深淵なるローグタリア 第六話⑤ どうか思い直してほしいと
空に黒と赤の入り混じる、異様な穴が開いている。
禍々しい光を帯びたブラックホールのような外観。不吉に過ぎるその穴までの距離感は掴めず、空と地上の間にあるようにも見えるし、空そのものを侵食しているようにも見えた。
ウェルステリオスによれば「フォルタ島」という名前を持つ島の、飛ばされてきた場所とは対岸。ウェルスに導かれるまま辿り着いた遺跡の瓦礫の上で、圧倒されながらただ空を見上げる。ぽかんと見上げるだけの総司へ、ディネイザなる女性の体を借りたウェルスが語る。
「先に見ることになってしまったね。君の旅路の終着点。レヴァンチェスカの領域に繋がる『門』への道だ」
「あれが……!」
「鍵が全て揃っていない以上、今の君にはほんの少しだけ早い場所、かな」
未だ目覚めないシルヴィアを抱きかかえたまま、総司が目を見張る。
周囲を包む濃度の高い魔力の中で、ひときわ高い魔力を感じる。同時に、どこか不吉さを感じさせる薄気味の悪さも際立っている。
「“ああいう状態”でなければ、“オリジン”が全て揃っていなくても通れないことはなかった……けれど今はね。特に君は相性が悪い」
「……ウェルス?」
「ん?」
「知ってるんだよな、お前は」
総司が静かに聞く。
「ジャンジットは知らなかったが、ルディラントを良く知るお前が知らないとは考えにくい……いや、間違ってたら悪いんだけど――――」
「もちろんだ」
ウェルスの悲痛な表情から、かの神獣の苦悩もまたありありと見て取れる。
「君が斬るべき相手はスヴェン。わかってる。そもそも――――いや、これは言い訳だけど」
「何だ?」
「あの日、私を狂わせたのはスヴェンだ」
ルディラントで総司がウェルスと初めて邂逅した時、ウェルスは友好的ではなかった。一度目の探索に挑み、しかしあまり収穫を得られないまま“真実の聖域”から離れようとした総司とリシアに対し、攻撃を仕掛けてきた。
しかしそれは、スヴェンによる「失策」の結果だった。
「スヴェンは私が正常な状態で君と出会うことを避けたかったんだと思う。だから私から意識を奪おうとしたみたいなんだけど……私も無抵抗でいるわけにはいかなくてね。それを拒絶した結果、一時は正気を失ってしまった。でもあの日、君にそのことまで含めて全て伝えなかったのは私の意思だ」
二度目の邂逅の時には、ウェルスから敵意は感じられなくなっていた。総司に「かつてのルディラントの日常」を見せて、ルディラントの真相に至るヒントを与えた。
確かに今のウェルスの話からすれば、その時に「“最後の敵”が誰であるか」ということも含めて、ウェルスが知る限りの真実を総司に伝えることは可能だったはずだ。
今ウェルスが間借りしている器であるディネイザのような、ちょうどいい器がなくても、ウェルスには総司に理解できる形で事象を伝える術があったのだから。
しかし敢えてそうしなかった。
ただ事実を「教えられるだけ」では、得られないものがあるからだ。
スヴェンはウェルスがそこまで考えるということを読み切れず、ウェルスが関わることそのものを拒絶しようとして失敗した。
しかしウェルスが総司に全てを伝えなかったのは、総司のためだけというわけでもない。
「スヴェンが君と接触し、最後には幻想のルディラントを終わらせるために背中を押したことも知ってる。それを止めなかったのも私の意思だ。きっと許されないことなんだけど――――あの子の好きにさせてあげたいと、思ってしまった」
スヴェンを“あの子”と呼び、ぎゅっと眉根を寄せて目を閉じる。
ルディラントでのスヴェンの行動は、単に彼を“世界の敵”と見なせば不可解でしかない。スヴェンにとってみれば、救世主たる総司に対し好意的に接触する理由も、その旅路を後押ししてやる必要も全くない。
希望的観測かもしれない。単なる総司の願望かもしれない。しかしウェルスの言葉も聞いた今、総司の脳裏にはどうしても。
――――だって、お前に斬ってほしいんだろ、そのヒトは――――
エメリフィムで出会ったヴァイゼ族のステノが、気楽に言ったその一言が、浮かび上がってきて消えてくれない。
「許してくれ」
弱々しい声で、ウェルスが言う。総司がウェルスを見据えた。ウェルスは総司を見ていなかった。
これまで出会った神獣の中でもやはり、格段にヒトに近しい心の機微を持っている。情の深さという点ではジャンジットテリオスも負けず劣らずだが、意思ある生命としての性格的な部分でウェルスの方がずっと「甘い」のだろう。ジャンジットは間違いなく心根の優しいところがあるが、しかし甘いわけではない。ウェルスと同じ立場にもしジャンジットがいたとしたら、恐らくは違う選択を取っていた。
少なくとも、どれだけ縁を繋いだとて――――
「あんな出会いと別れを経験したら、きっと君に辛い想いをさせると……君の心を護るために行動しなければならなかったのに、私は……スヴェンのことを、想ってしまった」
――――世界を脅かす敵のことまでも慮ったりはしなかっただろう。
「それでいい」
ウェルスの弱々しい懺悔の言葉に対して、総司は即座に返した。
「間違ってない」
あの時の状況を客観視してしまえば、神獣たるウェルステリオスは女神の危機を救うため、救世主にあらゆる情報を与えて万全の準備をさせ、且つ“最後の敵”との過剰な接触を――――情を抱いてしまうほどの接触を避けさせるよう行動すべきだっただろう。「正しさ」だけがこの世で最も大事なのであれば、ウェルスはあの時選択を間違えたと言ってもいいのかもしれない。
だが、これまでの旅路と、最終的に“最後の敵”が誰かという解に至るまでの道筋を思い返し、総司は「間違っていない」と断言した。
きっとそうでなければならなかった。
自分と同じくリスティリアにとっての異物である異世界の住人であり、唯一総司が「斬ったヒト」であるサリアの想い人であり、自分の憧れとする一人でもあるスヴェンを。
これまでの旅路で縁を繋いだ「今を生きる人々」のために。
自分の意思で、斬る選択を。
「お前を責めたくてスヴェンの話をしたんじゃないんだ。ただ……スヴェンを知るお前と、スヴェンのことを話したかっただけで。さっきも言ったがお前には何の責任もない。それでも責任を感じてしまうというなら、ここで改めて俺を信じて、俺に託してくれ」
「……良い子だとは思ってた。けど、思っていたよりずっと強い子だった」
ウェルスはようやく笑顔を見せた。
「あの日からとっくに信じているよ。世界を頼む」
「世界を?」
総司がふっと笑って聞き返すと、ウェルスもくすりと笑った。
「ふふっ――――スヴェンを、頼んだよ。終わらせてあげてほしい」
世界を滅ぼさんとする「悪」であるはずのスヴェンに対し、まるで「悪」の安寧を想うような会話。総司とウェルス、二人きりでしかきっと許されないささやかな密談。
総司とウェルスだからこそ通じ合えることもある。それが故にもう少し、この会話を楽しんでいたいところではあったが。
残念ながらそればかりというわけにもいかない。状況が状況である。
ウェルスが総司をわざわざ元いた場所の対岸まで連れてきたのは、『門』へ続く道を見せるためというのももちろんあったが、落ち着いて話をするのにちょうどいい、遺跡の残骸があることを知っていたからでもある。
まだ眠ったままのシルヴィアをそっと、石造りの長椅子に上着を敷いて寝かせ、総司もどさっと腰を下ろした。
「“海底神殿”で起きたことを教えてくれ。リズは俺を元いた世界へ帰そうとした、そう言ってたな」
「うん」
ウェルスは立ったままで腕を組み、矛先の変わった話題に応じた。
「“海底神殿”――――正しくは“隔絶の聖域”というのだけど。君がかつて居た世界との繋がりを持つ場所だ。と言っても、二つの世界の繋がりは、基本的には一方的なものだ」
リズも言っていたが、“隔絶の聖域”に総司が元いた世界の技術の断片が時折現れることを考えるに――――
「“あっち”から“こっち”への一方通行なのか?」
「そう。全部理論立てて説明は出来ないけど……」
ウェルスが言葉を選びながら言う。
「 “異界召喚術”はあっても“異界転送術”は存在しない。要するに、『呼ぶ』手段はあっても『送る』手段がない。“こちら”から“あちら”へ渡ろうと思うなら、“あちら”側から呼ばれないといけない。でもそうなると――――」
「俺が元いた世界には『魔法』そのものがないから、“あっち”から呼ばれることはあり得ない。ってことか」
「大体そんな感じ」
砕けた表現もお手の物だ。アニムソルスにも見習わせるべきヒトとの親和性である。
「けれどそれは『基本的には』の話。例外がある。それが“隔絶の聖域”の持つ機能。ごく限定的な条件下で、“隔絶の聖域”の最深部は、“あちら”の世界への転送機能を発揮するんだ」
「……限定的な条件下」
「“鍵”が最深部の領域内にあり、且つ、そこに“異邦人”が存在する時。そして――――」
ウェルスの眼差しが、まっすぐに総司を見据えた。
「その異邦人が、“あちら”に帰ることを『望んでいない』時に、転送機能は発揮される」
総司はちょっと面食らって、それからうーん、と考えた。
「……そういや、そうだな。この旅を完遂してスヴェンを斬る、それしか頭になくて……その後、帰れる手段があったら向こうに帰るのかどうか、とか。そんなことは全然――――」
「嘘」
ウェルスが首を振りながら静かに言う。
「違うよね。君の本心はきっとそうじゃない」
「……ウェルス、俺は……」
「……あの子――――リシアすら知らない君の本心をここで話せというのも、“順番が違う”ね。その話はこの辺にしておこうか」
ウェルスが仕方なさそうに苦笑した。
「私は君の意思を尊重したいよ。だけど、願わくは“どうか思い直してほしい”と心から思ってるとだけ、言っておく」
「ッ……誤解だ」
「そんなに察しのよくない君がすぐ察してる時点で、図星ってことだ」
総司がぐっと言葉に詰まる。だが、ウェルスはそれ以上追及しなかった。
「ともかくそういう条件で、“隔絶の聖域”の転送機能は動くんだ。『異邦人がその場にいること』って条件の時点で、相当稀な状況下でしか動かないことはわかってもらえたね」
「……ああ、そうだな」
総司もすぐに思考を切り替えて頷いた。
「ただ、今回重要なのはそこじゃない」
「『“鍵”が最深部の領域内にあること』、だな。状況から考えると――――」
寝息を立てて目覚めないシルヴィアへ視線を移し、総司が静かに言った。
「この子ってことになるんだろうが……」
「そうだね」
ウェルスが頷き、総司は思案する。
シルヴィアの双眸を初めて見た時から感じ取っていた“オリジン”の気配と全く無関係ではないだろう。
『歯車の檻』にいるばあやの見立てで言えば、シルヴィアの双眸は外的な要因によって齎されたもの。総司が感じ取った気配と併せて考えれば“オリジン”の影響によって発現した異能だと結び付けてもいい。
ウェルスが明かした『最深部の機能』の条件も加味すれば、つまり“鍵”とは“オリジン”。ローグタリアの秘宝たる“レヴァングレイス”が内包する力が必要だということになる。
「ウェルスの見立てではどうなんだ?」
総司が何気なく聞いた。
「シルヴィアには“異性を魅了する目”っていう特殊な能力がある。俺はそれを“レヴァングレイス”の影響によるものだと読んでる。ここまでは?」
「ほぼ正しいと思うけど、少しだけ認識が違うかもしれない。その子の能力は、私の知る“レヴァングレイス”の特性を『劣化させたもの』だ」
「ん?」
総司はここで首を傾げて、
「“レヴァングレイス”の能力そのものを、か? 影響を受けてこういう能力が発現したってわけではなく?」
「言った通りだ。彼女の異能は“レヴァングレイス”が本来持っている『ヒトを正気を失うほど魅了する』特性を、彼女にとっての『異性』のみを対象として発揮されるものへと劣化させて発現している。“オリジン”の力はレヴァンチェスカの力。女神の力を下界の生命が同じように扱うことは出来ない。古代魔法と同じだ、劣化させた状態でなければ掌握できない」
「……んー?」
ウェルスの言葉自体は理解できるものの、総司は全容が把握し切れていなかった。
「つまり……この子は“オリジン”の影響を受けたというよりは――――」
「“オリジン”の力そのものを有している。ただ、全てを私が伝えるのは違う、かもしれない」
ウェルスはどこか煮え切らない言い方をした。
「彼女こそローグタリアが抱える最大の禁忌であり……今代のローグタリア皇帝が犯した罪の化身。皇帝とは仲良しなんだろ。彼に聞いて。正直、これでも言い過ぎかもしれない」
ウェルスは頬を掻きながら言った。
「他ならぬ君の旅路に関わることだ……知る限りのことを教えてあげたいけれど……きっと、それだけじゃダメなんだ。これは間違いなく、“ヒトの業”の領域だから」
「……わかった。お前の言う通りにしよう」
総司がひとまず頷いたところで、ウェルスは次の話題に移った。
「私が『最深部』で介入して、君たちをとりあえず逃がした。ただ、転送先はどこでもいいというわけにもいかなくてね。同じ“聖域級”の場所として繋がりやすかったこのフォルタ島に緊急避難させた。そう遠くない場所だよ」
「そう遠くない、のか」
「『果てのない海』の果て、君がもうすぐ来る場所。普通のヒトでは辿り着けもしない場所のはずだけど……」
ウェルスはディネイザなる女性の腕を眺めながら、不思議そうに言った。
「この体の持ち主は辿り着いていた。純粋なヒトではないからなのか、それとも……」
“この会話のために用意された舞台装置なのか”。
ウェルスが言わんとするところをくみ取りつつも、敢えて口にすることはせず、総司は言う。
「戻るのを手伝ってくれるか?」
「もちろん、私に任せて」
総司の言葉に、ウェルスは力強く頷く。
「私の“本体”で君たちをローグタリアまで送り届ける。その後は悪いんだけど、借りたものを私の代わりに返しておいてほしい」
「ディネイザさんが目覚めるまで面倒を見ろってことだな。わかってる。ヴィクターに頼んで部屋を用意してもらうよ」
「事情はどう説明する? 皇帝にもディネイザにもだけど……うまい言い訳が私には思いつかないな」
「ありのまま話すしかしゃーねえな」
総司は笑いながら、シルヴィアを抱えて立ち上がった。
「それで信じてもらえなくてもしゃーなし。こんな辺境で偶然出会って連れて帰るまでの道筋に、何もおかしいところのない完璧な嘘を用意するなんて俺だって出来ねえよ」
「確かにね」
総司の割り切った物言いに、ウェルスはくすりと笑う。
「ディネイザさんは見たところ、腕の立ちそうな女性だ。もちろんまだ詳しいことはわからないが……事情を話してもしも信じてもらえたら、ここから先、味方になってくれるかもしれねえ。お前の話を聞く限り……ローグタリアの中枢、全部が全部信頼しきっていいわけでもなさそうだしな」
「あぁ、やめて……私が教えたことでそういう影響が出ないようにしたかったのに……」
「無理だよ、諦めろ」
「だよね……」
「……ヴィクターが悪人だなんて思っちゃいねえよ。隠し事の一つや二つあるのも当然だ。が、俺は俺の目的のためにそれを知らなきゃならないらしい」
総司が厳しい顔で言う。
「ヴィクターは一人のヒトとして俺より格上だ。アイツが隠そうとしていることを知るには、それなりに覚悟を決めないと。別にお前が負い目に感じることはないよ」
「……まあ、今更遅いね。話すと決めたのも私だ。願わくは、全てがうまくいくことを。さあ、行こうか」