深淵なるローグタリア 第八話② それぞれの夢の中で
「――――おっ。あれ。リシアなんだ」
夢の中にしては随分と思考がクリアで、リシアは多少驚きながら声の主と向き合っていた。
星空を足蹴にして、真っ白な何もない空を見上げる不思議な空間。総司は二度ほど経験のある不可思議な場所であるが、リシアにとっては初めての光景。
シルヴィア・ネイサーは少し離れたところに立って、リシアに意外そうな眼差しを向けていた。
「シルヴィア……?」
「なるほどね……ソウシはホント、心からリシアのことを信頼しているんだね」
シルヴィアは一人、納得したように頷く。
「“オリジン”を集める旅をしてる。そうだよね」
「……そうだ」
「詳しくは知らないけど、今まで集めたいくつかを、ソウシはリシアに預けてる。そうだよね?」
「その通りだ」
「それでか。多分“持ち主”はリシアだって判断されてるんだ。意外だったなぁ、てっきりソウシに会えるかと思ったけど」
「それは悪かった」
シルヴィアの問いかけから得られる情報で、リシアはすぐに理解した。
これは恐らく“オリジン”の「共鳴」のようなものだ。“レヴァングレイス”そのものであるシルヴィアは、総司たちが集めた各国の秘宝を通じて総司に干渉しようとしたのだ。
リシアにとっても予想外ではあったが、どうやら“オリジン”はリシアが持っている、という「判断」になっているようだ――――誰の判断なのかは置いておくとして、女神が齎した恵みであり“女神の騎士”こそ所有者に相応しいはずの“オリジン”は、“女神の騎士”の信託を受けてその管理を任されているリシアを、現在の所有者と認めているらしい。
そう言えばカイオディウムでも、総司と一時はぐれていた際、“オリジン”は『リシアに対して』道を示そうと不思議な挙動を見せたことがあった。リシアは既に、自他ともに認める――――”オリジン”ですらも認める総司の相棒なのだ。
「まあでもリシアの方が良いのかも。難しいこと考えるのはリシアの役目だろうし」
「……何を伝えに来てくれたんだ?」
「時間と弱点だよ」
リシアが今最も知りたいこと――――総司に最も必要な情報。シルヴィアは事も無げに話を続けた。
「私が粘れるのはせいぜい、明日を一日目として三日。それ以上は無理だ。これに関しては……対のもう一つが近づいてくると、もっと短くなると思う。二日と思っておいて。私も言葉にはしづらいんだけど、そういうものだと思ってほしい」
「まあ、直感的な理解はできる」
「ん。で、今のところ近づいてきてないね。カトレアは離れたところにいる」
リシアが頷く。
「短めに二日と見積もって、合計の猶予は五日ってところだね」
「……なるほど」
シルヴィアの言葉に、リシアは一瞬だけ目を見開いて驚いていたが、すぐに思い至った。
「移動能力がないんだな。アゼムベルムはシルヴィアを取り込んだ位置から、言葉通りに“歩いて”くる」
「流石だね」
「……本当に、信じられん巨体だ。浅瀬のはずがあるまいに、歩けるのか、あの位置で」
「その上で“完全ではない”からね」
シルヴィアが釘をさすように言った。リシアがぐっと言葉に詰まる。
「リシアの言う移動能力も“戻る”よ。コイツが完全に覚醒したら――――“海底神殿”を踏み潰したらね。桁違いの魔力に、下界の常識は通じない。ソウシを倒すという目的はコイツにとっては枷でしかない。その枷が失われたら最後だ」
「……カトレアはアゼムベルムの制御のみならず、その力すらも完全であることを望んでいたと思っていたが……今日のリゼットを見るに、カトレアのそんな望みなど問題ではなかったのだな」
リシアが言及した「三つの意思」、ローグタリアにおいて救世主の道を阻まんとするそれらは、それぞれが絶妙にかみ合っていない。
致命的にヒトの感覚からずれたアニムソルスの目的もまた、総司にとっては「敵意」と称するに値するとして、三つの敵意はそれぞれが独立してしまっている。三者三様に総司の命に迫ろうとしているが、根底にある意思がかみ合っていないのだ。
それは唯一、総司とリシアに残された突破口でもある。
個人的な憎悪で動くリゼットと、個人的な執着で動くカトレア。そしてその二人では到底推し量ることのできない目論見のために動くアニムソルス。
考えるべきは『アゼムベルムの突破』ではない。
もとよりそこは“不可能に近い”。ならば――――
「弱点とは、そういう……リゼットとカトレアの思惑がズレているところを指すのか?」
「まさか。“そこ”を衝くのはリシアの役目でしょ。私はもっと直接的なものを示せる」
シルヴィアがふっと笑った。シルヴィアが示すのは、リシアが半ば現実的ではないと切り捨てかけていたもう一つの可能性だ。
「と言っても、リシアはそっちも気付いてるみたいだけど」
「カトレアの持つ“オリジン”の奪取。正解ということか」
「半分はね」
シルヴィアは自分の胸元に手をやって言った。
「こっちでもいい」
「……既に取り込まれているお前を、どうやって」
「“こう”なってから、私は二つの感覚を同時に持っているようなものでさ。リシアの剣が私と同類であることもわかってる」
リシアが武器として振るうレヴァンクロスもまた“オリジン”だ。シルヴィアはそこに言及して、
「指し示すはずだよ、“私”の在処を。アゼムベルムの体躯のどこかにいる私を見つけ出して壊すんだ」
「カトレアの持つ“オリジン”を奪うことと比べて難易度が桁違いだ」
リシアが首を振った。
「ソウシにとってはカトレアの方が難易度が高い。わかってるでしょ、それも」
アゼムベルムに取り込まれ、皮肉にもそれが起爆剤となり、“オリジン”としての覚醒を遂げたシルヴィア。これまでの彼女に比べて随分と理知的に見えるがそれだけではない。彼女は驚くほど完璧に、「一ノ瀬総司」を見ていた。
再び偽りの生を得てから初めてにして唯一、単純な興味が先行していたとはいえど、淡い恋心とも言える感情を抱いた相手だったから。
「カトレアの“理由”を知らないまま、ソウシがカトレアを殺すことは多分あり得ないんでしょ。そしてカトレアは “私とは逆”だよ。 “レヴァングレイス”を体に埋め込んで使う。選択肢はないんだ。そうするしかないんだよ」
「……カトレアには、“オリジン”を使いこなせるだけの能力がない――――何かを賭けない限りは。そういう話か」
シルヴィアが頷く。
「額――――つまりは脳か、心臓か。顔を見て額に突き刺さってなけりゃ心臓だね。どっちにしても、“命”に直結させて稼働させる。それを奪うか破壊するということは、カトレアを殺すということ。アゼムベルムが暴れる最中、カトレアの“理由”を聞き出してる暇なんてない。ソウシが殺せないならリシアがやるしかないけど、ソウシが望まない殺しをリシアは出来ないでしょ」
リシアの祖父オーランドは、千年前の咎人エルテミナ・スティンゴルドが編み出した外法の中に「魂」の可能性を見た。魂や命と呼ばれる概念は確かにそこに「在る」のだが、朧げなものでもある。命に形はなく、魂に色はない。
だが、魔法は魂や命といった朧げな概念にすら作用する。エルテミナはそれを結果で証明してみせた。同時に――――
魂や命といったものを「燃料」として、規格外の力を「魔法」として発現させる。そしてカトレアには――――どんな“理由”があるのかはリシアもあずかり知らないところだが、“オリジン”が常識外の力を発揮するに値するだけの強靭な意思もありそうだ。
「ま、こんな状況になっちゃったから言うけど。もう死んじゃってる身とはいえ、ソウシには関係ないだろうし、私を殺してソウシが曇るのも嫌なんだ。リシアだって、もうちょっとで『最後』だっていうのにソウシが腑抜けるのは困るでしょ」
シルヴィアは大人びた顔を引っ込めて、年相応の笑みで言った。悲しげにも見えるが、きっと本心だろうと思わせる笑顔だ。
「救世主の相棒ならやり遂げて見せなよ。きっとそのためにリシアがいるんだ」
「……言われるまでもないが、一つ訂正だ」
にこりともせず、リシアが答えた。
「ソウシの相棒として私がやる。そして選択肢は限定しない」
「……カトレアの“理由”を聞く前に殺すのも、選択肢に入れるってことだね」
「そうだ」
リシアの表情と声は決然としていた。
「シルヴィアの見立ては当たっている。ソウシはカトレアを斬るべき相手と断じたが、エメリフィムで少しばかり事情が変わっている。女神さまと話をしてしまったせいでな。それは私の責任でもある……アイツ自身は決意を固めたと自分に言い聞かせているだろうが、それで完璧に自分を制御できる男でないことは知っているさ。どうせ躊躇う。その甘さがアイツの良いところだからな」
「世界の命運と天秤に掛けてでもそう言い切れるんだ?」
「もちろんだ」
リシアは即答した。その問いかけは既にリシアが答えを出しているものだった。ソウシのためならリシアは心を鉄に出来る。疑惑が確定していない状況で賢者アルマにも迷わず斬りかかった女である。
「お前の言う通り、そのために私がいる。私が殺すよ、シルヴィアであろうとカトレアであろうと」
「……敵わないね」
シルヴィアがまた笑った。
「ただ――――」
自分に言い聞かせるように、強気に決意を語ったリシアだったが、その表情にわずかな諦観の色が浮かぶ。
「これは予感、というより私の勘でしかないが……きっと、最後の最後、もしも全てがうまくいったとき、お前にとどめを刺すのは……」
「……恐ろしいもんだね、女神は。リシアほどの女をしっかりビビらせちゃってんだ」
「む」
リシアが心外そうに眉をひそめた。
「臆しているわけではない」
「どうせ運命はそういう風に流れるんだろうってことでしょ? ビビってるってことだよ、それは」
返す言葉もなかった。リシアが黙り込むと、シルヴィアはからかうように続けた。
「ソウシの相棒が弱気じゃあ困るな。言葉にしたからにはきっちりやり遂げてもらわないと」
「……そうだな」
リシアはふーっと息をついて、シルヴィアの言葉に同意した。同時に、少しだけ視界がぐらつくのを感じた。
「時間だね」
シルヴィアが心底残念そうに言う。
「後悔ってのはホント、後から後から湧いてくる。リシアとももうちょっとお話ししたかったなぁ」
「お前はソウシに夢中だったからな」
「恋は盲目って? あはは、かもねぇ」
シルヴィアの姿が薄れる。リシアは意識が混濁するのを感じた。意思の力で踏みとどまれるものではなかった。
「待ってるよ。二人の刃が私の心臓に届くその時を、心から」
「……マジかよ」
「久しぶりね」
古びた城の巨大に過ぎる食堂。長い長いテーブルの端で、椅子に座った状態で目を覚まし、総司は呆気に取られた。
テーブルの逆側、遥か遠くで同じく椅子に腰かけるのは、数日前に別れた“哀の君”マティアだった。
「全然久しぶりじゃねえよ、ついこの間会ったとこだろ?」
「そうだったかしら」
「……で、何の用だ」
魂と無意識の混在する、この世とあの世の境――――マーシャリア。死者の魂の群れに紛れて、時折生者の意識が迷い込む不思議な場所。
その空間の主である“哀の君”マティアは、どこからともなくティーカップを取り出し、紅茶を一口すすってため息をつく。
「どうにもこうにも勝算がなさそうだから、逃がしてあげたの」
「意識だけを逃がしてもらってもな」
「冗談よ」
「わかってるよ、付き合ってやってんだよ」
「セーレはどうなったの」
「信頼できるヒトに預けた。悪いようにはしないはずだ」
「そう」
「良かった」、と続きそうな言葉を飲み込んで、マティアはカップを静かに置いた。鋭い視線を総司へと向けた。
「感心したわ。“アレ”によく勝てたものね」
マティアは下界の状況を把握している。セーレがどんな脅威に晒されていたかも知っていた。
「……シルーセンの化け物か。俺が勝ったわけじゃないがな」
「ネフィアゾーラはこと“戦い”において、精霊の中でも特に強い。けれど随分力を落としていたわ。セーレを助けようと必死で、ネフィアゾーラ本来の性質には『似合わない』真似をして無理やり下界に自分を押し込んだから。”悪性変異”を遂げてまで下界に殴り込むなんて、正直驚いたわ。あなたなしでは流石のネフィアゾーラでも厳しい戦況だったでしょう」
マティアは気のない表情で、力なくぱちぱちと拍手するように手を叩いた。
「一応、見事と言ってあげる」
「褒めるんならもうちょいわかりやすく褒めてくれよ……」
「そうするつもりだったのだけど、今のあなたを褒める気にはならない」
総司もまたけだるげにマティアの言葉を聞いていたが、すっと居住まいを正す。ようやく本題に入るようだ。
「口先ばかりで諦めている。どんな手を打ったところで勝てないと」
「……無意識を捕まえて自分の膝元に連れ込めるような女だ。本心なんざ筒抜けか」
「アゼムベルムを正面から相手取らなくても勝つ方法はあると、あなたの相棒が見出したのではなかったの?」
「非現実的だ」
総司は投げやりな調子で言った。リシアにも多少弱音を零したものの、何とか希望を見出そうとする彼女の前で今の姿は見せられなかった。
“女神の騎士”であるからこそ――――同じ質の力を持つからこそ、リシアよりも強く叩きつけられた。
勝てないと。勝ちようがないと。
「“レヴァングレイス”を奪えばアゼムベルムを止められるって? 仮にそうだったとしたら、つまりカトレアが一番警戒してるのもそれだってことじゃねえか。俺はアイツのこと嫌いだけどな、別に見くびっちゃいない。一番警戒しなきゃならないこっちの行動がわかっていて、それを許すほど馬鹿じゃねえよ。隠れ潜むに決まってる――――そうされるだけで、打つ手なしだ」
「そうかしら」
マティアが静かに言った。
「私の目には、あの子はそれほどに馬鹿だけど」
「……見えてんのか、まさか」
総司ががたっと立ち上がった。
「そうだ、俺やリシアの状況をそんなに細かく把握できるんなら、あんたにはカトレアのことだって見えてる!」
「それは誤解よ。私はレヴァンチェスカとは違う」
総司の肩が上から見えない何かにぐっと押された。無理やり椅子に座らされて、そのまま動けなくなった。マティアが押さえつけているようだ。
「私は“ここに来た者の記憶”を見ているの。見ているというよりは、私が興味を向けた相手と同じだけの記憶を得る――――太古の昔から、最初から、あなたと同じだけの景色を知っていたかのように。理解はできないでしょう。する必要もないわ」
「……俺の記憶を通じて知ったアイツが、あんたの目には馬鹿に映るのか」
「馬鹿というよりは愚か、かしら」
にこりともせず、マティアはカトレアを厳しく評する。
「あなたに対して、『排除する』以上の執着を持ってしまっている。必ず姿を晒す。付け入るスキよ。しゃんとしなさいな」
マティアはここでコホン、と咳ばらいを一つ挟んで、よどみなく言った。
「言ったでしょう、『彼が認めた男なれば、その道に敗北は許されない』と。何のために会わせてあげたと思っているの。私は彼ほど甘くはないわ。たとえ周りの誰もが絶望に暮れようと、あなただけは最後まで足掻かなければならない。縁を紡いだ全てのヒトに希望を持たせてきたのよ、あなたは。“千年前の人々にすら”もね。その責任を、最後まで果たせ」
総司がハッと目を見張る。マティアは相変わらず感情を悟らせない無表情のままだが、言葉には明確に激励の意思がこもっている。
総司はじっと、マティアの言葉を噛みしめながら、マーシャリアでの出来事に想いを馳せた。
「……まさか、ここまでデカい壁が立ちふさがるとは思ってなかった」
総司は自嘲気味に言った。
「もう俺の心はハルヴァンベントに向いてたよ。思い上がってた。俺には “最後の敵”に対して覚悟を決める資格がそもそもまだなかったんだ」
自嘲気味ではあるが、マティアと話す前とは少し違う。総司の目にほんのわずかに、闘志の炎が燃えるのを、マティアは確かに見た。
「死に物狂いで挑んでみるさ……それで何がどこまで変わるか、自信はないけどな」
「……ギリギリ、及第点としておきましょう」
まだ総司らしからぬ弱気が拭い去れてはいないが、多少はマシになったと見て、マティアが仕方なさそうに言う。
「せいぜい足掻きなさい。後悔のないように」
「……マティアに励まされるとは思ってなかったな」
ぎらり、と鋭い視線が飛んでくる。マティアは総司が気安く彼女の名を呼ぶことを許してはいない。
「失礼、“哀の君”が俺を励ましてくれるとは、意外だった」
「あなたを気遣う義理はないわ」
マティアはどこまでも無感情に言い切った。
「けれど彼にはある。それだけのことよ」