深淵なる/眩き希望のローグタリア 終話③ 果て無き妄執の先にあるもの
「……ふーっ……」
死屍累々、というと縁起が悪いが、宴の終わった大広間の様子を一言で表現するならまさにピッタリの言葉である。
意識のあるうちに宿舎に引き上げた優秀な兵士も多くいたが、それも半数程度。残りの半分は大広間で酔っぱらったまま倒れ伏したり、テーブルに突っ伏したり、壁や柱に背を預けたりして眠りこけている。
その中心でテーブルの上にあぐらをかくと言う、行儀の悪い行いをしているのは、他ならぬ皇帝陛下であった。残った酒をぐびっと飲んで、深く息を吐く。
「騒いでた割に、あんまり飲んでなかったな」
兵士たちを起こさないよう静かに、総司がヴィクターの元へ歩み寄った。そんな気を遣わずとも、泥酔した兵士たちが話し声程度で起きるとは思えないが。
「傷に響くんだろ。大人しく休めば良いのによ」
「馬鹿を言うな」
ヴィクターは苦笑しながら言う。
「最初に言った通りだ。騒ぐのも悲しむのも今日限り、無理もしようというものだ」
ゆっくりと立ち上がり、ヴィクターはわずかに顔をしかめた。流石に背中の傷が痛むのかもしれない。
「貴様の相棒も飲んでおらんかったな。感心だ」
「アイツはそういうとこ、ホントしっかりしてるよ」
リシアは今、良い具合に酔ったアレインに付き添って客室へ向かっているところだ。宴会の喧騒もうまくかわして、リシアは素面のままだった。元々酒には異様に強いリシアである、一杯二杯飲んだところで酩酊するはずもないが、生真面目な性格故にきっちりと線を引いていた。
手負いの獣は恐ろしいもの――――弱り切っているからこそ、カトレアが何をしでかすかわからない。最早そこまで警戒する必要もないのではないか、と総司は甘く考えていたが、リシアは「万全を期するに越したことはない」と言って、結局最後まで酒を飲まなかった。アレインは酔う酔わない以前に、魔力をほぼ空っぽになるまで使い尽くしているので、今日の内はもう戦える状態ではないし、総司も疲労は大きい。勝利に貢献する働きをしたとはいえ、余力があるのはリシアだ。本人もそこをきちんと自覚している。
「そういう貴様も、大して飲んでおらんな」
「思ってた以上に疲れてたみたいで……あんまり進まなかったよ」
「なら丁度いい」
ヴィクターがにやりと笑った。
「オレはこの傷ゆえに入れんが、風呂にでも行ってこい。貴様の貸切だ。勝利に酔うには最高の場所であろう」
「……ありがとう。甘えさせてもらうよ」
「うむ。ゆっくり体を休めて来い。貴様とて、明日も忙しくなるだろうしな」
ヴィクターの厚意に甘えて、昨夜二人で楽しんだ『歯車の檻』最上階の大浴場に、今日は一人で入ることになった。
服を脱ぎ捨て、ジャバジャバと適当に体を洗って、静かに湯船に入る。昨日と同じ光景、しかし全く違う心境。湯の熱さが骨身に染みる。癒されるのはもちろんだが、同時に大きな疲れを改めて自覚した。
どっと押し寄せる疲労感と、それが少しずつ癒されていく心地よさを噛みしめながら――――脳裏をよぎるのは今日の戦い、ローグタリアでの出来事。
思い返してみれば数日の話だ。情報が一度に詰め込まれ過ぎて、何も整理できないまま大きな戦いを終えた。
「同郷」の女性のことを深く知る暇もなく、「千年前の当事者」であるカトレアのことも詳細には知れないまま。
何となく、予感があった。リゼット・フィッセルの物語はきっと、「これ以上」はないのだろうが――――カトレアとの物語はまだ終わっていないのだろうと。
女神レヴァンチェスカがわざわざ総司に「知らなければならない」とまで言った謎の少女。既に総司の前に立ちはだかるだけの力は失ったはずだが、恐らくその命に決着をつけるのは――――
ガチャリと大浴場の戸が開いた音がして、総司が呆れた声で言った。
「休むんじゃなかったのかよ。清潔にした方が良いのは良いだろうが、流石に湯船に入るのはやめとけよ、ヴィクター」
「お前こそ、多少なりとも酒が入っているんだ。一人で湯に浸かるのは感心せんな」
総司の体がずるん、と滑って、頭まで一瞬湯船の中に沈み込んだ。
慌ててざぱっと身を起こし、恐る恐る振り向く。
優しい声で警告してきたのはヴィクターではなかった。聞き慣れた女の声。共に六つの国を乗り越えた相棒の声だった。
「流石に脱ぐところを見られるのは気恥ずかしい。しばらく海を眺めていてくれ」
簡素な鎧をさっと外し、リシアが裸になろうとしているところだった。総司はばっと『果てのない海』へと視線を戻した。もちろん既に日は落ちているので、真っ暗でほとんど何も見えず、気を紛らわすのに適しているとは言えない景色である。
「何をやってんだお前は……!」
「ヴィクターから聞いてな。多少照れるところはあるがまあ、良い機会だ。アンジュ殿から“湯着”なるものをお借りしてきた。女性が公衆浴場に入る際の服だそうだ。素っ裸では入らんから安心しろ」
「……ったく……余計な気を回すもんだ」
「皇帝陛下はああ見えて、気遣いの御方でいらっしゃるからな」
支度を終えたリシアが、湯船にゆっくりと入ってくる。長い黒髪を纏め上げた姿は、総司にとっては初めて見るリシアだ。いつもの凛々しい彼女とは違い、新鮮な艶やかさがあった。
他に誰も来るはずがないと思っていた総司は裸だったが、リシアが少し離れた位置に入ったので、態勢を軽く変える程度で済ませた。リシアの言う通り気恥ずかしさはあるが、今更慌てふためくのもどこかダサいと妙な見栄を張った結果である。
「……異常はなかったか」
「ああ。平穏そのものだ。本当に死んでしまったかもしれんな、カトレアは」
リシアが神妙な口調で言う。
「長い旅路だったが、宿に恵まれた。こうして共に湯あみする機会もなかったな。野宿したのもティタニエラからカイオディウムの道中ぐらいだったか?」
「そういやそうだな。あの時もミスティルが手慣れてたおかげで、あんまり苦労した覚えはねえや」
「命懸けの戦いも多くあったが……良い縁に恵まれて、ようやくここまで来た。感慨深いものだ」
「……そうだな。もうすぐ終わりってのも、実感が湧かねえ」
「存外、長い旅の終わりというのは……驚くほど呆気ないものなのかもしれん」
「どうだか。すんなりいってくれればありがたいけど」
リシアがふーっと大きく息を吐いた。
「ようやくゆっくり話せた」
「おー……大変だったな、今日は」
「アレイン様が来てくださらなかったら、我らは負けていた」
「間違いねえな」
総司が苦笑した。
「俺達の見込みは甘すぎた。認めるよ、想定以上の強さだった。アイツが来てくれるとは思わなかったな」
「……お前のことを、心配していらっしゃったぞ」
「……アレインが?」
「ああ。とてもな。そういった想いを表に出さない御方ではあるが、此度は随分とわかりやすかった」
リシアが総司の方へ視線を向け、真剣そのものの声で言った。リシアはアレインを寝室へ送り届けてからここへ来たのだ。その過程で、アレインの言葉をいくらか聞いてきたらしい。いかにアレインとは言え酔った状態だ。総司には言えなかった本音の部分が、リシア相手には漏れてしまったのだろう。
「心も力も強くなったと認めておられたが……レブレーベントにいた頃よりもずっと危うさが増したと仰っていた。私も同意見だ。なんといってもお前からは――――これまでで最大最強の敵を打倒したというのに、その喜びも達成感もあまり感じられん」
「……んなこたぁねえよ」
少しだけ間を置いて、総司が気楽な調子で答えた。
「さっき言った通り、実感がないだけさ」
「……お前は私のことをよく理解してくれている」
『果てのない海』へ遠い視線を向け、リシアが静かに言った。
「私もお前のことを理解しているつもりでいた……だが、やはりわからないこともある。私にも話せないか? お前の心に影を差すものの正体を」
「……リシア……」
「……すまない、忘れてくれ。困らせたいわけではなかった」
リシアが首を振りながら笑って、話題を切り替えようとした。
「明日は朝から“隔絶の聖域”へ行こう。エメリフィムの“オリジン”にお前の魔力を入れられるか試してみないと。もしできないようであれば他の方法を何とか――――」
「第六の魔法“ローグタリア・リスティリオス”は、『俺の命を他者に与える』魔法だ」
リシアの言葉が途切れ、シン、と大浴場が静まり返る。
「“女神の騎士”としての力と共に命そのものを与え、“与えられた者”は“新たなる女神の騎士”として存在することになる。要は――――『死者蘇生』を、単に『蘇生』するだけでなく、更に上の次元で達成する魔法だ」
リシアが目を見開いて総司を見つめるが、何も言えなかった。総司は“隔絶の聖域”で力を返されたと共に得た知識を語り続ける。
「この魔法にはいくつか発動条件がある。一つ、その者の肉体がまだ目に見える形で存在していること。一つ、その者の魂がマーシャリアにおいて、“哀の君”マティアの選定を受けていないこと。つまり“通常であれば”、蘇生させたい誰かが死んでからマティアによる選定を受けるまでのわずかな期間のみ、第六の魔法は発動条件を満たす」
「……通常であれば」
リシアの思考が、総司の説明に追いつき始めた。総司は、リシアが話の根幹を捉えたキーワードを繰り返したことで、リシアが「総司の悩み」に辿り着いたことを悟った。
「な? 困った話だろ?」
わざとらしく肩をすくめて、総司が苦笑しながら言う。
「スヴェン以外の、誰に使うための魔法なんだろうな?」
「ッ……いや待て、早計に過ぎる。短絡的だ。そもそも、お前を犠牲にするその魔法、『使う』という選択肢そのものを排除していいぐらいの――――」
「レヴァンチェスカは俺に約束したんだ。一番最初に……俺はきっと、リスティリアで『死に場所を見つける』ってな。第六の魔法を返された時、合点がいったんだ。こういうことだったのか、って」
穏やかにも見える総司の横顔を見つめ、リシアは思考を回した。
総司の心が、リシアもアレインも、リスティリアで総司と縁を繋いだ誰も望まない方向へ向かっているのは明らかだ。
リシアは神獣王アゼムベルムの意思の残滓に対して、総司には終わり方を決める資格があると確かに言った。だが、総司の望みはもう変わっていると――――繋がるリスティリアを見たいがために、これからも生きる方向へ変わっていると確信していた。事実として、総司の心は「これから」を向き始めていた。
第六の魔法の苛烈に過ぎる「効果」が、総司の心を再び縛ってしまったのだ。六つの国を通して変わっていたであろう総司を惑わす、総司にとってあまりにも酷な、或いは魅力的な力。
もう総司の心は決まっている、というわけではない。ヴィクターの気まぐれで機会を得たこの場こそが、まさに分水嶺だった。リシアは「ここが転換点だ」と確信し、必死で思考を回して――――
「いや……それは、おかしい」
「おかしい……? 何が?」
予想外の言葉がリシアの口から出てきて、総司が眉根をひそめた。
「ルディラントでの出来事は……女神さまですら予想していなかった、想定外の事態だったのではなかったか? お前からそう聞いた記憶があるが……」
「……そのはずだ。アイツが本当のことを言ってるならな」
「では、お前に“返す”予定だった力に、『元からスヴェンに使わせるため』という目的を持たせていたというのは矛盾しないか? お前とスヴェンがルディラントで出会い、スヴェンの憎悪の源泉を知らなければ……お前にその選択肢が生まれるはずがないだろう?」
総司が押し黙る。
スヴェン・ディージングに総司が情を抱いてしまっているのは、他ならぬルディラントの冒険譚があったからだ。
リゼットと同じく、総司にとって広い意味で「同郷」の存在であり、あまりにも悲劇的な物語の主人公となってしまった男。彼の物語の顛末を総司が知ることは、リシアの言う通り「予定されていなかった」展開である。
総司が言った通り、スヴェン以外の誰も、そもそも第六の魔法の「対象」として条件を満たさない。それぐらい制約の厳しい魔法だ。だが、リシアの言う通り「だからスヴェンに使うべき」という結論は短絡的だ。
最後の国の試練を超えてなおもまだ、新たに「わからない」ことが出てきた。第六の魔法が総司に与えられた理由は一体何か――――「死に場所を自分で自由に決めてよい」というレヴァンチェスカの意思表示だとしたら、どうしてこれほどの「条件」を設けたのか。
「……お前には終わり方を決める権利がある、とは思うが」
リシアが静かに言った。
「視野が狭窄したまま選ぶのは避けてほしい。私の望みはそれだけだ」
「……お前が一緒に来てくれてよかったよ」
「今更だな」
総司が心から言って、リシアが苦笑しながらあしらう。二人ともわずかな緊張が解けて、いつも通りの雰囲気に戻っていた。
「……さて、お前が心の内を明かしてくれたことだし」
ザバッと湯から体を上げて、風呂場の縁に腰かけながら、リシアが話題を変えた。
「私もこの機会に、私の考えを一つ話しておきたい」
「面白そうな切り出し方をするじゃねえか」
総司はすいっと軽く泳ぐようにして、真っ暗な『果てのない海』を望む窓の方に寄りながら、にやりと笑う。
「聞かせてくれ」
「“最後の敵”がスヴェンであると確信に至る前――――ちょうど、エメリフィムに到着して間もない頃。リズーリ様と知り合って王都へ入った直後だったかな。覚えているか? お前が王城から溢れ出た“獣”の魔力にあてられて、少し体調を崩した後だ」
「あー、はいはい。わかる」
総司が記憶を辿りながら頷いた。
「リズーリの屋敷でなんか話した記憶があるな」
「そうだ。話の内容は、“最後の敵”の『目的』は何か、というものだった」
「おぉ……全部完璧にとは言えねえが、覚えてるぞ」
「軽くおさらいをしておくと、“最後の敵”が『殺した相手の能力を奪う』能力を持つなら、女神さまの力をも奪い取れるから、リスティリアが消滅し“最後の敵”自身も存在が消えてなくなるような事態にはならないのではないか、という前提を話した。しかしそれは、女神さまがお前に『どうかリスティリアを救い給え』と懇願された事実と少し矛盾するようにも思えて――――その矛盾にこそ、“最後の敵”の『目的』が潜むのではないかと、私が話した」
「うん、うん」
総司が思い出しながらこくこくと頷く。
「要は王ランセムの、『女神の殺害は手段であって、目的は別にある』って話をとっかかりにしようとしたんだったな。けどまあその時は、リシアの結論としちゃあ『見当がつかない』だった。もちろん俺もそう――――俺は今でもそうだけど」
総司の視線がリシアに向けられた。湯着を纏い水に濡れたリシアの姿は随分と色っぽかったが、今の総司には気にならなかった――――そんなことが気にならないぐらい重要な「解」を、リシアが恐らく得ているから。
「辿り着いたのか」
「恐らく。いや、仮説とは言え――――確信に近い、その自信がある。聞くか?」
「頼む」
リシアは少し間を置いて、話した。
スヴェン・ディージングが女神レヴァンチェスカを殺害し、全知全能に等しいその権能を簒奪したとして――――その暴虐の果てに、何を望んでいるのかを。
単に「憎悪を晴らす」という逆恨みに留まらない、彼の狂気の行く末を。