絶望に暮れるローグタリア 第十話④ 決戦開幕
運命の日の朝は、快晴。
未だ星空煌めく明け方の空は、薄明の中でわずかに白く輝き始め、もう間もなく日の光が世界を照らす。
冷たい風がふわりと頬を撫で、その中に混じる刺すような何かが彼らの心を乱そうとするが、しかし彼らは心静かに、彼らの主の号令を待っている。
刺すような何かは、海からだけでなく。
彼らの後方からもびりびりと、まるで夜明け前の世界全てに侵食していくかのように発せられ、その圧倒的な気配が彼らの背中を間違いなく押していた。
司令部の屋根の上で迸る蒼銀。
その更に上空で煌めく黄金。
世界の命運を背負う二人は兵士たちと同じく、この場の全ての命を預かる指揮官の号令を静かに待っている。
飛行艇が三隻、海上要塞の上空を飛んでいた。皇帝ヴィクトリウスの『ヴィンディリウス号』と同じ型の船。兵装を整えたそれらは、互いに距離を大きく空けながら、『果てのない海』へ船首を向けている。
「――――来る」
日が昇り始め、空がにわかに白む。
遥か彼方の水平線に、黒い影が現れる。まだ十分に距離がある――――にもかかわらず、巨大さと強大さが遠目にも伝わってくる。
総司の瞳がその影を捉えるや否や、蒼銀の魔力が爆発するかのように増大し、“女神の騎士”は今にも飛び出さんばかりに力を噴き上げた。そして――――
『全軍、傾聴せよ!!』
司令部から魔法で拡声されたヴィクターの声が轟いた。音圧と気迫で空気が震え、兵士一人一人の顔にも改めて覚悟と気合が刻み込まれる。
『勇敢なる兵士たちよ。よくぞ逃げ出すこともなく、今日この時、この場に集った。諸君の勇気と覚悟に、改めて感謝と敬意を表する』
水平線に現れた影は、ゆっくりと、しかし確かに大きくなっていく。神獣王の歩みは首都ディクレトリアに至るまでわずかも乱れることはなかった。その進撃を止められるとすれば、ここだけだ。
『夥しい数の死者が出よう。あるいは全滅するやもしれん。しかし今一度深く心に刻め――――我らが敗北すれば、死せるは我らのみにあらず。皆の家族も、友も、そして顔も知らぬ他のリスティリアの民も全てが死に絶える』
ヴィクターの声色が変わった。
『貴様らは今この時より“ローグタリアの盾”ではない! リスティリアに住まう全ての民の盾であり、剣である! 来たる絶望、我らが払う! リスティリアの剣、神獣王に届かせてみせよ!!』
怒号のような気勢が上がる。そして――――
『ここに新たなる神話を刻む! 各々、作戦を開始せよ!!』
「“ティタニエラ・リスティリオス”!!」
ヴィクターの号令と共に、総司の魔法が天へと伸びる。
深緑の光が黄金の光に混じり合って、爆裂するように一層の輝きを放った。
「行くぞ!!」
総司とリシアがドン、と海上要塞の前方に飛び出した。
同時に、神獣王の付近から感じられる魔力が爆発的に増大していく。
顕現した直後に放ってきたのと同じ、魔法の砲撃。神獣王の巨大な口が開かれ、全身の刺々しい外殻から発せられた魔力が神獣王の前方に収束した。
わずかの躊躇いもなく放たれたそれの前に、総司とリシアが立ちはだかる。
「フン――――芸のないことよな」
司令部で海上要塞全域の采配を振るうヴィクターは、敵の初手を眺めて笑った。
「侮るなよ、我がローグタリアの技術力を!」
総司がセーレから借り受けた“ラヴォージアス”の力を、リシアの“レヴァジーア・ゼファルス”と共にぶつける。
拮抗とも呼べない一瞬の激突の後、神獣王の砲撃は総司とリシアの魔法を一気に突き抜けていく。総司とリシアが攻撃範囲ギリギリで逃れた。
海上要塞は総司たちが作り出したわずかな時間で魔力障壁を展開する。
障壁は、神獣王の凄まじい攻撃を一度見たことから、ヴィクターによって改良が施されていた。
強度をどれだけ上げたところで、神獣王の攻撃を防ぐことはできない。だが、以前の攻撃を受けたことで「逸らす」だけなら不可能ではないと判明した。
それに特化した魔力障壁の展開経路。海上要塞前方から魔法の軌道を曲げるようにして幾重にも展開されていく魔法陣の壁が、魔法の砲撃を撫でるようにして滑らかに軌道を変え、右後方の空へと受け流す。
魔法に秀でたディネイザの協力もあって実現した、神獣王の破滅的な攻撃を回避するための策だった。
絶大なエネルギーを内包する砲撃は連発が出来ない。至近距離で撃たれれば逸らすのも難しいが、遠距離から放たれた初手を防げたのなら、「ディネイザの魔法範囲」に誘い込むまでの時間を確保できる。
つまり――――
「まずは一つ目の賭けに勝ったな……!」
多少は慣れが見え始めた空中浮遊を駆使してリシアと位置を合わせ、総司がにやりと笑う。
神獣王の初手を予想したのはリシアだった。戦意を折るため、力を誇示するため、カトレアは遠距離からの大火力砲撃で開戦の号砲を上げるだろうと。
“オリジン”と“悪しき者の力の残滓”を取り込んで、命すら投げ打つ代わりに、カトレアの力そのものは相当上がった――――それこそ、普通の人間の身からすれば規格外なほどに。
だが、ヒトとしての格が、器が変わったというわけではない。元来、カトレアは「普通」の域を出ないところにいて、将としての器もない。
力がなくとも器を備えていることが、一目でわかる存在がこの世には確かにいる。エメリフィムの王女などはその典型だ。力なき王女でありながら、彼女には間違いなく王の器が備わっていた。力を手にしたカトレアが、命を賭しても得られないもの。
リシアは一瞬だけ目を閉じ、少しだけ悲痛な表情を浮かべたが、すぐに消し去った。
「たった一つだ。これからあといくつ勝たねばならないか、わかったものではない」
厳しい声で、決然と言う。
「行くぞ。手はず通りにな」
「了解!」
リシアと総司が神獣王の方向へ移動し始めると、ドラゴンに乗ったローグタリア騎兵隊も飛び立ち始めた。
一部は海上要塞上空で護衛に残り、一部は総司たちと共に神獣王へと向かっていく。三隻の飛行艇も速度を上げて、総司たちに追従した。
第一目標は「ディネイザの魔法範囲内に誘い込むこと」だが、だからと言って、姿が見えた上で攻撃までされているのに、神獣王に対し何のアクションもしないのでは、カトレアに奥の手を勘付かれてしまう可能性がある。
必要なのは「必死に神獣王を止めようとする」ローグタリア陣営の姿だ。それでも止められない圧倒的な存在を前にして「最後の砦まで退く」軍勢を見せれば、きっと追い込むために勢いそのまま海上要塞の前面まで踏み込んでくる。
当然ながら――――その過程で、神獣王に突撃を仕掛ける部隊の多くが犠牲になるだろう。総司令官であるヴィクターの見立てでは、仕掛けた部隊の内半分も生き残れば上々。総司とリシアを除いて全滅する可能性が最も高い。
それでもやらなければならない。三つの“オリジン”を駆使してブーストしたディネイザの魔法に絡め取らない限り、ローグタリア陣営に勝機はないのだから。
神獣王の周囲を旋回するゼルムの群れが、総司たちが近づくと次々に襲い掛かってきた。総司とリシアにしてみれば、相当油断しない限りは負けない相手だ。だが兵士たちにとっては強力な尖兵。兵士たちは砲塔を積んだ飛行艇を軸に陣形を展開し、まずはゼルムを迎え撃つ。
「“レヴァジーア・ラヴォージアス”!!」
上から下へ降り注ぐ「圧」。大量のゼルムが海面に叩きつけられた隙に、三隻の飛行艇が前へと進んでいく。
ゼルムの軍勢の総数が、思っていたよりも少なかった。総司の感覚的な問題、もしかしたら誤差の範疇かもしれないが、神獣王の姿が捉えられないぐらい大量のゼルムがいると思っていた。嬉しい誤算だ。
総司はぐんと高度を上げて、雲にも届くほどにまで上昇する。
神獣王の姿が――――頭上に佇むカトレアの姿が、確かに見えた。
その瞬間、総司が迷いなく剣を振るう。
飛ぶ斬撃が蒼銀の光を帯びて神獣王の頭へとまっすぐに飛んだ。
硬い外殻に覆われた頭蓋が、高い魔力の防御を纏いながら、総司の斬撃を微動だにせず弾き切る。カトレアの瞳もまた、未だ肉薄するには程遠い場所にいる総司の姿を確かに捉えていた。
「舞台は整いましたね――――決着をつけましょう」
飛行艇の攻撃は苛烈を極め、爆裂の嵐が空を覆う。間を縫うようにして飛ぶドラゴンの騎兵隊たちは、飛行艇と驚くほどの連携を見せ、飛行艇に近づくゼルムを丁寧に相手取りながら接近を許さない。
だが、巨大なる神獣王は微動だにせず、高濃度の魔力に守られてただの一撃も浴びることなく、何食わぬ顔で歩みを進めている。
足元を飛び回る羽虫を、わざわざ追っ払おうとすらしない。まるで何の障害もないかのように、神獣王の歩みは緩まることなく、恐らくは今までと同じペースで海上要塞に向けて進んでいる。
砲撃の嵐、飛び散るゼルムの体躯の中を、総司が突き進む。
ローグタリア飛行部隊を気にかけていないカトレアに、もしも油断と呼べるものがあるのなら――――このまま神獣王の頭上にとりつくことが出来れば、陸地でカトレアと「一対一」で戦うのと変わらない状況に持ち込める。
カトレアを殺し“オリジン”を奪うことに大きな意味はないと、リシアが以前予想を立てたが、強大な神獣王から「ヒトの基準による警戒」という機能を奪えるのなら、それはマイナスには働かないはずだ。そのまま“オリジン”三つが待ち受ける場所まで無警戒に突っ込んでくれれば御の字。
大きすぎて強すぎる敵が相手なら、それに相応しい「横綱相撲」をしてくれた方が良い。搦め手で何とかしようとするなら、相手が無警戒であるほど良い。
総司の突撃を読んでいたか、カトレアの瞳がぎらりと殺気を帯びると共に、神獣王の体から発せられる魔力の質が変わった。
総司にも覚えのある気配――――“怨嗟の熱を喰らう獣”の力。エメリフィムで掠め取ったらしいその力は、神獣王に注ぎ込まれていた。
「皆――――!」
『総員距離を取れ!!』
総司が叫ぶよりも早く、ヴィクターからの号令が飛行艇から響いた。
『果てのない海』の遠洋にまで声を届かせる技術を持っているのがローグタリアである。飛行艇を介して届けられたヴィクターの命令に、兵士たちがすぐに従った。
神獣王の刺々しい外殻の一部に、最早見慣れたと言ってもいい怨嗟の蒼炎が宿る。それらは巨大な鞭のようにしなって、近づいてきた外敵を薙ぎ払うように動いた。
ヴィクターの指令が間に合わず、一部の部隊が海へ落ちていくのが見えた。助けられる距離にいない。総司は歯を食いしばって神獣王を睨んだが、近づけない。
「チッ――――!」
蒼炎の触手がふっと消える。鈍重な神獣王の近接戦闘を補う力――――というよりは。
ゼルムの軍勢と強烈な神獣王の魔力を突破し得る総司に対して用意された、単純だが無敵に近い護りだ。
「逸るな」
ヒュン、と風を斬る音。リシアが総司の傍に飛んできて、冷静に声を掛けた。
「ここから先が重要だ。もうすぐだぞ」
神獣王がわずかに攻撃の意思を見せるだけで、兵士は容易く海へ墜とされる。神獣王を今止めるための犠牲ではなく、罠へ誘い込むための犠牲――――わかっていても体が動きそうになるが、総司の仕事は別にある。
「わかってる……!」