深淵なるローグタリア 第八話⑤ 『意思を愛でる獣』とは
“海底神殿”への道は、驚くほどあっさりと開かれていた。
総司がもう一度訪れることを見越していたかのように、面倒なギミックもなく、総司を神殿のもう一つの最深部へ――――リシアが訪れた、不可思議なピラミッド状の建造物がある空間へと招き入れる。
総司は足早にずかずかと神殿を踏破し、すぐさまその場でレヴァンチェスカを呼んだ。
女神レヴァンチェスカは、総司の呼びかけに答えてすぐに姿を現した。その瞬間、キィンと金属音が響いて、周囲の時が止まったかのように静まり返った。
「最後だな。次会うのは多分、俺がスヴェンに勝った後だ」
挨拶もなく、総司が告げる。レヴァンチェスカは薄く微笑んで、賞賛の色をにじませながら、静かに答えた。
「そうね。これで最後……言いたいことがたくさんあるのでしょうけど、先に言わせて。よくぞここまで、辿り着いたわ」
「白々しいな。一度は俺を避けたんだろうが」
「リシアに聞いたの? あの子は何でもあなたに言っちゃうんだから」
レヴァンチェスカがくすくすと笑う。
「怒ってる?」
「何をだ」
「スヴェンのことよ。あなたに隠していたこと」
「……それは良いさ。今更の話だ」
総司は下らなさそうに言った。
「遠回りしたわけでもない。結果は同じだった。最後の敵が誰か知らないまま、ハルヴァンベントに歩を進めることはあり得ない……そう言われたこともあったっけな」
千年前の反逆者、エルテミナ・スティンゴルドの小ばかにしたような物言いを思い出す。そう、結果は変わらない。総司は最後の敵の名を知り、憧れた男が最後の敵であることを知り、だからと言って歩みを止めることもなく、女神の領域へと進むことになる。
「そう。良かった」
「スヴェンは、お前を殺してその力を奪おうとしている。それで間違いないのか」
「さあ、どうかしらね」
レヴァンチェスカは微笑んだまま、小さく首を振った。
「私と世界への憎悪だけで事を起こしたのかもしれないし、“先”があるのかもしれない。当然、私に何か語ってくれるはずもないわ。でもあなたは違うかもね。本人に聞いてみたらどう? 結局のところ、何をするつもりなのかって」
「……そうだな。そうしよう。もうすぐ会えるからな」
総司もまた少しだけ笑ったが、すぐにその笑顔を引っ込めた。
「リゼットのことは知ってるな」
「ええ、もちろん」
「俺は彼女が語った身の上話、全部本当だと信じてる。随分な仕打ちだ。アニムソルスの最悪のやらかしで、お前はアイツの上司みたいなもんだろ。責任取ってやれよ。リゼットを元の世界に返せ」
「万全の状態であれば可能よ。あなたが私を助けてくれたあかつきには、そうすると誓いましょう」
あっさりとそう言い切った後で、レヴァンチェスカもまた笑顔を引っ込め、物悲しげな表情で呟いた。
「けれど……恐らく、ローグタリアの決戦であなたに敗北したとしたら。彼女はきっと……」
「わかってる。そん時はそん時だ。俺はリゼットを否定できないし、リゼットも俺を否定できない。もう互いに好き勝手やる以外に道はない。阻止するつもりではいるがな」
「わかっているならいいわ。あなたの甘さが出ないと良いけどね」
「ほっとけ。次の質問だ――――」
「ねえ、ひとまず座らない?」
ピラミッド状の建造物の段差にひょいと腰かけて、レヴァンチェスカが自分の隣をポンポンと叩いた。総司が思わず顔をしかめる。
「来なさいな。良いでしょ、最後なんだから」
「……悠長なこったな……」
総司は仕方なさそうに、レヴァンチェスカの隣に歩み寄って、どさっと腰を下ろした。
「こうしてローグタリアであなたと話ができるかどうか、五分五分だと思ってたわ」
「俺がどこかで負けると思ってたのかよ」
「負けるか、先へ進めなくなるか。何があってもおかしくなかった。あなたやリシアは、まるで私が全てお見通し、みたいに考えてるようだけどね。実際のところ、そんなことは全っ然ないの。あなたを呼び寄せて全てを託したあの瞬間から、ハラハラドキドキの一大ギャンブルなんだから」
総司にとって都合の良いことも悪いことも、「全てが神の思し召し」としてレヴァンチェスカの存在とこじつけるのは簡単だ。
総司の常識における「神」とは、実在しない架空の存在で、様々な形での信仰の対象でしかない。人間が知覚できないだけでそういう超常の存在が「いる」のだとして、知覚できていない以上は存在しないもの。
だがリスティリアは違う。女神レヴァンチェスカという絶対の存在がいる。それ故に、そう思い込もうとしてしまえば「全てレヴァンチェスカの思い通り」なのだと断じることが出来てしまうのだ。下界に干渉することも可能な全能の存在が、何らかの理由で善いことも悪いことも巻き起こしているのだとこじつけることが出来てしまう。
不自然なバイアスが思考を邪魔しているだけで、総司のこれまでの旅路は、確かに総司が選んで繋いできた結果なのだと、そういうことが言いたいのだと総司にもわかった。
「……なんだ。エメリフィムで俺が言ったことを気にしてるのか」
「当たり前でしょう」
レヴァンチェスカがぷくっと頬を膨らませて、わかりやすく拗ねた様子を見せた。
「拗ねるなよ、仮にも女神が」
「うるさい。酷い男よ。こっちはこっちで必死だっていうのに、まるで私が冷酷無情みたいに。あなたに会うたびにちゃんと愛してるって言ってたと思うんだけど、全然伝わってないんだもの。拗ねるぐらい許しなさいよ」
リゼットは言った。「駒のように使われている感覚に覚えがあるはずだ」と。始まりの国レブレーベントで、総司は自分が単なる舞台装置にしか過ぎないことを悟った。そして次の国で、与えられた役目が単なる舞台装置であろうと関係がないことを教えられた。
だから総司が許せないのは、自分以外の誰かが舞台装置のようになってしまうことだった。リスティリアに生きる命が、総司の役目を完遂させるためだけに消費される事態を、何よりも避けたいと願った。
リゼットの言葉を借りれば「どうでもいい“よそ”の命」にそこまで思い入れてしまうのは、間違いなくリスティリアに生きた命であったルディラントの民たちに心を奪われてしまったからだ。それがひいては――――彼らを悲惨な運命から救わなかった女神への不信に繋がった。
レヴァンチェスカは彼女の言葉通りに総司を愛しているのかもしれない。だが――――
――――お前たちの思う“好き”と、アニムソルスの“好き”は少々違うものでな――――
ジャンジットテリオスの言葉を思い出す。
ヒトとは違う視点に立つ女神の愛と、総司が思う愛の在り方が同一である保証はどこにもない。
しかし少なくとも、己の愛が満足に伝わっていないことを不満に思う女神の姿は、総司の知る「普遍的な女性」のそれに近いようには見えた。
「……俺は俺のために戦って、ここまで来た。自分のやりたいように。だから俺のことは良い。前に言った通りだ」
「もちろん、私は全ての生命を愛している。そして私の愛が届かない存在もいる。これも前に言った通りね。ただ、届かない存在がいることは知っているけれど、それで何も思わないわけじゃないのよ。特にあなたには、届いていてほしいの」
総司はぽりぽりと頬を掻いて、素っ気なく言った。
「善処する」
「ま、それで良しとしておきましょう。そろそろあなたの問いを聞きましょうか。わざわざここに足を運んで私と会ったのは、リゼットのことを言うためだけではないでしょう」
「そうだな。関連することではあるが」
総司の声に厳しさが戻った。
「アニムソルスだ。アイツは多分、俺とアゼムベルムを戦わせたいがために動いているらしいが、それにしたってやり方がふざけてる。リゼットのことだって弄んでるようなもんだ。何なんだアイツは。理解ができん」
「でしょうね」
レヴァンチェスカは事も無げに言った。
「アニムソルスを理解しようなんて無理な話よ。私にも理解できないもの。一応、あなたに対しては神獣としての使命感を相応に持っているようだけど。それがなければもっと悲惨なことになっていたかもね」
「悲惨な……? どういう意味だ」
「あの子は生命の意思を愛でる獣――――ヒトやそれに並ぶ知性を持つ生命の感情が大好き。履き違えてはいけないのよ。あなたにわかりやすい言語化が難しいところなんだけど……」
レヴァンチェスカが困ったようにため息をついた。
「『考え方』とか『思考』とか、或いは生命が創り上げてきた『歴史』や『文明』、そういう『理性的なもの』が好きなんじゃないの。『感情』の発露と、それによって突き動かされる意思が、それが齎す結果の自己解釈が大好きなのよ。そして、“良い方にも悪い方にも、大きく動いている方が好き”」
総司が露骨に嫌そうな顔で舌打ちした。
「知ってるか。それをヒトは『悪趣味』だって評するんだ」
「でもあの子は、その評価に価値を感じないでしょうね」
“獣”を御する権能を持つと豪語したリゼットの支配を、アニムソルスは受けていないというのがリシアの見立てだ。恐らくその見立ては正しいだろう。
だがアニムソルスは、リゼットに「支配されているふり」をしていた方が自分の利になると踏んで、リゼットの意思に従っているように見せている。少なくとも、リゼットがやろうとしていることを後押しする動きを見せている。
アニムソルスにとっての「利」が一体何なのか、かの存在が最終的に何を求めているのかがわからない、というのが、ローグタリアにおける決戦では最も厄介な部分だ。ヒトを大きく上回る力を持つ存在が利己的に動くとなれば、その影響もまたヒトの想定を上回る。
結果だけに絞れば、今のところの予想としては「総司がアゼムベルムと戦い、打ち倒し、更に成長する」という結果を目指しているのだろうとは思うが、重要なのは過程だ。
レヴァンチェスカの言葉通りなら、アニムソルスはその過程の中に「感情の発露」を見ようとしている。レヴァンチェスカは穏やかな言葉を選んだが、総司からすればアニムソルスが好むのは「意思の暴走」だ。
理性で留め切れない強い意思の暴走が齎す、「普通」の状態ではあり得ない事象と結果、それを取り巻く人々の感情の発露こそがアニムソルスの「見たいもの」。総司に単なる試練を与えるだけで終わるとは思えない。
「……もしかしたら、四体の神獣の一角を殺すことにもなるかもしれない」
「その時はその時よ」
レヴァンチェスカは気楽な調子で、総司の強い言葉に返した。
「最優先すべきはあなたの旅の完遂。その過程でアニムソルスが邪魔になるのなら仕方ないわ。他の子たちも文句は言わないでしょう。『あぁ、余計なことしたんだな』って流して終わりよ」
「ならいい。次だ。アゼムベルムのことだが」
「ええ、いよいよ激突ね」
「疑問があるんだ」
総司が少しだけ間を置いて、まだまとまり切らない自分の考えを自分の中で整理しながら話し出す。
「アゼムベルムは“神獣の王”で、四体の神獣はアゼムベルムから生命としての意思を切り離したことで生まれた。神話みたいな話だが、確かそう言っていたな」
「合ってる」
「そして残されたアゼムベルムは、力だけの獣そのものになった、みたいな」
「大体そんな感じね」
「そもそもどうしてそんなことになったのか、ってのが一つ」
総司がそこで言葉を切り、続けて次の疑問までレヴァンチェスカにぶつけた。
「もう一つ。そんな存在を“オリジン”で制御できるってのはどういうことだ、って話だ」
レヴァンチェスカがちょっと意外そうに目を丸くして、総司をじっと見つめた。総司は構わず続けた。
「“オリジン”ってのは、お前が下界の国々へ齎した恵みの結晶なんだろ。つまりは“ヒトの手に渡ることが前提”のものだ。そしてそれを用いることで神獣王が制御できるってのは、まるで“お前がそういう機能を持たせた”みたいじゃねえか。だからお前本人に聞きたいんだよ。どうしてそんな機能を持たせたのか」
レヴァンチェスカは微笑みもせず、総司の目をじいっと、それこそ穴が開くほど見つめ返していた。総司は数秒、視線を離さず受けて立っていたのだが、流石に途中で気恥ずかしくなって目を逸らした。
「何だよ、なんか言えよ……」
「……リシアが、あなたにその考えを話したの?」
「え? いいや?」
総司がきょとんとして、
「正直、アゼムベルムのことは何にもわかってなくて、“殻”と向き合って『これはマジでヤバい』って痛感しただけだったから、いろいろ考えたんだよ。そしたら単純な疑問が浮かんだんだ――――カトレアやリゼットは当たり前のようにアゼムベルムを制御しようとしているけど、そもそも何で『制御する手段』が存在してるんだって」
「そう……エメリフィムでも言ったけれど」
レヴァンチェスカは嬉しそうに笑った。
「随分と、考えることがうまくなったのね。リシアのおかげかしら。良いことよ」
「子ども扱いすんなよ……」
「子どもでしょう、年齢通りね」
レヴァンチェスカは笑みを引っ込めて、真面目な口調で答えた。
「まず最初の質問に答えましょう。アゼムベルムが生命としての意思を“放棄”するに至った理由――――まさに、あなたの世界で言うところの『神話』の領域でしょうけれど、過去に起こった事実として……」
一拍置いて、レヴァンチェスカは言う。
「アゼムベルムはかつて、自分の役目を全うすることが出来なくなったのよ。その葛藤から逃れるために生命としての意思を手放した」
「……自分の役目……?」
「どれぐらい前だったかしらね……ヒトやそれに並ぶ知性を持つ種が誕生してから時間が経って、今に比べれば本当に低次元のものだけど、『文明』と呼べるものを築き始め、種として少しずつ発展し始めた頃。端的に言えば“意思ある生命の黎明期”とも呼ぶべき頃――――」
総司には想像も出来ないほどの太古の時代に想いを馳せて、レヴァンチェスカが目を細める。
「あの子はその発展と進化が『間違っている』と悟った。ヒトとそれに準ずる種の発展が、いずれ世界に破滅を齎すであろうと……悟ってしまったからには、あの子がやるべきことはたった一つだけ……あの子にはそれがどうしても出来なかったの」
物悲しげなレヴァンチェスカの表情に秘められているのは、アゼムベルムへの憐みか、それとも罪悪感か。
「間違った方向へと成長し始めた意思ある生命の全てを一掃し、再び生まれ出でて次なる成長を始めるまで見守る。それが“意思ある生命の王”アゼムベルムの役目だった」