深淵なるローグタリア 偽章開演 絶望に暮れるローグタリア
「『果てのない海』に強力な魔力反応を観測しました!!」
絶望が来たる海を絶えず観測していたローグタリア兵士が、海上要塞の司令部に飛び込んで叫んだ。
呑気に紅茶をすすりながら、これからの作戦を立案していたヴィクターが、思わず紅茶を噴き出した。
あいさつ回りを終えてヴィクターの元に帰ってきていたリシアの表情がさっと変わった。
「何だとォ!? 位置は! ソウシが言っていた場所か!」
「いいえ――――すぐそこです! ほとんど目と鼻の先に!」
ヴィクターが立ち上がった時には既に、リシアは司令部を飛び出し、飛び出すと同時に“ジラルディウス”を展開していた。
光機の天翼を背に携えて、一直線に洋上へ舞い上がる。
だが、いない。総司と共に見た“アゼムベルムの殻”は、それこそ水平線の彼方にいても十分目視できるほどに巨大だった。空へ飛び出さずとも、兵士の言う通り「すぐそこ」にいるのなら見えないはずがないのだ。しかし、リシアの視界にはそれらしき巨大な姿はどこにも――――
「……シルヴィア……」
海の上に、小さな人影。
水面に立つその姿は、朧げではあるが、シルヴィアのもの。
しかし顔に瞳も口もなく、ただ光と影で構成されるヒトの輪郭が漂うように立っているだけだ。
シルヴィアの朧げな体が、妖しい光を伴って弾けた。
弾けて飛んだ光の欠片は海にひらひらと舞い落ちて――――黒く濁る。美しい海に泥を落とし、泥の中から出で来たるは、甲虫のような、神獣の分身ゼルム。
無数のそれらを目にして、リシアは悟った。
首都ディクレトリアを襲った甲虫の群れは、リゼットの“獣”を操る権能によって出現した。リゼットの権能は神獣そのものには満足に作用していないというのがリシアの見立てではあるが、劣化コピーとでも言うべきゼルムの制御は可能なのだ。
これはつまり、リゼットによる先制攻撃。アゼムベルム本体が行動可能になるまでの間、手をこまねいて、ローグタリア勢力の準備が整うのを待っているわけがない。
「まずい……!」
兵士数人では到底敵わない、一個体が強力な敵だ。ざっと見ただけでもゆうに百を超える。しかもこれからどれだけ増えるかわからない。
この強力な軍勢に、自由な散開を許してしまえば被害は計り知れない。まだある程度、固まった位置にゼルムの群れがいる間に、少しでも数を減らさなければならないと、リシアが魔法を放つため射角を調整し始めた時、力強い声が響く。
「“ゼグラネスカ・ディアメノス”!!」
海上要塞の中心上空へ、白銀に輝く剣のような巨大な十字架が出現し、古代の文字を纏って円形に魔力を放つ。
拡散した光が鎖の形を成し、海上要塞はおろか、ゼルムがいる空に至るまでをドーム状に覆った。
リシアの目にも明らかに、ゼルムの羽の動きが鈍り、リシアの強力な魔力の気配から逃れようとしたゼルムたちが不自然に動きを止める。
リシアの“レヴァジーア・ゼファルス”が空を駆け、ゼルムの群れを一気に薙ぎ払った。
その様を見て、魔法を放ったリシア本人が目を丸くする。
リシアの力であれば、ゼルム一体一体を相手取れれば決して脅威ではないが、かと言ってレヴァジーア・ゼファルスの一撃でこれほど容易く、大量のゼルムを撃墜できるとは思っていなかった。それだけ強力な個体群なのだ。
動きだけではない――――明らかに魔法的な防御力も格段に落ちている。ディネイザの古代魔法“ディアメノス”の影響下に置かれたゼルムは、大幅な弱体化を余儀なくされているようだ。
「万物に制限を課す古代魔法……話には聞いていたが、これほどか……!」
海上要塞司令部の尖塔の上に立ち、ディネイザが空を油断なく見据えている。
リシアの派手な一撃で戦力を削ぎ落したが、ゼルムは次々に湧いて出てきているようだ。減らしたはずの数が徐々に戻り始めている。数分と待たず、元通りかそれ以上の軍勢を成す。
だが、ディネイザの表情に焦りの色はない。続々と海上要塞から飛び立ち始める、武装した小型のドラゴンと、それに跨るローグタリア兵士たち。ディネイザは勇敢な戦士を見送りながら微笑んだ。ディネイザには敵を撃墜できるだけの攻撃力がないが、その分は彼らが担ってくれる。
ディネイザは笑みを引っ込め、じっと空を見つめた。
「“ゼグラネスカ”の支配下で戦う限りは問題ない――――この程度の相手ばかりならね。けれど恐らく、そう遠くないうちに本命が来る」
兵士たちと連携してゼルムの群れを迎え撃つ、上空のリシアの動きと強さは見事の一言。ディネイザの目から見ても傑出した戦闘能力の持ち主だ。現在のリスティリアにおいては、どの国に所属したとしても最高戦力となり得る破格の存在。
だが、今回相対する敵は、国はおろか世界すら相手取ろうとする強大さを持っている。その襲撃が雑魚を数多くぶつける程度で終わるとは、ディネイザには思えなかった。
「早めに呼びに行った方が良いかもね、彼を。皇帝陛下ならちゃんと気付いてるかな」
悪い予感というのはいつだって的中するもので、ゼルムとの戦闘開始から十数分が経過し、明らかに数が減り始めた頃。
ディネイザの予想通りに、本命が姿を現す。
ローグタリアの決戦において最も不確定な、かの存在がリシアの上を取った。
『おかしいな、ソウシがいないのはどういう了見だい?』
ぞわりと悪寒を感じて、リシアが咄嗟に声のした方向から距離を取る。
神獣としての強烈な魔力を隠しもせずに発散しながら、神獣アニムソルステリオスが、レスディール・スティンゴルドの姿のままで出現した。
「アニムソルス――――!」
『“本番”に備えて温存かな? 別に間違った判断とまでは言わないけど――――私を相手に出し惜しみしてる余裕が、キミらにあるとは思えないな!』
アニムソルスの強烈な魔力が、更にその強さを増して、レスディールの細腕がリシアに向けられる。
神獣であり、本来であれば“女神の騎士”の同胞とも言うべきアニムソルスが、“女神の騎士”の相棒であるリシアに、迷いなく敵意を向けた。バチバチと稲妻のように迸る淡い水色の魔力が、渦巻く光となって放たれようとする。
その腕に、ズドン、と銀色の杭が突き刺さる。物理的な損傷を伴わないのか、血も出なければアニムソルスが痛がる素振りすら見せなかった。そもそも神獣の体を傷つける物理攻撃など、滅多に存在し得ないものだ。この銀の杭は、アニムソルスを傷つけるためのものではなく――――
「“レヴァジーア・ディアメノス”!」
ディネイザの魔法の「楔」、そしてトリガーだ。
アニムソルスが翳した腕から、リシアに向けて放たれるはずの魔法がふっと消え、アニムソルスが楽しそうに笑った。
『“ディアメノス”! そっかそっか、空の“アレ”もか。道理で一方的だったわけだ。気づかなかったな』
ぐっと腕に力を入れる仕草一つで、銀色の杭をバギン、と折って取り除き、アニムソルスが海上要塞へ視線を向ける。
睨みつけてくるディネイザとばっちり目が合って、アニムソルスの笑みが深まった。
ミスティルの古代魔法“ディスタジアス”が、かつて天空の覇者ジャンジットテリオスを脅かしたように、古代魔法は神獣にすら効力を及ぼす、魔法としての“格”を持っている。無警戒だったアニムソルス相手に、ディネイザの魔法は間違いなく機能した。
だが、攻撃能力を持たない“ディアメノス”では、アニムソルスを相手にした場合一時的な足止め程度の効果しか発揮しない。神獣が本気で警戒し始めたら、“ディアメノス”によって容易く能力を削げるとは思えない。
『私が出てきたのにソウシが出てくる気配すらない――――そうか、いないんだね。どこへ行ったのやら』
「そんなことよりも、貴殿がここへ来た理由の方が重要だ!」
リシアが厳しい顔で怒鳴った。
「どういう了見だ、アニムソルス! 神獣ともあろう者が、女神さまの愛する下界の国と民を害しようというのか!」
『私だって不本意なんだけど、そういう命令なもんでね』
軽い口調で、心にもないことをのたまう。
ディネイザの魔法の範囲内では、ゼルムの討伐がどんどん進められている。無尽蔵に湧いてくるゼルムの群れも、今のところは為す術がないようだ。
“ゼグラネスカ・ディアメノス”がそこに在る限りは、である。
リゼットの権能によって支配下に置かれている――――ふりをしている、と思しきアニムソルスが、真意不明だがディネイザの元に向かってしまえば、この戦況は一変する。
通すわけにはいかない。どこまで本気かはわからないが、リシアとしてはアニムソルスを『ローグタリアを滅ぼさんとする怨敵』と見なして、全力で迎撃するしかない。
タイミング悪く総司がいない現状、神獣を相手に空中戦を展開できるのはリシアだけだ。
当然、流石のリシアでも役者不足ではあるが、リシアが相手取る以外に選択肢はない。一時的ではあるがディネイザの魔法もアニムソルスには効力を及ぼすことがわかった。
神獣であるアニムソルスが破格の魔力を持っていることは疑いの余地がないが、しかしジャンジットテリオスほどの圧は感じない。凌ぐだけなら、不可能ではない。リシアは視線を鋭くアニムソルスへ向け、魔力を増大させていく。
『イイね!』
増大する“ゼファルス”の力を肌で感じ取り、アニムソルスが笑う。
『研ぎ澄まされた歴戦の脈動だ。短い間で、よくここまで己を伸ばした。私も気を抜くとヤバいね』
「……いつまでも貴殿の悪ふざけに付き合ってはいられない」
剣を構え、リシアが厳しい声で言う。
「退かないのなら、ここで討つ」
『やはり最高だよキミは。かかっておいで』
「カトレア……」
「どうも」
総司の茫然とした姿に何を思ったか、カトレアはふーっと深くため息をついて、首を振る。
発散される黒々とした禍々しい魔力が、カトレアの失望に合わせて揺らいだように見えた。総司にも覚えのある魔力の気配――――“活性化した魔獣”と同じ、“悪しき者の力の残滓”。女神の領域から下界へとこぼれ落ちた、千年来の憎悪の雫。
その力に心を一切冒されることなく、完全に制御し切って見せた存在は、総司の知る限り一人だけ。希代の天才アレイン・レブレーベントだけだ。
そしてカトレアに、あの王女に並ぶほどの格はないはずだった。
カトレアは総司の見立てに反し、見事に“悪しき者の力”を制御している。その身に取り込んで、自分のものとしてコントロールしている。額に埋め込んだ“レヴァングレイス”の効力か、それとも――――
「あの女神に何事か吹き込まれましたか」
呆れたような、失望を隠そうともしない声。総司が眉根を寄せ険しい顔をするのも気にせず、カトレアは続ける。黒に冒された眼光が総司を射抜いた。
「諸悪の根源が目の前にいるのに、剣に手を掛けようともしない。エメリフィムでのあなたであれば、既にその剣が私の首に飛んできていたでしょうに」
剣の振るい方を選べと、レヴァンチェスカは言った。総司は既に選んでいたつもりだった。唯一、総司が殺意を向けることを躊躇わない相手。カトレアはそういう存在だったはずだ。
カトレアもそれを知っているからこそ、微動だにしない総司に失望した。この期に及んで、女神に何か二言、三言告げられた程度で、覚悟が鈍ったのかと訝ったのだ。
「……多少、迷った、かもな」
総司がすっとリバース・オーダーの柄に手を掛ける。
「けど安心しろ。お前にどんな事情があったところで、俺達はもう殺し合うしかない。よくわかってる」
「当然です」
無感情に、カトレアが頷く。
「どのみちこちらは、国どころか世界の敵。それに相応しい行動を起こし続けてきた。勝利できなければ処刑されるだけ。今更あなたが多少躊躇ったところで、それは覆りようがない」
既に覚悟は決まっていると言いたいのか、カトレアの口調は淡々としていた。
カトレアは「自分と総司で」決着をつけることを望んでいる。まるで総司を焚きつけるような言葉選びの理由は、今更総司に迷いを抱かれるのはカトレアとしても本意ではないから。
首都ディクレトリアで会った時のカトレアならば、総司と向き合って戦いが始まれば一方的なものになるほかなかった。
“活性化”の鍵となる力を掌握した今現在の実力であっても、総司と一対一ではまだ分が悪いはずだ。それでも、彼女は挑発するように言葉を選んだ。
カトレアの腕がヒュン、と鋭く横へ動いた。
いつの間にか、剣と盾を合わせたような、独特の形状をしたカトレアの武具がその手に収まって、魔法を使っていた。
総司の目がぎらりと光って、咄嗟に身を翻す。
ほとんど不可視の水の刃が、総司の首元を捉えようと飛んでいた。回避と同時に剣を抜き放ち、応戦の構えを見せる。蒼銀の魔力がうねりを上げて、カトレアの頬に焼き付くように迫った。
「ここで戦うつもりで来たのか」
「まさか。そこまで無謀ではありませんよ」
言いながら、カトレアは次の手を放った。渦巻く水の槍が無数に出現し、総司の周りをっぐるりと囲んで突き刺してくる。
総司はリバース・オーダーを豪快に振るって、水の槍を残らず消し飛ばした。
「言葉と行動が一致してねえよ」
「まだ揺らいだままならこれで殺せると思っただけです」
相変わらず淡々と、カトレアは言う。
「そう簡単にはいかないようで、何よりです。準備を重ねたかいがありました。やはりあなたには、アゼムベルムをぶつけるしかないようです」
ピン、と空気が張りつめた。
エメリフィムの“泡沫の霊殿”で、総司は最大の攻撃力を誇る“シルヴェリア・リスティリオス”で以て、カトレアを殺そうとした。
“海底神殿”の最奥にいる今、同じことは出来ない。総司の究極の一撃は、出力こそ絞れるものの、基本的には破壊を伴う。
神獣王アゼムベルムの力を抑える最後の封印。“隔絶の聖域”たるこの場所に、封印の効力を失わせるわけにはいかなかった。
「戦うつもりがなかったんなら、何をしにここへ来た」
「当然、破壊するために来ました。今の私であればそれが可能ですから」
「違う」
総司が言うと、カトレアがぴくりと気に入らなさそうに反応し、目を細めた。
「違う?」
「“聖域”に来る理由にはなっても“ココ”まで来る理由にはならねえって言ってんだよ。この期に及んでごまかすな」
カトレアの力は、禍々しい魔力を取り込んでなおも、総司に及ぶ次元にはない。だがこれまでとは違って、気を抜けば抑えられる。油断は許されないが、それ以上に総司を警戒させるのはカトレアの様変わりした雰囲気だった。
エメリフィム以前のカトレアからすれば、破格の力を我が物としているはずなのに、何とも所在なさげで朧げなカトレアの気配が不気味に思えた。
「……私には、あなたへの情など微塵もありませんが」
ふっと力を抜いて、心底鬱陶しそうに、カトレアが言う。
「我が主はそういうわけでもないようで。今更語って何があるわけでもないのですがね」
カトレアは自身の胸に手を当てて、総司に問う。
「多少なりとも察しはついているでしょう? 私の正体、当ててみてくださいよ」
虚ろにも見えるカトレアの目を見つめ返す。女神レヴァンチェスカがハッキリと、「ルディラントとゆかりがある」と言った存在だ。
ルディラントの守護者と同じ先祖を持ち、同じ魔法を継承する存在。
最後の敵スヴェンを主と呼び、彼の目的達成のため、総司を排除しようと動く女。
世界と女神を脅かす凶行の根底にあるのは、在りし日のスヴェン・ディージングの憎悪と悲哀だ。カトレアがそれに付き従うからには、カトレアの理由として仮定できるものは二つしかない。
例えば金や名誉、地位のような、スヴェンの目的になんの関係もない、誰もが普遍的に欲しがるものが報酬である場合と――――
カトレア自身がスヴェンの目的に共感し、その達成を同じように望んだ場合。
これまでのカトレアの行動から、前者はまずあり得ない。
後者であるならば、カトレアは――――
「レヴァンチェスカは、お前がルディラントとゆかりがあると言っていた」
「へえ……秘密主義の女神にしては珍しい。あなたにそこまで伝えたんですか」
どこか小ばかにしたように、カトレアが思いつくままの感想を口にする。カトレアの目から見ても、“女神の騎士”は女神レヴァンチェスカから、重要なことを秘密にされていると見て取れていたようだ。
「『ゆかりがある』どころの話じゃないんだろう」
総司が言うと、カトレアが虚ろな目をすうっと細めた。
「お前は千年前の人間――――“カイオディウム事変”の時代の当事者だ。違うか」
細められた目が、閉じられる。悲痛な表情にも見えた。何よりも雄弁な、無言の肯定である。
「スヴェンやサリアと同じ時代を生きた。恐らくは会ったこともある。俺が訪れた時にはいなかったが、ルディラントの国民だったんじゃないか?」
「後半は外れですが、前半は当たりです」
カトレアが淡々と言う。ルディラントの国民ではなかったが、サリアやスヴェンとは『本人たちと間違いなく縁があった』と、認めたのである。
ティタニエラで思いがけぬ邂逅を果たした時、カトレアは目ざとく総司のジャケットの胸元にある紋章に気付いていた。
既にあの時、カトレアは「総司がルディラントと関わりを持った」可能性に思い至っていたのだろう。総司の「自分がルディラントを訪れた時」という言葉に何の疑問も持っていないところを見てもそれは明らかだった。
エメリフィムで女神が語った事実を考えるに、サリアとは「遠縁」であって、彼女らよりも更に前の時代の先祖を同じくするだけ。姉妹や従姉妹のような近しい続柄ではなかったと思われるがしかし、その縁とは違う繋がりが両者にはあった。
「どうしてその可能性に辿り着きましたか」
「荒唐無稽な話……我ながら随分飛躍した考えを思いついたもんだがな、逆を言えばそれ以外に思いつかなかった」
総司が静かに言った。
「現代の人間がスヴェンに協力する理由として考えられるものはそう多くない。お前が金や何かしら私欲を満たす見返りの動いてるわけじゃないことは誰でもわかる。けれど、そうなると……あくまで俺の主観だがな、スヴェンの動機がルディラントの滅亡をきっかけとしている以上、お前にもルディラントとの縁がないと不自然だ。その縁が、ただ『守護者と同じ魔法を継承している』だけじゃあ弱いように思えてな」
「なるほど」
カトレアが頷いた。特に賞賛するわけでもなく、相変わらず淡々としていた。
「そもそも人間が千年生き永らえるなんてこと自体があり得ないが、既に二つ実例がある。スヴェンとゼルレインは、それが『正常』と呼べる状態なのかは知らんが、少なくとも確かにまだ生きている。ただそれは、どうやら下界とは少し法則の違う“ハルヴァンベント”だからだと思っていた」
「間違ってはいませんよ」
カトレアがまたこくりと頷いた。
「私は“女神の領域”を介して、この時代に投げ出されたので。あなたの見立て通り、この忌々しい“時間という概念の無視”には女神の領域が絡んでいますね」
「ッ……ハルヴァンベントへの道は一方通行だと聞いていたんだがな。間違いか」
カトレアが千年前の人間である、という総司の仮定は、「タイムスリップ」というSF然とした超常現象の存在を前提としてはいなかった。
あくまでも、例えば先祖にエルフがいるというカトレア自身が、生まれつき寿命の長い特性を持っていたとか――――はたまた、エルテミナ・スティンゴルドの外法のような魔法によって、或いはスヴェンとゼルレインのような特殊な条件下によって、千年の時を何とかして生き永らえたのではないかという推測だった。
だがカトレアの口から語られたのは、女神の領域を介したことによる正真正銘の「タイムスリップ」だった。
「それもまた、半分正しく、半分間違っています。あなたにそのような表現で伝えたのが誰かは知りませんけれど、『一方通行』という言葉には語弊がある。正しくは、『女神の領域に至った者は戻れない』だけ。……あなたとスヴェン・ディージングにそれが当てはまるかどうかはともかくとしてですが」
カトレアが今度は首を振った。総司とスヴェンをセットにしたところを考えるに、総司が異界の民であることも、リスティリアの法則の一部が異界の民には通じないケースがあるということも知っているようだ。
「私にはどうやら資格がなかったようで、『女神の領域の手前で弾き飛ばされた』のです。見方を変えれば、『道中で引き返す』ことも不可能ではないのでしょうね。そうして弾き飛ばされた先がこの時代だっただけ。ですからまあ、“女神の領域”へ続く道に入ること自体もオススメはしません。途中で引き返したところで、極めて広い意味での『元いた場所』に戻れる保証はありませんから」
エメリフィムで出会ったカトレアとも、首都ディクレトリアに来た初日に出会ったカトレアとも違う。
儚げな雰囲気は余裕の表れではない――――どこか自暴自棄になっているようにすら見える、捨て鉢な態度。
もしかしたら、ようやく総司に自分の身の上を話せる段階にまで来たことで、ある意味ではカトレアも吹っ切れる部分があるのかもしれない。
剣を握る総司の手に、力がこもる。
「スヴェン・ディージングとも“サリア様”とも知己でした。しかしそうですね……私はそれなりに親しみを覚えてはいましたが、友人という関係性ではありませんでしたよ。言い表すとすれば――――あの方々の物語を、眺めているだけの存在だった」
総司の体が閃光と化した。
目にも止まらぬ速さ。にもかかわらず、カトレアの虚ろな瞳が、瞬時に自分の眼前にまで迫った総司の瞳を確かに捉えて離さなかった。
ぴたりと、カトレアの首筋に総司の剣が突き付けられた。カトレアの視線が剣の切っ先へ泳ぐことはなかった。
総司の覚悟は本物だった。剣が首筋に「突き付けられた」だけで、カトレアの首を跳ね飛ばすことがなかったのは、総司が躊躇ったからではない。
カトレアの額に埋め込まれた“オリジン”が強烈な魔力を放出し、カトレアの体の表面に薄皮一枚で包み込むような膜を形成して、カトレアの体を総司の剣から護ったのである。莫大な膂力による衝撃すら相殺して、ぴたりと剣を止めた。
総司は剣を振り抜こうとしていた。そこに迷いはなかった。
“これ以上聞けば迷ってしまう”という、自分の甘さへの不信から来る確信があったから。
「ッ……!」
「本当に……手強い相手になりました、あなたは」
カトレアがじっと総司の目を見つめたまま語る。
「思い返せば私やディオウがあなたを『戦闘能力』で上回る可能性など、レブレーベントで出会った時から微塵もなかった。けれどさほど心配していませんでした。あなたの脇の甘さと破綻した人格、戦う上での強さ以外の部分については、付け入るスキが十分にあるとわかっていたから。その見立ては外れた。見事な一振りでした。借り物の力だけではない……あなた自身が強くなった。止まったままの私とは違って」
剣が触れている『膜』から伝わってくるエネルギーが、総司に直感的な理解を与える。
“シルヴェリア・リスティリオス”級の攻撃力でなければ突破できない防御力。永続的な防御とは思えないがしかし、ここでカトレアを殺したいのならば撃つしかない。総司はその択について思考を巡らせた。
“迷い”が生じないように、必死でそちらに思考を割いた。初めて総司に対して、辛辣さの中にどこか羨望にも似た感情を交えて、賞賛とも取れる言葉を口にするカトレアと、これ以上、ただ目を合わせることすらも“自分にとって”危険に思えた。
最大火力を撃ち込めば殺せないことはない――――が、“聖域”の損壊を伴う。狙い通りカトレアを殺し切ることが叶えば、アゼムベルムを制御されることは避けられるかもしれないが、顕現そのものは既に止められる段階にない。ここでカトレアを殺すことに固執して、アゼムベルムの力を完全に解き放つリスクを取ることが正しい選択なのかどうか、総司には確信が持てなかった。
「……やめておきましょう」
カトレアが静かに言う。
空間が歪む感覚を知っている。“レヴァングレイス”の片割れが持つ特性、「空間転移」を達成する力。カトレアと一体化した“レヴァングレイス”からその機能は損なわれていないらしい。
「余計な話はここまでです。最初にあなたが言った通り、我々はもう殺し合うしかない。私は私の目的のため、このまま突き進むだけ。今更私を憐れまないでくださいね。きっとあなたは“正しい”。ただ、こちらにも譲れないものがあるだけです」
「サリアを知ってるならわかってるだろうが!」
パッと距離を取り、“シルヴェリア・リスティリオス”をいつでも放てるよう魔力を高めながら総司が怒鳴った。
「今の――――世界を脅かすなんて馬鹿な真似してるスヴェンを見たら、サリアはきっと怒り狂うだろうよ! それに加担するお前にもな! 少しでもサリアに敬愛の念があるなら今ここで踏みとどまれよ! 遅すぎるかもしれねえが、無意味でもないはずだ!」
「……悔やむかもしれませんね、確かに」
カトレアが――――ふっと笑った。そう言えば、カトレアの笑顔を、総司は初めて見たような気がした。
「ここであなたに殺されておけばよかったと、悔やむことがあるかもしれません。ですが、その後悔もやがて無に帰すことになる。考えることすら無意味です」
「ッ……何を言って――――!」
“オリジン”の魔力が強まる。“聖域”に充満する女神の気配と呼応するようにして増大していく力を前に、総司が顔をしかめた。
「好き勝手言うだけ言って消えようとしてんじゃねえぞテメェ……!」
「どうせまたすぐ会うことになるじゃないですか。世界の全てを賭けて殺し合う、決戦の日はすぐそこです。今度こそその刃が、私の首に届くと良いですね」
カトレアの姿が「空間転移」の魔法に呑まれて消える。強烈な魔力の気配も、カトレアが消えると同時にふわりと霧散した。