えたまま、逆方向へドン、と飛んだ。
「レヴィアトールの気配ってことは……!」
『そう、これは“引っ張り合い”だ! キミとこの空間の主導権、どっちもレヴィアトールが奪おうとしてる! レヴァンチェスカとレヴィアトールじゃ普通は勝負にもならないけど、今は五分以上ってわけだ!』
「空間ごと掌握されたんじゃどうにもならねえんじゃねえか!?」
『よくわかってるね、つまり時間がないってことさ! 捕まる前に、空間ごと掌握される前に、レヴァンチェスカがキミに見せたいモノを見つけないと!』
「まっすぐ行けりゃ大した距離じゃねえが、かわしながらとなると……!」
『それとまずいことがわかったんだソウシ!』
「いーや聞きたくねえな!」
『ボクの出力が一割以下だ!』
「聞きたくねえっつってんだろォ!」
『いよいよ何しに来たんだろうねボクってば!』
恐らくこの空間に「入った」時点では、イルドクリスの力は頼りがいのある強力なものだっただろう。レヴィアトールがこの空間の主導権を奪おうと介入してきたことで、イルドクリスは直接的な影響を受けてしまっている――――生身の総司よりもそう言ったルールのようなものに縛られやすいのかもしれない。完全な理屈までは、総司には理解できないが。
総司から離れ、滑るようにして並走しながら、イルドクリスが言う。
『一応言っとくけどね、ボクはキミを援護するけど、キミはボクを援護しなくて良いんだからね!? 別にボクは飲み込まれたってなんてことないんだから! ボクを助けようとして捕まるとかバカなオチはナシだ!』
「わかってる!」
『嘘つけ、じゃあさっきボクを抱えて飛んだのはなんだってんだい!』
「別にさっきのはそこまでギリギリじゃなかったってだけだ! 一割でもとんでもねえ力なんだから、長くいてくれるに越したことはねえだろ!」
『取捨選択さえしっかりしてくれればそれで良いけどさ! さあ走れ走れ、多分時間が経つほどレヴィアトールの影響力はどんどん増すよ!』
「くそ、せめてアイツもちょっとは話し合ってくれりゃ良いのによ……!」
動きが鋭さを増していく水の追手から逃げながら、総司はある意味で最も「思い出深い」場所を目指すことになった。




