巡り会うハルヴァンベント 第一話① Garmisch-Partenkirchen
地下深くへ降ろされたと思っていたが、勘違いだったようだ。
エレベーターとなっていた広間の床が動きを止め、暗闇の中で輪郭がはっきりと見える扉を開け放った時、総司とリシアは「外」に出ていた。
田舎の街の、外れの一角。日の光があり明るかったのだが、肝心の太陽がどこにも見当たらなかった。ただ昼の景色が広がっているだけだ。一瞬だけリスティリア下界かと錯覚するぐらいにごく普通の街並みに見えた。白い壁が特徴的で可愛らしい家がいくつか並ぶ小さな通り。総司とリシアがハッと気づいて振り返ってみれば、どうやら二人はありふれた家の一つから出てきたことに「なっている」らしく、二人の背後には見覚えのない家屋が一つ、佇んでいるのみである。
少し遠くへ目をやれば、美しい山々の雄大な姿も見える。山頂付近には少し雪がある。
とは言え、雄大な自然に囲まれた街ではあるが、相変わらず生物の気配は全く感じられない。総司たちにもなじみ深いサイズの家があるのだから、同じぐらいの大きさの生物――――ヒトに近しい何かがいても不思議ではないが、残念ながら見当たらない。総司の記憶にある限り、最も近しいのはシルーセンの街並みだが、街自体はそれよりはもう少し規模が大きく、発展しているようにも見えた。
少なくとも、リゾートの様相を呈していたシエルダのような華やかさのある印象はなかった。それなりに規模は大きいようだが、国や文化の中枢からは外れたところでひっそりと佇む田舎――――ここが“女神の領域”と呼ばれる伝説の地の間近でないのなら、気に留めることすらなかったかもしれない。
しかし、総司は気づいた――――リスティリアと異なる世界の住人であった総司だから、気づけた。
「……アスファルト……」
ヒビも多く手入れの行き届いていない、質の悪いものではあるが、総司が立っているのは「アスファルトで舗装された道路」だった。
更に細い道は土の道もあるものの、一定以上の広さの道はきちんと舗装されているようだ。
改めて街並みを見てみると、リスティリア下界もそうではあったが、この街はそれらよりももっとずっと、総司のイメージする「西洋風」のいで立ちに近かった。
「……厄介だな」
リシアが冷静に呟いた。
「使えない」
「……マーシャリアと似てるな。もっと強力な『制限』か」
状況を一目見て、リシアはすぐに“ジラルディウス”を展開しようとした。ありふれたように見える街並みであっても、その外見に騙されるわけにはいかない。全容を把握すべく高度を上げて高いところから周囲を観察しようとしたのだが、そもそも“ジラルディウス”が封じられていた。哀の君マティアの抱く“マーシャリア”での「高度制限」よりも更に強烈な抑止が、総司とリシアに働いている。
「湖畔の教会のような、わかりやすい目印もなくなったな……難題だ、一体どうすれば――――」
「ちょっと、歩いていいか」
深刻な表情で思考を巡らせようとするリシアに、総司があっさりと言った。
「なに? 何か思いついたのか?」
「いや。歩いてみたいんだ。この街を」
リシアが小さく頷いた。
「代案もないな。とにかく警戒だけは怠らずにだ」
「おう」
緊張した面持ちのリシアとは対照的に、総司の調子はどこか軽かった。大ジャンプはできないようだったが、家の上ぐらいまではひょいと上がれる状態だったので、適当な家の屋根に飛び乗って、そこから見える限り周囲を確かめて、総司が道路に降りる。
「あっちだ」
「うん……? いや待て、おかしいな?」
スタスタと歩き始める総司に慌ててついていきながら、リシアが少し咎めるように言う。
「目的地も何をすればいいかもわかっていないはずだ。どういうことだ?」
「まあ、『正解の道』ってわけでもねえけど、見てもらうのが早いからさ」
「……さっぱりわからん」
総司がリシアを連れ出した先は、街の「大通り」。と言って、大都会のメインストリート、というほどでもないのだが、総司たちが放り出された小道よりは立派な道路だ。広めの歩道には街路樹が植え込まれていて、いくつかの道路標識もある。リシアはそこに立ってようやく違和感に気づいた。足元に敷設された「アスファルト」は、リシアにとっては覚えのない素材なのだ。
「……不思議な……見覚えのない道の造りだ……石? 違うな、何だこの材質は……それにこの記号は……?」
道路は片側二車線の広めの道だ。ところどころ少し隆起させた状態で縁石で囲まれた箇所があり、青地に白の矢印が描かれた背の低い標識があったりしている。リシアは興味深そうにそれらの標識を眺めた。
「それにこれも……見たことのない文字……」
通りの名を示すであろう看板を見て、リシアが首をかしげる。
「俺も読み方には自信がないが」
リシアの見ている小さな看板を見て、総司が言った。
「『マルティン通り』、じゃねえかな」
英語すら完璧とは言い難い元・高校二年生の総司である。ましてや「ドイツ語」の「地名」や「通りの名前」ともなれば、読み方にも発音にも全く自信はないのだが、「Martin Straße」の文字を素直に読むとそう読めた。これを「マーティン」と読むのは英語的だが、ドイツ語だとローマ字読みに近くなる傾向がある。そして言語としては、特にエスツェットと呼ばれる「ß」の文字に特徴が出ている。エスツェットの発音は、厳密には違うのだが、日本人の感覚で言うと「S」或いは「SH」の音に近い。後半の単語はカタカナに起こせば「シュトラーセ」。日本で言うところの「~~“通り”」という意味だ。オーストリアでも見られる単語だろうが、現状との関連性を鑑みれば――――
――――……ディージング、か。馴染みがあるとまでは言わんが聞き覚えはあるよ。ドイツの家名だ。よくある名前、とまではいわんが、とりわけ珍しいというほどでもない――――
「“再現している”だけだとは思うけど、多分ここは俺が元いた世界の国の一つ、『ドイツ』だ。スヴェンの故郷だよ」
リシアが目を丸くして、改めて周囲を見回した。最初からそこにあったのか、それとも今ふと出現したのかはわからなかったが、リシアの視線の先には木々に隠れるようにして白い看板があった。総司の目もその看板を追い、読み上げる。
「……ガルミッシュ=パルテンキルヘン、か?」
日本語的にではあるが、より正確には「ガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)」。単語としては「教会」の意味も持つ「Kirchen」は、カタカナに起こせば「キリヒェン」と表記されることもある。ドイツ・バイエルン州の中でもかなり南に位置する街である。ドイツアルプスの麓にあり、広大な山脈を隔てた向こう側には、まだまだ距離はあるもののオーストリアがある。ドイツアルプスと反対側に取って返して北へ進めば、バイエルン州の中では特に有名な「ミュンヘン」だ。そちらも相当距離があるが。
元々はガルミッシュとパルテンキルヒェンの二つの街であったが、1936年の冬季オリンピック開催候補地として挙がった際に、それぞれの街単独では規模が小さく開催地としての要件を満たさなかったために合併する運びとなった。
冬季オリンピックが開催されたことからもわかるとおり、そして街の立地からも見て取れるとおり、ウィンタースポーツ愛好者からは好まれる街であり、氷河を滑る特異な体験も可能だったりする。一部まだ残存する伝統工法で造られた木造家屋には界隈のファンから根強い人気もあり、観光客を呼び込むホテルには外観にその特徴がよく出ていたりもする。
とは言え――――日本人の目から見れば美しく感じる街ではあるものの、世界的にも名の知れた街、とまでは言えない。オリンピックで一時的に名を馳せたとは思うが、それも総司のいた時代からすれば100年近く前の話。
あえてこの空間で、“女神の領域”に片足突っ込んだこの場所で、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンと思しき街並みが表出した理由は一つしかないだろう。
スヴェン・ディージングの心象が具現化して現れた。それ以外に考えられない。
「……“近代的”だ」
多少、古めかしいところもいくらか感じられるものの、2020年代からリスティリアへやってきた総司の感覚から大きく乖離した街並みではない。
アスファルト舗装された道路に加えて、遠くにはガソリンスタンドと思しき店舗も見える。ガソリンスタンドの歴史は1900年代初頭から始まった。それもアメリカが発祥だったはずで、正確にはわからないもののドイツの片田舎に店舗が進出したのはもう少し後だと思われる。
リスティリアの時間軸においては、スヴェンは千年前の人間で間違いないが――――元いた世界の時間軸との齟齬があったのだ。
スヴェンは恐らく1900年代――――もしかしたら1900年代後半のドイツから、スティーリアと呼ばれていた時代のこちらの世界に召喚された。時間の流れがややこしい話ではあるが、元いた世界にのみ準拠すれば、思っていたよりもずっと総司と近しい時代の人間だったのだ。
カトレアがハルヴァンベントへの道を介して、違う時代へ放り出されたように、“女神の領域”では常識的な時間の感覚が通用しない。
なるほどそうであれば、彼が愛用していたサングラスの存在も頷ける話だ。
ファッション的なサングラスの流行もまたせいぜい1900年前後。目を保護する目的として、或いは表情を隠す目的として、というような形での「色つき眼鏡」のルーツを遡っても12世紀頃がせいぜいだ。スヴェンが愛用していたのは、総司にもなじみのある形の、要は「ファッション」目的が強いサングラス。あれもまた近代的なものだ。
「お前の故郷の国とは、また違うのか」
「ああ、違う国だ。歴史的に見れば、俺の故郷とスヴェンの故郷は割と縁があるとも言えるけどな」
「そうか、残念だ。お前の国も見れたらよかったんだが」
「文句はスヴェンに言ってくれ」
総司が笑いながら言った。
「“ハルヴァンベント周辺”の風景だったりとか、世界の構築のされ方? みたいなものには、その中枢にいる誰かの影響が色濃く反映される……と考えるのが筋、だろうな。いや、なんともはや荒唐無稽な話だが」
リシアが腕を組んで考えをまとめ、総司へと伝える。
「そもそも中枢にいる誰かとは、女神さましかありえないわけだが、“今”は違うと。故に『この状況』もまた史上空前の出来事であり、未知数。理論づけしようとするのもおこがましいのかもしれんな」
ただヒトの身で、それでも頑張って女神の視点・世界を外側から見るような視点を踏襲しようと試みるものの、うまくいくはずもなく。この空間とこの現象の説明をリシアが行うというのは非常に難しい。それでもかなり上手に言語化できた方である。
「まあ、これも憶測でしかねえけど、多分意図的なものじゃないんだろうな」
リシアの説明にとりあえず頷きながら、総司も自分の考えを述べた。
「結果としてこうなっちまっただけで、別にスヴェンには俺達に『見せる』意思なんてない、と思うね」
「……そうだな。私も同意見だ」
「しかし参ったな」
総司がガシガシと頭をかいて顔をしかめた。
「何すりゃ良いのか全然わからん!」
祖国日本であったとしても、自分が行ったことのある街でもなければ土地勘があるわけもない。ましてや一度も訪れたことのない異国の地。その中でも日本においては、アメリカのニューヨークやイギリスのロンドンのように、頻繁にテレビで放映されるような著名な街でもない場所。
ガルミッシュ=パルテンキルヒェンに伝わる伝説――――例えば「女神」や「神」の伝承が残る場所であるとか、そう言ったものがあるのかないのかも何一つ知らない。
「街のどこに行けば『次』に進めるのか、見当もつかねえ……」
「……思考の方向性を間違えてはならない」
リシアはじっくりと考えをまとめながら、総司の言葉に答えた。
「囚われるな。我々は“ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの探索”をするのではない。“ハルヴァンベントの道の探索”を行うんだ」
「……そう、だな」
「お前の元いた世界とは言え、この場所がお前に馴染みのない場所だと言うのはむしろ良かった。先入観なく探索を行えるからな」
リシアは再度、魔力を高めて“ジラルディウス”を展開しようとしたが、やはりうまくいかなかった。
「地道に足を使って、とにかく街を見て回ろう。時間はかかるだろうが、ここで止まっていてもそれこそ時間の浪費だ。我らの旅路は一筋縄ではいかない――――いろんな形の苦難があるものだが、差し迫った身の危険が現時点でないだけ幸運だと思っておこう」
「……だな。手分けはしない方が良いか。二人で固まって動こう」
元いた世界では海外渡航の経験がなく、対照的にリスティリアにきてからは全ての国々を回った総司。もしかしたら総司にとって異世界リスティリア以上に未知の街、ドイツ・ガルミッシュ=パルテンキルヒェン。どれだけのヒントがあるのか、そもそもちゃんとこの先に『道』が続いているのかすらも定かではないが、リシアの言う通り立ち止まるだけ時間の無駄である。
二人は意を決し、比較的「田舎」に分類されるとは言えそれなりに広い街を、足を使って探索することにした。