深淵なるローグタリア 第八話③ 準備着々・決意万全
『果てのない海』を望む海岸線に、『歯車の檻』を中心として建設された防壁。壁の上は皇帝の命により武装され、海へ向けて筒の長い砲が並ぶ。
だが、ヴィクターの備えがそれだけで終わるはずもなかった。
翌朝、ヴィクターから指示を受けた兵士に従って、壁の上へと出た総司とリシアは、海岸線に広がっている、昨日まではなかった光景に愕然とする。
首都ディクレトリアの先の海に、もう一つ街が出来上がっている。
出来上がっているというよりは、元からあったものが浮上してきたのだろうか。いくら魔法の力があるとはいえ、一晩で造れる規模ではなかった。
大小さまざまな建造物からは、大砲はもとより巨大な槍のようなよくわからない武装も多く並び、海の上に突如として出現した「城塞都市」の如き様相を呈している。
ところどころに、古びた石の痕跡がある。リシアが目ざとくそれを見つけて驚愕の表情を浮かべた。
“海底神殿”もそうだが、古きローグタリアは海の中に建造物を作る何らかの風習でもあったか、或いは現在海である部分が陸地だった可能性がある。
ヴィクターはそれを利用した――――古くからあった「海上への浮上」を可能とする機構を利用して、アゼムベルムを迎え撃つためだけに機能する要塞を築いた。
ヘレネの予言を完全に信じたわけではないと豪語していた彼だったが、それはそれとして、備えは万全に整えていたのである。
要塞の上を所狭しと「竜」が飛んでいる。もちろんジャンジットテリオスほどのサイズはない、ヒト一人乗せるのがせいぜいのサイズ感だが、金属の鎧を着せて武装させている。兵士が竜に跨って、『果てのない海』方面を警戒しながら旋回しているのが見て取れた。
「――――よく来たな貴様ら! おはよう!」
急ピッチで武装の整備を行う兵士たち。その陣頭指揮を執っていたらしいヴィクターが、ざっと二人の前に現れて元気よく挨拶した。
「どうなってんだこれは……!」
「ハッハー、見事なものであろう! 我が秘策の一つよ。壁の上だけではとても足りんのでな。『歯車の檻』が突破されることはディクレトリアの崩壊を意味する……そこまで来させるわけにもいかん。案内しよう、来い!」
ヴィクターの号令に従い、総司とリシアは海上要塞へと足を踏み入れた。
石造りの過去の建造物を利用しながらも、金属で丁寧に加工・補強を施して、砲台や用途不明の槍のような武装を並べている。細部には魔力を帯びた鉱石が無数に埋め込まれていて、強力な魔力の力場を形成していた。
「やあ、おはよう」
一足先に起きていたらしいディネイザが、要塞内部のひときわ高い場所――――歪な形をした塔の頂上、司令部のような場所で総司とリシアを出迎えた。
「おう。早いな」
「君達と違って、私は昨日早く寝たからね」
ディネイザが微笑を浮かべながら言った。
「大方、事情は聞いてる。化け物が遂に始動したって」
「そのことだが、報告がある」
用意された金属の簡素な椅子に腰かける総司を尻目に、立ったままで、リシアが軽く手を挙げた。
「ソウシとヴィクターも聞いてほしい。昨夜の私の……夢のことを」
“オリジン”の共鳴により、シルヴィアからリシアへメッセージが届けられたこと。
それによれば、猶予は合計で五日を切るということを、リシアが簡潔に伝えた。
併せて総司も、“哀の君”と会ったことを報告する。リシアほど有用な情報が得られたわけではなかったが、言う機会はここしかないと踏んだ。総司が何も思いついていないだけで、リシアであれば総司が気付いていないだけかもしれない、“哀の君”の意図を汲める可能性もあった。結論から言えば、マティアの方は単に叱咤しに来ただけという見方が強かったが。
「ハッ……シルヴィアめ、最後の最後で根性を見せてくれる。ソウシが気圧されるほどの化け物を二日も留めおけるのならば上々よ」
ヴィクターはパチン、と指を鳴らして笑った。
「作戦変更だ!」
「変更前の作戦をそもそも知らねえんだが!」
「無論この場で迎え撃つ決戦の腹積もりであったが、シルヴィアの言葉を信じるならば、アゼムベルムは歩いてここへ向かってくるのだ。座して待つ道理もない。出現次第こちらから打って出て、ここにたどり着くまでに削れるだけ削る! これしかあるまい」
総司は少し考えて――――リシアをふと、見つめた。
リシアが視線に気付いて見つめ返すが、総司が言いたいことを掴み切れなかった。
「どうした?」
「……ん、いや。悪かったな、昨日は」
「……意味がわからんが」
「弱気なところを見せた」
「……それだけ敵が強大なんだ。責めるつもりもないよ」
リシアの言葉に少しだけ微笑んで、総司が決然と言った。
「敵はアゼムベルムだけじゃない。“ゼルム”が大量に飛んでくることはわかり切ってる。この兵器とローグタリアの兵士たちはそっちの対応で手いっぱいになるはずだ」
「むっ」
ヴィクターがぐっと言葉に詰まる。
半覚醒状態のアゼムベルムから解き放たれて首都を襲った甲虫のような獣――――覚醒したアゼムベルムから尖兵の如く放たれることは予想がつく。
無数の砲塔はアゼムベルムに届くことなく、ゼルムの群れを迎え撃つために使うことになるだろう。
「突破口はカトレアが表に出てきていることを祈って、俺とリシアでそこに突っ込む以外にないと思ってた――――でもそれが叶わなくても、関係ない」
リシアが目を見張った。静かに話の流れに身を任せていたディネイザが、ぞくりと背筋に悪寒を感じてぴくりと身じろぎする。油断していたというのもあるが、急激に気迫を増した総司にわずかに気圧された。
「昨日の俺の弱気は忘れてくれ。まどろっこしいのはナシだ。“アゼムベルムを討つ”。最大火力でぶち抜いて、あのでけぇ体に風穴開けてやる」
感情の上振れが、総司に女神の想定をも超えた力を発揮させる時がある。論理的に説明のできないその不可思議なブーストを、最も早くに見抜いていたルディラント王は、「それに賭けること」を良い手段とは評しなかった。
あの王の気概を知れば、それが「不確定要素に賭ける」浅慮を諫めているわけではないことは理解できる。史上誰よりも、不確定な「意思」の力の偉大さを体現した男である。
感情の上振れによる力の増大が確かにあったとして、総司には「上振れさせるだけの強い意思」が欠如していたから、そんな薄弱な心意気では賭けるに値しないと断じた。そして今は違うのだ。
「羽虫連中はある程度任せてくれればいいよ」
総司の気合をひしひしと感じ、受け取って、ディネイザが言った。
「私の魔法にはさほど攻撃力がないが、幸い『火力』は揃ってる。私が力を制限し、砲塔群の大火力で殲滅する。アゼムベルムがここを踏み潰す前に道を開ければ、後は君の仕事だ。それで良いんだね?」
「そうだ。頼りにしてるぞ、ディネイザ」
「私が“ディアメノス”の真髄に至っていれば、まだしも楽だったんだけどね」
ディネイザがふう、とため息をついて、残念そうに笑う。
「私の才能では多分足りない……この力を不便に思ったことはないんだけど、初めて嘆かわしいと感じてるよ。あともう少し私に才能があれば……」
「戦力は、どれだけ増えたところで十分足りるなんてことはない」
総司がきっぱりと言って、ディネイザの言葉を遮った。
「ディネイザがいてくれてよかった。そして決戦でも変わらずあてにしてる。いるのといないのとじゃ天と地ほどの差があるんだ。ヒトがせっかく切り替えたってのに今度はそっちが弱気じゃ困るぜ」
「……ん。了解だ。もとより命の借りを返すために戦うわけだし」
ディネイザが気合の入れた表情で言った。
「今の力で死力を尽くす。なんだろうな、割とうずいてきたよ。五日ってのは思ったより長いね。どうせぶつかるんだ、今すぐでもいい」
「ハッハー! 勇ましき少年少女よ、頼もしい限りだが勘弁してくれ! まだ準備が整い切っておらんからな!」
ヴィクターが快活に笑いながら、すぐにでも飛び出していきそうな二人をやんわりと押し留めた。
「リシアよ、どう見る?」
「どう見る、とは?」
「ソウシとディネイザ、両名の気合は『買い』だ。頼もしいと言ったのも本心だ。だが現実的な視点も必要であろう」
ヴィクターが笑みを浮かべたままで、至極まっとうなことを言う。
「正面からアゼムベルムを迎え撃ち、アゼムベルムそのものを打ち倒す。この可能性はどれほどと見る」
「限りなくゼロに近いだろうな」
リシアは冷静に言ったが、総司の表情に動揺はなかった。それこそリシアの役目だから。
「だが、ゼロではない。カトレアを倒し“オリジン”を奪い取ることも、全てそこに賭けるには不確定だ。こちらの最高戦力が最大の脅威を倒すと息巻いているのなら、怖気づいているよりはずっといい」
腕を組んだまま、リシアもまた決然と、強い声で言い切った。
「カトレアの姿が捕捉できれば、その無力化と“オリジン”奪取に全力だ。補足できないのならばアゼムベルムの打倒を目標とする。難易度は高いが、やることはそれだけだ」
「ハッ! なんだかんだ、貴様も“そちら側”よな。確かに、腑抜けているよりよほど良いとも言える。さて、では――――」
ヴィクターが何か言おうとしたところで、不自然に口をつぐんだ。
総司たちも、ヴィクターにつられて入口へ視線を向ける。
アンジュ・ネイサーが極めて「いつも通り」と言った表情で、スルスルと司令部に入ってきたところだった。
「陛下、“海底神殿”の現況について報告が入りました。特に痕跡もなく健在とのことです。カーライル分隊長の指揮で入口周辺の警戒をさせていますが、今のところは平穏のようで」
「ご苦労! 人数を絞って、浮いた人員を住民の避難準備に充てろ。ゼルムの襲撃が先行するであろうことを考えれば、一日でも早く住民を内陸へ退避させねばならん。そちらの人員はどれだけいても足りんからな」
「かしこまりました。『ヴィンディリウス号』の兵装も整備中ですが、こちらは明日中では間に合わない可能性があります」
「なに!」
「陛下が余計なものを組み込み過ぎるからです。整備士がどれだけ苦労しているかわかっていますか?」
「……仕方あるまい。出来るだけ急げと伝えろ。四日目までには万全とするように!」
「伝えるだけは伝えますけれど。最後に、昨日の海上での戦闘についてです。ウェルステリオスとアニムソルステリオスが激突したという位置で、特に何か見つけたという報告はありません。異変らしい異変もないので、ソウシさんとリシアさんが戻られる時には既に、両者は戦闘を終えていたと思われます」
「神獣同士が本気で殺し合ったとあれば、そうそう簡単に決着はせんだろう。ソウシとリゼット・フィッセルの形ばかりの交渉が決裂したことを受けて、互いに退いたというのが大筋であろうな。ご苦労である! 下がってよいぞ。引き続き、この要塞外の指揮を任せる!」
「はい」
アンジュはここでようやく、総司たちに視線を向けた。
「……なんでしょう?」
「いや……大丈夫なんスか。その……いろいろ」
「大丈夫か大丈夫でないか、という二択でしたら、もちろん大丈夫ではありません」
アンジュの声もまた、いつも通り。動揺した様子も、未だ憔悴しているような気配も、微塵も表に出していない。
妹が幼き日に既に絶命していたという事実の重さは計り知れない。アンジュにしてみれば「二度失う」哀しみに襲われているに等しい上に、魅惑の双眸を得てから荒んだ人生を送るシルヴィアを、ずっと心配してきた十年の感情も、言うなれば徒労のようなものだったのだ。
「ですが、大丈夫でないからと言って、塞ぎこんでいられる状況でもありません。危機的状況なのです。当然、その対処は私の現状よりも優先される。やるべきことはわかっています。心配には及びません」
アンジュは笑顔を見せて、総司たちにぺこりと会釈し、司令部から出て行こうとした。
「“手紙”の件も抜かりないな?」
「……ええ、無論です。既に」
「ならばよい。適宜休めよ。まだ今日が本番ではないのだから」
「はい」
それまで極めて、というよりは努めて冷静だったアンジュの声が、一瞬だけ震えて――――どこか暗く沈んだように聞こえた。しかし彼女は確かに、皇帝陛下に対して了承の意図を伝えて、そのまま足早に出て行った。
「……手紙?」
「なに、我が秘策の中でも『最も信頼に値しない』ものを、アンジュに託しただけのことよ。……オレへの怒り以上に、アレの不興を買っておるようだがな」