巡り会うハルヴァンベント 第一話② ゼルレイン・シルヴェリア
「勇ましい姿だがまあ待て。そう急くな」
気配は微塵もなく、総司もリシアも全く感知できていなかった。
背後から声が聞こえた瞬間、総司は迷いなくリバース・オーダーを振りかざして体を翻し、反応がわずかに遅かったリシアを突き飛ばすように押しやりながら、振り向いて剣を構えた。
聞き覚えのある声だった。もう随分と昔に思えるが、聞き間違えるはずもない。久しぶりに聞くこの声は――――
「ゼルレイン……!」
「……なるほど、こうして向き合ってみれば」
紫電の女騎士、ゼルレイン・シルヴェリア。
総司が異世界へと渡り、最初に敵対し、そして敗北した相手。千年前の「物語」における主役級の登場人物であり、スヴェン・ディージングを召喚した魔女であることを思えば、今日まで続くリスティリアの危機の発端と言っても良い。
ここにいるはずのない人間だ――――総司とリシアの仮説通りであればだが。
ゼルレインがこの場所にいる時点で、二つに一つ。
「ハルヴァンベントへの道は一方通行だ」という情報がやはり間違っているのか、それとも「総司がゼルレインと最初に出会ったあの場所が、そもそも“まだハルヴァンベントには至っていない”」のか。リシアが最初に疑問を抱いた通り、「順番」的に言えば前者はまだ完全には否定できず、後者の可能性が高い。ゼルレインがいた「焼け落ちた城」は、ハルヴァンベントへ至る手前にあった空間なのだと。
そんな「ルール」の有無はさておき、彼女は確かに目の前に現れた。驚くほど敵意を感じさせない様子で。
「辿り着いただけのことはある。私の目には今度こそ『時が来た』ように見えるが……今一つ足りなかったようだ。連中の考えることはやはり理解できん」
総司とリシアには意味のわからない台詞を吐きながら、ゼルレインは静寂な視線を注いでいる。
相変わらず目の前にしてみればとんでもない威圧感で、これほど接近されるまで気付かなかったのが不思議なくらいだ。しかし、遠い時を超えて生まれた子孫・アレインを彷彿とさせる、鋭い美しさを備えた顔に敵意も殺意も感じられない。何より、総司と戦った時に携えていた大きな剣を持っていない。
「武器が……」
「だからどうした!」
リシアがレヴァンクロスを構えた。“ジラルディウス”の展開はできなかったが、今できる限り魔力を迸らせて、厳しく切羽詰まった口調で総司に叫ぶ。
「忘れたわけではないだろうな、この御方は伝承魔法“クロノクス”の覚醒者だ! それも歴代最強の! お前の知る“クロノクス”の覚醒者は、武器がなければ戦えなかったか!?」
総司がハッとして気を引き締め直す。リシアの言う通りだ。武器がないだけで油断するなど愚の骨頂――――徒手空拳でも“クロノクス”さえあれば、未だ未完成な今代の継承者ですら“女神の騎士”と真正面から張り合える。史上最強と謳われるゼルレインともなれば、武器がないことなど問題外だろう。
「優秀だな」
鋭すぎる美しさ故、どんな表情でも怜悧に見えるゼルレインだが、リシアに向けて見せた表情は彼女にしては柔らかく、そしてどこか親しみすら感じさせるものだった。
「急くなと言った。お前たちとやり合うつもりはない――――“ここでは”な」
「……リシア」
総司が言うと、リシアはしばらく総司とゼルレインを交互に見たが、すっと剣を下ろした。総司もまたリバース・オーダーを背負い直して、改めてゼルレインを向き合った。
一番最初の邂逅を除けば、ゼルレインに関する情報は非常に少ない。リスティリアにおいては千年前の人間なのだから。
それでも、断片的な「ゼルレインの人となり・性質」を示すわずかな情報に照らせば、彼女は「だまし討ち」をする人間ではない。
そもそもゼルレインにこの場での殺意があったのなら、二人とももう死んでいる。背後を取られて気づかなかった時点でだ。
ここでやり合うつもりがないとひとたび彼女が言ったのなら、その言葉を曲げることなど絶対にしない。総司にもリシアにもその確信があったから、ひとまず戦闘態勢を解いた。
「……お初にお目にかかります。世界の敵であるあなたに言うべきでない言葉かもしれませんが……光栄にも、感じております」
「よい」
険しい顔つきながらも率直な心の内を述べるリシアへ、ゼルレインがかすかな笑みを浮かべて手を振った。
「私へ尽くす礼など不要とせよ。シルヴェンス……否、レブレーベントへの忠義、我が子孫への忠義、いずれも見事である。リシア・アリンティアス。この魂が遠きマーシャリアを去る日までしかと覚えておく」
当たり前のように「この世とあの世の境」、常人には決して「そういう場所がある」ことすらも知りようのない神秘の空間を知っている。
「そして……お前」
どことなく、焼け落ちた城で戦った時よりも、総司への態度も和らいでいるように見えた。
「ソウシ・イチノセ。幾分か見れる男になった。誰のおかげか知らんがな」
「……いや」
総司は、記憶の片隅にあった、ほとんど忘れかけていた言葉を思い出した。
ルディラントを訪れた時、王妃エルマが総司とリシアを招き入れてくれたあの瞬間。
総司は確かに、ゼルレインの声を聞いていた。
――――そういうことか。見誤っていたよ、ランセム。見事だ、誇り高きルディラントよ――――
「あなたは、誰のおかげかをきっとご存じだ」
ゼルレインが軽く笑った。
「……最後は笑っていたか、あの男は」
「……はい。間違いなく」
「それは重畳。先ほど言ったとおりだ。私に畏まる必要はない。お前たちの敵だぞ、私は」
からかうように言うゼルレインへ、総司は彼女が望む通り、畏まった態度を解いて率直な疑問を投げかける。
「それで? どうしてこの場所に現れたんだ。あなたと会うのは『この先』だろうと思ってた」
「答えよう。移動しながらな。来い」
ゼルレインは、「敵」と言っておきながら躊躇いなく総司たちに背を向けて歩き始めた。
総司とリシアは視線を交わしたが言葉を交わすことはなく、すぐさまゼルレインの後を追った。
「お前たちの思い描く“最後”は、恐らくもっと劇的なものであったことだろうな」
生物の気配がないのだから当たり前だが、そうでなくとも閑静だったであろう田舎町の通りを歩きながら、ゼルレインがどこか楽しげに言う。
醸し出す覇気は、リスティリアでわずかに知ったイメージ通り。総司にしてみれば「相変わらず」。アレインを彷彿とさせつつも、彼女をも遥かに凌ぐ覇者の気迫、気配。
しかし彼女の態度そのものは、総司が想像していたよりもずっと柔らかだ。
「正直、あなたと顔を合わせたらもう一度やり合うことになる、と思ってた」
「正しい」
ゼルレインは気楽に言った。
「だが、それは『後ほど』だ。先客がいるのでな」
「先客……?」
ゼルレインは答えなかった。
総司たちが辿り着いた「マルティン通り」は、東北東から西南西――――ほぼほぼ東西へガルミッシュ=パルテンキルヒェンの街を横切る通りだ。
例えばミュンヘン旧市街のような、あからさまな「中世のドイツ」を閉じ込めたような街並みではないものの、やはり日本とは明確に違う。この街の木造家屋は、日本の少し古い木造家屋のいで立ちとは違って、白塗りの壁に木組みで装飾をあしらうかのような造りになっている。もちろん家屋ごとの色の趣向は違うものの、よく目立つ明るい色の木々が使われていることもあって、どこかミニチュアのような可愛らしさが感じられた。
これがドイツの特徴なのか、田舎町特有のものなのかは定かではないが、道路の周囲にもたくさんの緑がある。日本の街路樹の植え方とは、これまた違う。道路に面した家や施設も、囲いにフェンスではなく生け垣を使っているところが多いから、より一層緑が多く感じる。
「お前には馴染みのある景色なのだろう?」
ゼルレインが、少し距離を開けて後ろをついてくる総司へ軽く振り向いて視線をやり、気楽に問いかけた。総司は首を振った。
「俺が元いた世界には違いないが、国が違う。似てるところもあるけど、違うところの方が多いな」
「そうか。多少なりとも似ているところがあるのであれば、わずかながら故郷の懐かしさも感じられたことだろうな」
「まあ、な」
久しぶりにアスファルトを踏みしめて、懐かしさが少しだけあったのは事実だ。
「私もだ」
ゼルレインが言った。
「雄大な山々を見ると、シルヴェリアから見えた霊峰を思い出す。あの山脈にも、今は違う名が付いている」
「……あなたを忌むべき存在としたかつての為政者が、名を変えた」
「我が父による采配だ。知っていると思うが、私はあくまでも『王女』であった。当時の為政者は父だったからな」
ゼルレインの声色に、哀しげな感情は微塵もなかった。
「レヴァンチェスカの遊び心にも困ったものだな。お前の魔法にわざわざシルヴェリアの名を与えるとは。当てつけのつもりかね」
どこまで下界が見えていて、事情を知っているのやら、ゼルレインはそんなことを言う。
「……アイツの考えることはわからないけど」
総司が正直に言った。
「“シルヴェリア・リスティリオス”は俺にとって最強の魔法だ。由来がもしかつての国の名前ではなく、最後の“シルヴェリア”人であるあなただとしたら……当てつけかどうかはともかく、名前の通りの魔法だ」
「なかなか口がうまいな」
ゼルレインが少し笑った。
「どうだった、下界は。私より強い戦士と戦ったか」
「だとしたらここまで辿り着けてない」
「弱気なことだ。後でやり合うと言ったろう。そんな気構えでは困るな」
「……幸いまだ未完成だと思うけど、あなたの子孫は多分、そう遠くないうちにあなたを超えるんじゃないか」
「あぁ、多少誤解があるが」
ゼルレインが首を振った。
「アレインのことを言っているのなら、あの娘の系譜は“シルヴェリア王家”には違いないが私の直系ではないよ。私の『妹の直系』だ」
ふわりとさらりとゼルレインから飛び出た情報に、総司が目を見張った。アレインの容姿も才覚もゼルレインにあまりに似ているものだから、直系であると勝手に思い込んでしまっていた。
どうやらリシアも同じだったようで、総司と同じように少し驚いた顔をしている。
「私が“こちら”へ渡った後、『レブレーベント』となった国の王――――私の父を支えたのが妹とその婿だ。そのまま王位は妹に譲られた。我が妹ながら出来た女でな。婿殿より、そして私より、為政者としての素質があった。因果なもので、その代から我が祖国では女の為政者が多くなったようだ。妹の気質は私以上に男勝りでな。ますます『強い女』が生まれやすい家系になったんだろう」
貴重な話だった。まさかこんな話がゼルレインから直接聞けるなど夢にも思っていなかった二人は、思わず聞き入っていた。
「容姿も姉妹としてそれなりに似ていたし、脈々と受け継がれてアレインが私に似たのもまあ、あり得ない話でもないが……魔法の才能まで含めて私に似たのは、何の因果かわからんがね」
ゼルレインは軽く肩を竦めた。
「お前の見立ては正しい。アレインの才能の『天井』は、私より高いところにある。いずれ超えてくれる日が来るだろうよ」
「今はまだ、あなたの方が強いか」
「無論。片目片腕ぐらい封じても私が勝つだろう。片足までは厳しいな、流石に」
「じゃあ俺も勝てねえんだけど」
「さぁてどうかな。お前があの娘と互角だったのは、神域の魔法をあの娘に対して使わなかったからだ。最初からお前があの娘を殺す気だったなら、戦いの様相は違ったものになっていただろう」
リシアがようやく口を開いた。
「やはり全てをご覧になっていたのですね。千年前にこちらに渡ってきた時から今に至るまで、全て。どのようにかはわかりかねますが」
総司たちが”最後の敵”の正体に辿り着いていること、ゼルレインの事情もある程度、確度の高い推測を立てていること。それら全てをゼルレイン側も把握していなければ、ここまでの会話がまずありえない。それぐらいに――――「互いに共通の認識を持っている」と確信していなければありえないぐらいに、ゼルレインと総司たちの会話によどみがなかった。
「間断なく目を凝らしていたわけではない。だが他にやることもなくてな。特にお前が来てからは――――」
総司へ再び軽く視線をやって、ゼルレインが頷く。
「それなりに楽しませてもらったよ」
「……千年か。改めて言われてみれば途方もない話だ」
総司が静かに言う。
「あなたがどう過ごしてきたのか知らないけど……気が狂っててもおかしくない」
「身も心も幸い、人並み外れて図太いものでな。いや、或いは――――」
ゼルレインの声に初めて、わずかな自嘲が混じった。
「こちらに渡る前から既に狂っていただけなのかもしれん」
その言葉を聞き、ゼルレインの「言い方」を聞き、総司はゼルレインに疑問をぶつける決心を固めた。
「どうして止めなかったんだ」
ゼルレインの足が止まる。総司とリシアも立ち止まった。
「負い目があったんだろうとは思うよ。スヴェンをリスティリアに――――当時のスティーリアに呼びつけて、結果的にはルディラントのことで辛い目に遭わせて……でもあなた以外に止められねえだろ、アイツのこと」
「買い被りだ。私でも止められんよ」
「……実力行使できるかどうかって話のつもりだったんだけど、違う捉え方だろそれ。スヴェンに惚れてたからってか?」
「まあな」
リシアがぎょっと目を丸くして、総司とゼルレインを交互に見た。
「惚れてたんなら尚のことじゃねえか。カトレアと言いあなたと言い……!」
「おや、それは知らなかった」
ゼルレインが体ごと半身程度に振り向いて、意外そうに言った。
「あの子もか。フン、私が思っていたより罪な男だな、ヤツは」
「……もしサリアが生きてたら、絶対スヴェンのことぶん殴ってると思うんだよ」
「だろうな」
「嫌な言い方するけどさ、それがあなたやカトレアとサリアの違いじゃないのか」
「正しい。なかなかどうして、お前はそういう機微に聡い。よいことだ。ヤツにも見習ってほしいものだな」
総司の無礼極まりない、ゼルレインにしてみれば心の傷を抉られるような台詞にも、彼女は極めて穏やかに、肯定的に答えた。総司らしからぬ物言いが何故彼の口から転がり出て来たのかをきちんと理解して、一切怒ることもなく。
「それはそれとして、“買い被っている”のもまた事実だ。お前の最初の言葉を、お前の意図通りに受け止めたとしてもな」
「……どういう意味だ?」
「“物理的にも”ヤツを止めることは不可能だった。千年前ハルヴァンベントへ渡る時には既に、私の力はあの男に及ばなかったからだ」
ルディラント滅亡以後、ロアダークを討伐すべく息巻くスティーリア連合軍において、スヴェンの存在感は増していった。その記録はわずかながら、デミエル・ダリア大聖堂の隠し部屋にも残されていた。
カイオディウムの“伝承魔法”の系譜を食らい尽くしたスヴェン・ディージングは、シルヴェリア王女ゼルレインの偉大な名前の影に隠れて「当時最強」の魔法使いとして戦いに臨み、同じく最強格と目されていたロアダークを最終的には討ち果たした。
ロアダークの強さもまた常軌を逸したものだった。忘却の決戦場ロスト・ネモに残る戦いの傷跡は、“ゾルゾディア”と“リベラゼリア”の激突によって出来たもの。最強の魔女ゼルレインと、そのゼルレインをすら上回っていたらしいスヴェンとを相手取っていたのだから。それでも流石に及ばなかったようだが。
「勘違いするなよ」
ゼルレインは事も無げに言う。
「言い訳のつもりはない。お前が正しい。及ばなかろうが惚れた弱みがあろうが、私はヤツを止めるべきだった。サリアならばそうした」
今更言っても仕方のないこと。既に千年も時間が経った。重要な分岐点で、間違えてはならないところで間違えたと、その一秒後に思い返したとて後の祭りなのだ。千年という時間は当然ながら、どうあっても取り返しようのない途方もない歳月である。
「……どこに向かってるんだ、俺達は」
「うむ。……あー……なんと言ったかな」
彼女にとっては答え辛いであろう総司の問いですら、よどみなく返事を寄越していたゼルレインが初めて言いよどんだ。それはこれから口にする単語が、彼女にとって馴染みのないものだからだ。
「そう、思い出した。『駅』とやらに向かっているところだ。確か……ガルミッシュ=パルテンキルヒェン駅、そんな名前だ」