絶望に暮れるローグタリア 第十話⑤ 誇り高き光/妄執の闇
「順調ですね」
司令部にて、ヴィクターの隣に控えるアンジュが、歩を進める神獣王との戦闘を見やり、静かに呟いた。
「もう間もなくディネイザさんの魔法範囲内に入ります。予想より兵の被害も少なく済んでいる」
「うむ。このままいけば首尾よく罠にはめられるが――――それを成してからが本番だ」
「はい」
“オリジン”の包囲網に神獣王を入れるのは、神獣王討伐における前提条件に等しい。それが成せれば有利に働く、という類の策ではなく、成功して初めてローグタリア陣営が土俵に上がれるのだ。
現状、討伐対象である神獣王に有効打は入れられていない。飛行艇の砲撃は神獣王の濃密な魔力に阻まれているし、そもそも届いたところで硬い外殻を突破できるとは思えない。総司の斬撃が届いたのも見えたが、全く効果はなかった。
神獣王の体躯そのものの弱体が不可欠だ。アンジュが打ち立てた作戦は、ローグタリアにとっての生命線と言っても良い。
「ディネイザ、準備はよいな」
『もちろん』
通信機を介して、ディネイザが気楽な調子でヴィクターに言葉を返した。
『いつでもいける。成功するかはわからないけど』
「ハッハー! よい、よい、この策が通じるかは残すところ天運次第よ! ようやくオレらしくなってきたわ!」
ヴィクターは大見栄を切るようにババン、と派手な身振り手振りを――――アンジュとセーレ以外誰も見ていないが――――見せて、司令部の前面に出た。
未だ神獣王と海上要塞の距離はあるはずなのだが、雲にも届きそうな異様な大きさであるが故に、また絶大な力を迸らせる強大な存在であるが故に、神獣王はもう目と鼻の先にいるかのような錯覚を受ける。すぐ目の前にいて、ヴィクターを遥か高見から見下ろしている――――いや、そもそもヴィクターなど眼中にもないのかもしれない。現在の神獣王の意思はカトレアの手の内にあり、カトレアはヴィクターにさしたる執着もないのだ。
「高みの見物を決め込んでいられるのも今の内だ。足元の虫けらを踏み潰す程度にしか思っておらんだろうが――――貴様が踏むのは猛獣の尾であると知れ」
「陛下!」
アンジュの声が木霊する。ヴィクターは片腕をバッと掲げた。
「時は来た! やれ、ディネイザ!!」
ヴィクターの号令が轟くと同時に――――神獣王の周囲で距離を保っていた飛行艇から、一人の魔法使いが飛び出して、空中に魔法陣の足場を張りながら魔法の発動に絶好の位置へと陣取る。
総司とリシアの目が、その姿を確かに捉えた。そこへ横やりが入る。ローグタリア陣営にとっては神獣王と並ぶ脅威にして、最も不確定要素足り得る存在――――
『何か奇策がありそうだね』
神獣アニムソルステリオスの、このタイミングでの妨害だ。
しかし遅い。総司とリシアの二人は阿吽の呼吸で空を切り裂いて、ディネイザの護衛に向かっていた。
ディネイザの行動を阻もうと出てきたアニムソルスだったが、すぐさま総司が突撃し、空中で二人の強者がせめぎ合う。
『っとぉ、強い!』
アニムソルスが意外そうに目を丸くした。以前総司とぶつかり合った時とは違う力が、総司を後押ししているのを肌で感じたようだ。
『“ラヴォージアス”は強烈だ。シルーセンでも邪魔されたっけ。ネフィアゾーラはどうしたんだい? あの様子じゃあ出しゃばってきてもおかしくないと思ったけどな』
総司とリシアをシルーセンでの事件へ誘導したのは、他ならぬアニムソルスである。どうやらその一部始終も見ていたようで、アニムソルスは楽しそうに笑う。
「テメェの気にすることじゃあねえよ!」
『つれないなぁ。けどそれを言うならキミも、私を気にしてる場合かな』
魔法の発動準備に入ったディネイザに、ゼルムの群れが押し寄せているのが見えた。カトレアも既にディネイザの動きを見ている。リシアが護衛にあたっているが、全てをさばき切れない。
飛行艇の中からでは、確実な魔法の発動が出来ない――――高位の魔法使いにしかわからない微妙な感覚の違いから、ディネイザは少しでも魔法の成功率を上げるために今の位置で魔法の発動に入った。しかしそれは護衛の兵士と飛行艇による護りを失うことに繋がっている。
魔法の発動が早いか、ゼルムがリシアを突破し、恐らく満足には動けない状態になっているディネイザを殺してしまうのが早いか。総司がギリッと歯を食いしばった。
その時、海から衝撃波と共に水柱が上がる。アニムソルスの目がぎらついて、淡い青の光を纏って魔力を拡散させた。
その魔力を突っ切って、高い水柱の中から“真実を司る獣”ウェルステリオスが大口を開けて出現し、アニムソルスを食らわんばかりに襲い掛かった。
『だーもう! やっぱりいたな、ウェルス!』
アニムソルスが鬱陶しそうに叫ぶ。
『っていうか今までどこにいたんだ……! 今日気づかないにしても、しばらくローグタリアにいなかったろキミ!』
ウェルステリオスが答えるはずもない。獰猛にも見える怒りの眼差しをアニムソルスへ向けて、決してディネイザには近づかせないと言わんばかりに威嚇している。
総司とアニムソルスのせめぎ合いに割って入ってきたウェルスの大きな体を、総司が足場にした。
「助かった! ありがとな!」
ウェルスが「任せておけ」と軽く吼えた。気配に鋭敏な総司も、ウェルスが海から出てくるなど全く察知できていなかった。
強大な神獣王の魔力が近すぎるあまり、ウェルステリオスの存在が紛れてしまっていた。それはアニムソルスも同じだったようで、ウェルスの奇襲を受けて総司を取り逃がしてしまった。
『く~……! 流石に“アレ”は防ぎたかったんだけどな……キミが相手じゃそうもいかないね』
恐らくは初めて――――微笑を浮かべながらも、アニムソルスが少しだけ悔しそうな表情を浮かべていた。これまで余裕であったかの神獣も、ディネイザの魔法を警戒していたようだ。発動の準備段階に至って、その魔法が神獣王に影響を与えるだろうと察知しているからこその警戒。
つまり、これからディネイザがやろうとしていることは、神獣王に届き得るのだ。
ディネイザの元まで飛んだ総司が、“ラヴォージアス”を用いて周囲のゼルムを一掃する。
総司がディネイザを見た。目が合った。彼女はにこっと微笑んだ。
「ありがと。いけるよ。下がってて」
「頼んだぜ」
ディネイザは両手をばっと前に突き出して、唱えた。
「“レヴァジーア・ディアメノス――――ゼノグランデ”」
ズン、と衝撃が広がり、海から出現した三つの光の柱が天へ昇る。神獣王の威容を囲むように三角形を創り出すそれを、カトレアも確かに見た。
「これは……」
キィン、と額に鋭い痛みが走り、カトレアが眉根を寄せる。
ウェルステリオスの気配を察知できなかったのと同じ――――絶大な魔力のまさに中心にいるからこそ見逃してしまったのだということを、悟る。
「そうか、“オリジン”を――――!」
そして理解した時にはもう遅い。
天から降り注ぐ無数の銀の楔が、神獣王に降り注ぎ、とりつく。
海には白銀の魔法陣が幾重にも重なって展開され、銀の楔と呼応としてバチバチと稲妻を放った。
神獣王の足が、初めて、止まる。
何かしら衝撃を受けたように、頭蓋ががくんと震えた。
銀の楔はふっと消えたが、それは魔法が終わった合図ではない。役目を終えた証。“オリジン”が放つ光を頂点に、魔法陣は未だ健在。
ディネイザの古代魔法は、恐らく下界で最も強い存在である神獣王を、その場に釘付けにして見せたのである。
「成功だ……!」
「よっしゃあ、一旦撤退!」
総司が消耗したディネイザの体をひょいっと抱えて、飛行艇まで飛んだ。
「最高だ、ディネイザ!」
「ふーっ……けど、長くはもたない。”オリジン“を基盤として維持できるようにはしたけど、そもそも術者が私だからね……それに私も、しばらく戦力にはなれない」
ディネイザがポンポンと、抱きかかえられたまま総司の背を叩いた。
「後は任せたよ」
「おう!」
退いていく総司とディネイザを見つけ、カトレアがきっと視線を鋭く睨みつける。
「見誤りました……あなた方も捨て身ということ……認めましょう、私が抜けていた」
“オリジン”は魔法の礎として確かな機能を持っているだろうが、同時に総司とリシアにとっては最重要アイテムだ。失われるかもしれないリスクもあるだろうに、それを使って神獣王の足止めと弱体化を狙ってきた。
読もうと思えば読めたはずの手を見過ごした。カトレアが元来、策士としての素質がないのか、それとも、正常な思考を纏め上げられるだけのまともな精神性すら崩れ落ち始めているぐらいに、体に限界が来ているのか。
それに神獣王の力も、圧倒的ではあるが「本調子」ではない。
“隔絶の聖域”という最後の封印が未だ残っている――――というだけではない。
“オリジン”を体に埋め込み、神獣王の力の全てを掌握しているカトレアにはよくわかる。
邪魔をしている力がある。“女神の騎士”はおろか、周囲を漂う羽虫に等しい兵たちよりも更に矮小で、取るに足りないはずの、あまりにも脆弱なる分際で、神獣王の本来の力をほんのわずかでも損なわせるという規格外の所業を達成している力が、内側にある。
カトレアの表情が更に険しくなった。最早本来在るべき命すら失って、ただ「再現」されていただけの――――命も人格も、今この瞬間見せている最後の抵抗の心意気すらも偽物でしかないくせに、確かに「彼女」の力は邪魔をしているのだ。
「……これが“意思ある生命”の強さだとでも言うつもりか……」
一人、忌々しそうに呟く。命が尊いものであるなど、強い“意思”が奇跡を起こし得るなど、カトレアは認めるわけにはいかない。総司が危ういまでに信じて疑わないそれらを、カトレアは否定する。
もしも本当にそれが世界の真理であるのなら、ではあの日何故ルディラントは滅んだ。
サリアの命は尊いものではなかったのか。国を護らんとする彼女の意思は、奇跡を起こすに足る強さがなかったとでも言うのか。
取りつかれているのは、カトレアも同じ。
誇り高きルディラントの意思が、空っぽの救世主を真に救世主足り得る器へと押し上げたように。
無残に散ったルディラントが齎す妄執が、カトレアを――――あるいはスヴェンを、縛り付けて離さない。
カトレアが更に強い殺意の輝きを瞳に宿し、腕を振り上げたその時だった。
「まずは一本、してやられたって感じかな?」
「ッ……何故まだいるんですか、リゼット」
カトレアが驚きに目を見張る。
小舟で逃げるよう促したはずのリゼットが、ひょっこり外殻のトゲの影から顔を出した。気迫と殺意に満ちたカトレアの雰囲気が、ほんの少しだけふわりと和らいだ。
「死に場所ぐらい自分で選ぶさ。キミと同じでね。それに、助けがいるとみた」
リゼットは笑いながらスタスタと、カトレアの傍に寄った。
「ちょこっと出し抜かれたぐらいでこちらの優位性は崩れないさ。ごらんよ、確かに驚くほどアゼムベルムの体は弱ったというのに、未だ傷一つつけられてない。でもあちらさんは、今こそ勝負所だと思うわけだ。逆にこの状況を利用して、彼らを仕留めよう」
カトレアの肩をポンと叩いて、リゼットが不敵に笑った。
「あたしの言う通りに神獣王と分体どもを動かしてくれ。出来る範囲でね」
「……何をするつもりです?」
「なぁに、どんな策を弄したところで、結局のところ向こうの要は皇帝陛下とソウシくんだ」
まずはローグタリア陣営の策が決まり、彼らは土俵に上がった。
だが、最終的に神獣王に届き得るとすれば“女神の騎士”しかいないことも事実。ローグタリア陣営の精神的支柱がヴィクターにあり、彼が折れれば軍勢そのものが折れるのも事実だ。リゼットはきちんとそれを理解している。
「急所がわかってれば崩すのも容易い。ま、あたしに任せなさい」
「攻め時だ!」
ヴィクターは司令部内に戻り、机の上にあった腕輪をかちりと自分の腕にはめた。
「それは何?」
司令部で事の成り行きを見守っていたセーレが、戦場の雰囲気の移り変わりを肌で感じながら、彼女には珍しく、少し高揚した様子で聞いた。
「我が奥の手――――この要塞の機能の全てを、我が手で操るオレの必殺技というやつだ!」
「あら、もう奥の手が出るの。まだ戦い始めてそんなに経っていないのに」
セーレがくすっと笑う。シルーセンで一度死の間際まで追い込まれた彼女の肝の据わり方は、当たり前だが年相応という言葉からは大きく逸脱していた。総司とリシアが負けて踏み潰されるならそれで良し、とでも言わんばかり。いや、もしくは、総司とリシアの勝利を信じて疑っていないが故に平然としているのかもしれない。
「長期戦になるとは、セーレも思っていないだろう?」
セーレの笑顔に、ヴィクターもまたにやりと笑って応えた。
「ディネイザの魔法が機能しているうちに決着をつけられねば、この戦は負けだ。つまりまさに今この瞬間こそ、雌雄を決する時である!」
シルヴィアの一件以来、ヴィクターの明朗快活さはわずかに陰りを見せていたように見えた。しかしそれは杞憂だった。即断即決は健在、勝負所を見誤らない天性の勘も鈍っていない。
「要塞に待機する部隊も全て! 飛び立つが良い!」
ヴィクターの号令と共に、海上要塞に残っていた第二陣の部隊も一斉に飛び立った。まさにローグタリア軍の全兵力だ。全ての砲塔、防御機構をヴィクターがコントロールし、兵士は残らず戦場へ。総司とリシアの消耗もなく、不安要素の一つだったアニムソルスの抑えは、同格たるウェルステリオスが担ってくれている。
ディネイザが消耗してしまう以上、アニムソルスが前線に出てきたらどうしても総司をそちらへ割く必要があるとヴィクターは考えていた。その攻防の合間を縫って、神獣王への致命的な一撃を入れる隙を探るしかないと。
しかし、総司との約束通り助けに来たウェルステリオスが、アニムソルスの相手をしてくれている。おかげで総司とリシアは自由に動ける状況にある。
わずかな勝ち目しかない戦いで、ひとまず今この瞬間まで、運びは完璧。一縷の望みを確かに手繰り寄せ、失わないままここまで至った。
「セーレよ、『歯車の檻』へ退避せよ。ローゼンクロイツもどうやら壁の上で見ているようだ。二人でのんびり見物しておれ」
「ここが一番安全って話じゃなかったの?」
「いつ奇襲が来るやらわからなかった“これまでは”な。ここから先は違う」
魔力が迸る。ヴィクターの魔力が腕輪を通じ、海上要塞の全域に広がる。
「たとえオレが死のうとも、防御よりも攻撃を優先させるかもしれん。可能性の話だがな、そういう段階に移ったのだ。まあ『歯車の檻』も危険なことに変わりはないが、もし我らが敗北したのちに、後ろへ逃げるだけの時間はあるかもしれん」
「あなた達が負けたらどこへ逃げても同じだと思うけど……」
セーレはこくりと頷いた。
「仰せの通りにいたしますわ、皇帝陛下――――頑張ってね、ヴィクター」
「ハッハー! 万言に勝る激励である、しかと受け取った! 勝利の宴に備えておくが良い、貴様もまた此度の戦で一・二を争う功労者なのだからな! 後で会おう!」
アンジュに連れられて、セーレが司令部を出ていく。その姿を見送り、ヴィクターは笑みを引っ込めて、神獣王を睨んだ。
「さあ本番だな、神獣王……!」
うまく事が運んだとはいえ、ここまでは前提。神獣王の力は圧倒的であり、今もひしひしと肌身に突き刺さってくる。
策は成したが現実を見れば、神獣王はただ「歩みを止めた」だけ。硬い外殻の一部にすら、傷一つ入っていない。現時点での成果は、世界の滅亡をほんの少し遅らせたというだけである。
まさにここからが本番であり、同時に勝負所だ。
「全軍、今一度気合を入れなおせ。改めて命じる――――神獣王を討伐せよ!」