絶望に暮れるローグタリア 第九話③ 絶望の顕現
「どうだったね、最後のお話し合いは」
「茶化さないでください」
アゼムベルムの“殻”は静寂の中で佇み、「昼間の疲れ」を癒すかのように微動だにしていない。
『果てのない海』の洋上に創り上げられた異空間。アニムソルステリオスが手ずから創り上げた空間内への干渉は、リゼット・フィッセルとカトレアにしか許されていない。
巨大な“殻”の背の上で、カトレアは座り込んで体を休めながら、リゼットの軽口に小さな声で答えた。
「……意外な適合だ」
リゼットは注意深くカトレアを観察して、感心したように言った。
「キミの身の丈に合っていないと思っていたけどね。非礼を詫びよう」
「正しい見解ですよ。器だけで言えば足りませんので」
「深くは聞くまいよ」
リゼットはポイっと携帯食料を投げた。カトレアが少し慌てた様子でそれを受け取る。
「……船に戻ればありますよ、食料ぐらい」
カトレア、ディオウ、リゼットの三人は、『果てのない海』までローグタリアで調達した機帆船で出てきている。リゼットやカトレアが総司たちにあれやこれやとちょっかいを出している間も、ディオウは船の中で出番待ちだった。
当人曰く「もはや自分の出る幕はないが、命令があればいつでも行ける」とのことである。
雇い主であるカトレアに従順なディオウではあるが、カトレアのように“悪しき者の力の残滓”を取り込むことは拒否したし、カトレアもそれを正しい判断だと思っていた。ディオウでは制御できない力である。
必然的に、既にディオウの力ではできることは限られるので、ディオウ本人の認識は正しいが――――エメリフィムでの大敗以降もカトレアに従うことを選んだ彼である。最後はカトレアの盾になる覚悟も決めていることだろう。
「良いから良いから。酒もあるよ」
「結構です」
「そうかい。じゃ、一人でやるかね」
リゼットは酒瓶を取り出し、カトレアの隣に乱暴に腰を下ろした。
「何か話したいことでも?」
「コイツが完全覚醒するまでもう少し時間がある。暇なもんだ。良いだろ、ちょっとぐらい無駄話したって。それとももう寝るかい?」
「……構いませんが。今日は無駄な力を使いましたね。それがなければ多少早められたのではないのですか?」
「誤差だよ誤差。コイツの試運転みたいなもんだ。まぁギリギリだったけどね」
ローグタリアへの奇襲に、半覚醒状態のアゼムベルムを使った。莫大な魔力で以て海底の大岩を天高く飛ばさせて落とす、非常に原始的だが強烈極まりない攻撃。女神の騎士によって見事に阻まれたそれは、アゼムベルムの力を以てすれば手すさびに等しい。
「あたしの力もどんどん通じなくなってる。予定通り、多分明日の夜までにはってとこだろうね」
「ですがあなたがいなくては」
カトレアは無感情な声で言った。
「私一人でも厳しい。これほど身を捧げてなおも。改めて、規格外の力です」
「どうだろうね。たかだかヒト一人が身を捧げた程度で、世界を滅ぼし得る力が手に入ると考えれば……安すぎる気もするね」
「……言われてみれば、確かに」
強めの酒を瓶から直接ぐいっと飲んで、リゼットが笑う。
「あちらさんにはそれこそ、ラスボスみたいな扱いしてんだろうけどさ」
「……らすぼすとは?」
「おっと。ざっくり言うと、物語の最後にして最大の敵って意味さ」
「なるほど。“あちらの言葉”ですか」
「ソウシくんたちはそう思ってるだろうけど、こっちも意外とギリギリなんだってのは知られるわけにはいかないねぇ」
神獣王アゼムベルムを完全覚醒させ、リスティリアごと女神の騎士を踏み潰す――――カトレア最後の秘策にして、総司を打倒するための大本命。策は確かに成ったが、神獣王をヒトの手で覚醒させる所業はリスティリアにおいて前代未聞である。
“レヴァングレイス”は一対を揃えることで神獣王を制御できる――――できるが。
一千年前それを成し遂げようとしたのは、カトレアとは格が違う存在だ。一個の生命として根本的に別格である大魔法使いが手を出そうとした悪魔の所業である。
幸いにも昏い野望は潰えたものの、もしも封印の全てを破壊せしめることができたなら、彼にならば可能だったのかもしれない。
カトレアにそれができるのかどうか――――制御しようと“オリジン”を使う者の格は、果たして結果に影響しないのかどうか。
「あたしの権能はもちろん最後まで貸すけれど、どこまで役に立つかも未知数で、そもそもキミが最後まで持つのかもわからない」
「そうですね」
「ま、それぐらいが良いよね」
空になった瓶をぽいっと放り投げて、リゼットが気楽な調子で言った。
「勝っても負けてもお別れだ」
「……ローグタリアを落としたら、あなたの望み通り世界を滅ぼしますよ。あなたの言う『この世の果て』を見せてあげます」
「……多分、キミは持たないよ。世界を滅ぼすまでに力尽きるだろう」
リゼットが静かに告げる。
「キミが死ねば、アゼムベルムは制御を失って暴れ回る。あたし一人ではとても制御できないし、女神の騎士で止められなかった場合は当然、他の誰も止められない。滅びゆく世界と共に私も死んで、誰もいなくなって、終わりだ」
「……では私が負ければ、あなたは生き残れるのですね」
「ハッ!」
カトレアの言葉に、リゼットが派手に笑い声をあげた。
「ごめんだね」
「……私が言うことでもないのでしょうが」
カトレアはひっそりと言った。
「自死は、できれば選ばない方が良い」
「……命を捧げ尽くしているキミが言うのかい」
カトレアが押し黙った。リゼットは薄く微笑んで、
「心に留めておこう」
とだけ言った。
カトレアが更に言葉を繋げようとした時、異変が起こった。
額に強烈な痛みを感じて、カトレアががくんと項垂れる。リゼットがハッと目を見張って、慌ててカトレアの傍に寄って肩を抱いた。
「どうした? 何か――――」
「ぐっ……」
額に埋め込んだ“レヴァングレイス”の魔力が急激に高まっているのを、傍にいるリゼットも感じ取った。女神の魔力が“悪しき者”の力に穢されて、禍々しい気配を伴って拡散している。
「……リゼット」
「何だい? やっぱり水でも持ってこようか――――」
「ディオウをここへ」
「彼を? まあいいが……大丈夫なんだね?」
「ええ、問題ありません」
カトレアは苦悶の表情を浮かべながらも、力強く頷いた。
「そしてあなたも準備を」
徐々に痛みが引いてきたか、カトレアの表情にわずかな余裕が戻った。
「やはりこの力は、ヒトの想定など通じない領域にある」
「……わかったよ」
カトレアの言葉から事態を察したリゼットが、その場を足早に離れる。
カトレアは深く息を吐いて、ふっと寂しげに笑う。
「……好都合ですよ……私の命の期限がそう長くないのであれば……」
ぎゅっと拳を握り固めて、決然と。
「謝りはしませんよ、ディージング――――彼との再会は、諦めてもらいます」
『歯車の檻』の高所にある皇帝の執務室。
その窓枠にとまった鳥が、寂しげに呻くような鳴き声を発する。アンジュは鳥をそっと抱きしめて、羽を優しく撫でてやる。
翼の動きを邪魔しないよう、体に括りつけていたはずの手紙がなくなっていることを知る。もとより間に合うはずのない手紙だ。まさか一日二日で目的地まで届けて帰ってくるというのは不可能な距離を依頼したはずだった。
途中で妨害に遭い、その手紙は奪われたということ。
間に合うはずがないとわかっていたから、手紙に全ての希望を託していたわけではない。それでも、アンジュは落胆し、深いため息が出てしまった。
神獣アニムソルステリオスの襲撃から一夜明けて、既に海上要塞での作業は始まっている。絶望に一歩一歩近づく日々が、また一つ進んだ。
「どうやら、敵は私たちの考えている以上に周到のようです」
「ふぅむ? どうだかな」
絶望感を滲ませながらぽつりと感想を漏らしたアンジュに、ヴィクターがどこか楽しげな声で答えたものだから、アンジュの表情がみるみる険しくなった。
「……何をお考えなのですか?」
「なに、事はそう単純ではないかもしれんと、それだけだとも」
ヴィクターは机で何やら作業をしていた。ほとんど徹夜の作業だった。
海上要塞を扇のかなめとして、アゼムベルム迎撃の布陣を考えていたようだ。
「そろそろソウシを呼ばねばならんな」
「先ほど声を掛けてきましたよ。食堂にいらっしゃったので」
「そうか。神獣王の覚醒まで時間がない。リシアの話を信じれば今日にもヤツは洋上に出現する」
神獣王が顕現するまで、早ければ二日。シルヴィアが語った想定通りであれば、今日の終わりにはアゼムベルムが顕現する可能性がある。
神獣アニムソルステリオスですら、総司の力がなければ“ただのヒト”の手には余る。リシアとディネイザが応戦してようやく押し留められる相手だったが、それも本気ではなかった。
その更に上を行くであろう神獣王との決戦に備えようとしても、出来ることはそう多くない。
「この戦いはソウシを信じ、ソウシを勝たせるためのものだ。ヤツにも我が秘策を頭に叩き込んでもらわねば」
「……たとえ我が国が滅びようとも、ですね」
「そうだ」
「……ええ、わかっています」
『歯車の檻』内部はいつにも増して閑散としていた。兵士をはじめとして多くのスタッフが、既に海上要塞に詰めかけていて、決戦に向けて準備を進めている。
今日、明日、明後日が命日となるかもしれない、限界の状況にあって、それでもなお懸命に。
アンジュ・ネイサーだけが――――突如として訪れた絶望的な状況と、未だ癒えぬ妹の真実による精神の疲弊に、覚悟を決め切れずにいる。それがヴィクトリウス皇帝の足を引っ張ってしまっているのだと頭ではわかっていても。
「おっ、来たな! ハッハー、その様子ではそれなりに眠れたようだな!」
執務室へ上がってくるエレベーターが、ガチャガチャと音を立てて、総司とリシア、それにディネイザが上がってきた。
「寝心地が良かったもんで」
「それは重畳。こっちへ来い。今後の話をするぞ」
ほどなくして、今日の作戦会議が――――
「ッ……これは……?」
机に寄って図面を見ようとした総司が海の方向を見た。
他の誰も気づいてはいない。異常に察知能力の高い総司だけが最も早く異変に気づいた。そして遅れてリシアとディネイザが知覚し――――
直後、ズドン、と地震のような衝撃が瞬間的に『歯車の檻』に襲い掛かり、部屋の家具が大きく揺れる。態勢を崩したヴィクターを総司が支え、同じく転びかけたアンジュをリシアが抱き留めた。
「何事だっ……」
ヴィクターが怒鳴り声を上げようとした。
だが、その声が奪い去られた。
強烈な衝撃の直後に、物理的な衝撃よりもよほど凶悪で鮮烈な、あまりにも強大に過ぎる圧倒的な魔力の気配が襲い掛かってきたからだ。
莫大な魔力は薄く淡い赤と黒の稲妻を纏って、海から陸へ、気配だけでなく視覚的にも十分認識できるほど濃密に、波のように広がってくる。全身に焼き付くような感覚、押し潰されるような威圧感。
「ハッ……!」
総司の口元には笑みが浮かんでいた。
決して余裕の笑みではなかった――――想定以上の脅威、破滅的な未来を想起せざるを得ない強すぎる力に、思わず呆れた笑みがこぼれたのだ。首筋を伝う冷や汗の感触が生々しかった。
「来たな、遂に……!」
総司の視線がリシアへ走った。
声が出せないほど圧倒されているヴィクターとアンジュをよそに、リシアの表情は既に驚愕を消し去り、臨戦態勢であることを告げる凛々しいものへと切り替わっている。
総司が感じたのと同じように、彼女も絶望を感じたはずだが、その色は顔に出していない。覚悟を決めた戦士の顔つきだ。
リシアはパッと窓に寄って海を見た。
薄い赤と黒を纏って広がった魔力の波動は霧散し始めていたが、莫大な力の気配は消えていない。
遥か海の向こうに、絶望的に強大な存在がいる。
「我々が目にしたあの巨大な姿がここから視認できない」
冷静に、リシアが言う。
「やはりフォルタ島近辺と見て良いだろう。そこは想定通りだな」
「ヴィクター!」
「ぬ、ぐっ……えぇい!」
ヴィクターは自分の頬をバシン、と強く叩いて気付けをして、総司たちへ号令をかけた。
「急ぎ海上要塞へ向かえ! 既に兵たちも気づいてはいるだろうが、全軍に神獣王顕現の報せを回せ! オレもすぐに行く、勝手に出るなよ!」
「了解! 行くぞリシア、ディネイザ!」
「ああ!」
「はいよ」
三人が窓から飛び出して海上要塞へ跳んでいく。
ヴィクターは自分の膝がわずかに震えていることに気づき、ガンと一発殴って、未だ放心状態のアンジュの腕を掴んだ。
「アンジュ!」
「ッ……はい……」
「気を落ち着けよ。そして落ち着いたら海上要塞へ来い。しばらく休んで構わん」
「いえ、いえ……! そのような時間はどうやらないようですのでっ……!」
「ダメだ」
ヴィクターは強引にアンジュを抱きかかえると、どさっと椅子に座らせ、グラスに水を注いで半ば強制的に飲ませた。
「もう一杯ゆっくり飲んでから来るように。良いな」
「……はい……」
ヴィクターはそれ以上何も言わず、ガチャガチャと稼働するエレベーターに飛び乗って執務室を出て行く。
その姿をぼんやりと見送って、アンジュは自分の手に顔をうずめた。
「……こんな……こんな……!」
漠然とした絶望があるだけだった。強大な敵、凄まじい敵、頭ではわかっていたし、国家存亡の危機であることはきちんと理解しているつもりだった。
しかし、今まさに現実として、絶大なる神獣王の魔力を肌で感じた時、形のない朧げな絶望は確信へと変わった。
ローグタリアは滅びる――――そしてリスティリアも滅びる。
あまりにも非情な現実を前にして、涙の一つも出てこない。
「……もう、世界は……」