深淵なるローグタリア 第七話③ 最も悪辣なる敵対者
シルーセンの村における「新たなる女神」創造の儀式は、もとより失敗に終わる未来しかなかった。村民たちが凶行に走ったのは、リスティリア生命全てが抱える“漠然とした不安”に加えて、噂程度に“意図的に広められた”女神の騎士の存在だ。
起爆剤としては弱かったが、あの村は“最初から壊れていた”。
千年前に直接の対決を経ないままエルテミナに敗北した形で、罪深きカイオディウムを出奔した彼ら――――どんなに取り繕って、腐りかけたものにふたをしてみないふりをしてきたところで、いつか、シルーセンの村は人知れず滅び、歪んだ女神教は歴史の闇へ消え失せていたはずだ。
リゼット・フィッセルにしてみれば、その綻びを衝いて利用するなど造作もなかった。
しかし、彼女自身にも想定外だったのは、自身の「特権」を利用して呼びつけたモノが、リゼット本人ですら見聞きしたこともないとんでもないモノだったこと。
「スラヴの黒神“チェルノボーグ”――――だったっけね。あの時もナメてたわけじゃないんだけど……」
神だの精霊だのは、総司とリズの“広い意味での故郷”からすれば、あくまでも空想上の存在だ。
しかし、空想は世界を超えて現実となった。
単なる妄想上の産物でしかないモノが、世界を隔てて――――そういうモノが当たり前に存在する世界のルールに当てはめられて具現化した。
「あたしの権能で制御しきれなかった。そんで、これだ」
リズがふっと笑う。
離れた位置に、復旧に忙しく動く首都ディクレトリアが見える。リズは甲虫のような魔獣の背に乗って、その光景を遠巻きに眺めていた。
「あたしの制御じゃあ、“本体”がガチで命令した時の何分の一って出力しか出てなかった。アゼムベルムもやっぱ、あたしじゃ無理……こっちの世界じゃあ“チェルノボーグ”よりよほど格上だろうしねぇ……」
元いた世界における神話の中で、スラヴの黒き神“チェルノボーグ”について、詳細を語った記録はついぞ見つかっていない。
そもそもスラヴ系の神話や伝承自体、それが発生した頃に「文字」の文化が乏しかったものだから、現代において「そういう神話や言い伝えと思しきものがあった」ということがわかっているだけでも奇跡的だ。
とは言え、まさかあれほど悪辣な力を持っているとは、リズにとっても予想外だった。
そしてリズにとっては嬉しい誤算でもあったのだ。
たとえ計算外であったとして、“女神の騎士”にぶつけるにはこの上ない戦力だったからだ。
結果は好ましくはないものの、リズにとっては実りのある内容――――端的に言えば“惜しかった”。
リズの狙い通り“女神の騎士”へぶつけられたおぞましい神は、確かに彼を追い詰め、まさに勝利する寸前だった。
そういう意味では、リズが“ナメていた”のはチェルノボーグの凶悪性よりもリスティリア生命の底力だったのかもしれない。
神は精霊へと「格落ち」し、故に並ばれた。
シルーセンにもう一つ存在した、リスティリア生命の序列の二番目――――元「異界の神」をすら上回る強力な援軍、ネフィアゾーラ。
シルーセンは、リズの視点ではほとんど滅び切っていた。セーレという“伝承魔法の後継者”が生き残り、あまつさえ女神の騎士と結託して事に当たるなど想定外だった。
これはマーシャリアで縁を繋いだ総司とリシアの功績であり、図らずもその縁の仲人となった哀の君マティアの功績でもあろう。
そして、“海底神殿”での出来事――――これも、リズにとってはやはりとても“惜しかった”。
リズがカトレアに聞いていた通り、“女神の騎士”には甘さがあった。
そしてカトレアに聞いた話からリズだけが類推していた通り――――若干の人格の破綻が見られた。
それがリズと同じ世界にいた頃からの悪癖なのか、それともリスティリアでの旅路の果てに齎されたものなのかはわからないが――――それはリズにとって、とても明確なる「弱点」に見えた。恐らくはこれからも使えるであろう致命的な弱点。
一ノ瀬総司は、他者に対する感情移入の度合いが明らかにおかしい。
リズは、情報を断片的に伝え聞くだけでそう予想を立てていた。そして彼女の予想は見事に的中しているのである。
もちろんリズは知らないことだが、過去を振り返ってみれば総司の「破綻」が見られる場面は確かにあった。それとわかりづらい形ではあるが――――
中でも比較的わかりやすいところで言えば、シエルダでの出来事だ。シエルダの街で住民が残らず殺し尽くされていた光景を見て、総司は怒りに震えた。
怒りに震え義憤に駆られ、敵意をぶつけてくる魔獣に「売られた喧嘩を買う」かの如く戦いに挑むまでは、心情的に不自然ではないが――――
生き残りがいたことに安堵したとて、崩れ落ちるほど泣くのはどうか。
出会ったこともない赤の他人やその子供が生き残っていたことを喜びこそすれ、まるで「既に縁を繋いだ誰か」の命が助かったかのように涙する異常な喜びようだったのは、果たして「自然」だったか。
アニムソルスに指摘できるほど、彼は「普通のヒトの心情」をよく理解しているのか。
情を持ちすぎる――――だけではない。
至極「簡単に」情を持ってしまう。そしてそれは、女神が指摘した総司の心の「脆さ」――――「感情が希薄になっていた」という見立てと相反する。
リズは総司が歩んできた道のり、彼の心境の変化を知らないが、持ち前の頭脳と「ヒトの心の機微」に聡いことまで併せて、その「齟齬」の答えに辿り着いている。「齟齬」が弱点に繋がることも。
“海底神殿”でリズの同行を許した時もその弱点をついた。
総司が彼女を連れ歩く理由は、筋が通っていないわけではない。だが、内容としては間違いなくこじつけでもあった。
斬るべき相手を斬る選択に慎重な彼ならではの理由のこじつけ――――けれどきっと、それだけではないのだ。
女神の騎士・一ノ瀬総司。彼はきっと、直情的なわけでも、義理人情に溢れた人格を獲得しているわけでもなくて――――
「まあいい。次だ」
リズがまた笑う。
その笑顔は、狂気的で、嗜虐的。穏やかな笑顔だというのに、あまりにも恐ろしかった。
リゼット・フィッセルは、これまで総司が出会ってきたどんな敵よりも総司に対して「攻撃的」。しかもこれまで打ってきた「攻撃手段」が、これまでの敵の誰よりも総司の命に、総司の排除に――――楽しそうに、迫っている。
おぞましき“チェルノボーグ”もどきは、レナトゥーラやベル・スティンゴルドよりも総司の命に迫った。
“海底神殿”での策謀は、ウェルステリオスの介入がなければ成っていた。
淡々と、特に総司に対し何らかの憎悪があるわけでもなく、ただ自分の目的のために冷徹に、冷酷に。
「キミは“取り除く”より“殺す”方が手っ取り早そうだ。結局カトレアの策に乗るのが一番いいってことかなぁ」
「あの虫けらを“ゼルム”と呼称する! と言っても伝承にギリギリ残っていた名前の断片でな、正確な名称は不明だが考える意味もない!」
ヴィクターは、ガラスを薄く引き伸ばしたような板を壁一面に張って、その上に尖った金属の棒で文字を描いた。総司の常識からするとそれは「ホワイトボード」さながらの扱いだ。どうやら魔力を通わせることで、自在に引き延ばしたり消したりできるらしい。
「被害はあったがあの規模の襲撃を受けたにしては『軽微』と評して差し支えのない状態だ、復旧もさほど時間は掛からぬ! リシアの見立てでは、“活性化”していたが故の好戦的趣向がそうさせたと、そうだったな!」
「あくまでも予想だが」
「ディネイザとやら、貴様の功績だ! 褒美はおって取らせる、希望があるなら今の内に言っておけ!」
「もうソウシから貰いましたんで、お気遣いなく」
「うむ、ならば良し! さてでは建設的な議論をせねばなるまい、まず此度の襲撃の原因と目的についてだ!」
首都が大きな打撃を受けたことには違いないが、ヴィクターは決して落ち込んではいなかった。むしろ活力をみなぎらせ、緊急時にこそ皇帝たらんと、いつにも増して堂々としている。
「既に牢は破壊され、的確に“リゼット・フィッセル”のみが脱しておる! 考えるまでもなく、此度の襲撃はあの女の救出が目的だったと見て間違いあるまい! どうやら”活性化”していたが故に抑え切れん状況でもあったようだがな!」
総司はリシアから、リズを捕え、ひとまず『歯車の檻』に連れ帰っていたことは聞かされていた。
リズは陽気にリシアからの質問に答えたりしつつ、皇帝による処遇の言い渡しを待っているところだったというが、突如として海から“ゼルム”なる魔獣――――例の甲虫のような化け物の襲撃を受け、牢は破壊され、リズはそのままゼルムに乗って逃げ去った。
リシアは当然、彼女の後を追いかけたのだが、無数のゼルムに進路を阻まれているうちに見失ってしまった。総司との合流が遅れたのも、リシアは当初、街の防衛戦には加わらずにリズを追いかけたからだ。最終的には被害状況を鑑み、街へ戻るしかなかった。
「私の手落ちだ……安易に彼女を連れ帰ったことも、その後の対応も……」
「ハッハー、黙れぇい!」
「ぐっ!?」
リシアの額がすこーん、と金属の棒に撃ち抜かれる。ヴィクターはいそいそと二本目を取り出しながら朗らかに言った。
「“海底神殿”での状況を聞く限り、その場で『連れ帰らない』選択肢など、他の誰であってもあり得んわ! 言ったろう、この場で必要なのは『建設的な議論』である!」
リシアが額を手で押さえながら頷く。
「リゼット・フィッセル。ヤツが我がローグタリアで巡らされる策謀――――つまりは“アゼムベルム”顕現を巡る一連の事態において、重要な役割を担う存在であるということは間違いない。さてソウシ、貴様の話では、ヤツは貴様やローゼンクロイツと同じ“異界の民”だそうだが?」
「まず間違いない」
「では貴様に聞こう! 貴様は“女神の騎士”としてリスティリアのため尽力してきた。それこそ命を賭してな! ローゼンクロイツも決してリスティリアに対して敵対的ではない――――貴様と『同郷』のリゼット・フィッセルが、世界の滅亡すら招きかねない所業に手を貸す理由。思いつくところがあるか?」
総司は首を振り、眉根をひそめる。
「悪いが微塵も……アイツの目的なんて正直――――そういや、『この世の果て』がどうとか、言ってたような」
“海底神殿”における会話を思い出し、総司がうーんと唸る。ヴィクターはふむふむ、と頷きつつも、総司に思考を中断させた。
「よい! すぐさま答えがわかれば御の字であったが、出てこないのならば今考えることでもない! さて次だ!」
スパンスパンと小気味よく、ヴィクターは話を切り替えて続けていく。
「ゼルムと名付けたあれの正体だが、研究者たちが解剖した結果“魔獣”ではないことがわかっている! では何なのか? ソウシよ、わかるか?」
「やっぱりか」
総司が頷いた。
「“神獣”だな」
「うむ、その通りだ! と言っても“その方が近いらしい”という推測だが――――」
ヴィクターが満足げに笑って総司を見据えた。
「貴様がそういうからにはこの見立ては当たりということだな!」
どうやら総司に聞いたのはカマをかけるような意味合いがあったらしい。
神獣と同質の魔力を持ち、感覚的にそういったことに鋭い総司の回答で答え合わせをしたということだろう。
「ゼルムという名は先ほど言った通り『伝承の断片』だが、この伝承とは当然“アゼムベルム”に関連するものだ! そうつまりゼルムとは――――」
「“アゼムベルム”から派生した存在ということか……!」
「その通りだ! ”アゼムベルム”の標本があるわけでもなし、解剖したとて確証を得られるわけはないが――――この状況で神獣と近しい存在が襲撃してきたのだ、まず間違いあるまい!」
ザシュザシュと、まるで刀でも振るうように金属のペンを走らせて、ヴィクターが続ける。
「これまでの話を総括するに三つのことがわかったというわけだ! 一つ、“アゼムベルム”は既にいくらかの行動が可能な状態に在るということ! 二つ、リゼット・フィッセル、或いはカトレアは、ゼルムを出撃させる程度には“アゼムベルム”を制御できるということ! 三つ、リゼット・フィッセルはゼルムによって救出される程度に重要な存在であるということ!」
箇条書きでそれらを書き連ねて、ヴィクターがうむ、と頷いた。
「さて、ではソウシ! この中で最も重要な情報はどれだ!?」
「えっ? えーっ……んーっ……」
「そう、一つ目だ!」
総司の答えを待たず、ヴィクターがぐいっと丸印を付けた。
「そうなのか? 俺はてっきりリズの話かと――――」
「“いくらかの行動が可能”。なるほど」
リシアが全てを察したようで、納得したように頷いた。しかもその顔にはどこかやる気が漲っているようにも見える。
「流石だなリシア、そういうことだ!」
「どういうことだ。わからん」
「“完全に行動と制御が可能”な状態なら、既に“アゼムベルム”本体で攻め込んできているはずだ」
リシアが総司にわかりやすいように説明する。
「そうしないのは“まだ完全ではない”から。封印の基盤である”海底神殿”もまた健在だしな。しかし、ゼルムを送り込める程度の状態にはなっている――――“アゼムベルム”の顕現がどのような手順で行われるのかは定かではないが、恐らく――――」
「そう、“姿かたちは確かにこの世界に存在すれども満足には動けない”状態ではないか、ということだな!」
「……オイオイまさか……」
総司が少しだけ笑ってヴィクターを見る。ヴィクターは総司とは違い、ハッキリにっこりと笑って告げた。
「そのまさかだ――――カトレアもそうだろう、“まさか首都襲撃を受けた直後に攻勢に出てくる”とは夢にも思うまい! “本体”の姿までは捉え切れずとも、ゼルムの出所、その地点は既に掴んでおる! 雲をつかむような敵であったが、実体が手の届くところにあるかもしれんとなれば二の足を踏む理由もあるまい!」
ヴィクターがパチンと指を鳴らすと、ガラスの板にブン、と地図が浮かび上がった。
首都ローグタリアと『果てのない海』を示す簡易的な地図だ。ヴィクターはそこに矢印を描いた。首都から海へ、一直線に。
「これより打って出るぞ! 動きを悟られぬよう貴様ら三名、最小人数にして最大戦力を投入し――――“完全覚醒前のアゼムベルム”を叩く!」