深淵なるローグタリア 第六話③ 死にゆくあなたへ
眼前に広がる幻想的な、しかしそこはかとなく不気味な光景に目を奪われてしまっているリズは、しばらく口を開きそうになかった。
しかしそれも無理のないことだと、総司はぼんやりと思っていた。
初めての来訪でかなり凄まじい場所へ――――明らかに重要そうな場所へ辿り着けた総司ですら、思わず息をのむほどの光景なのだ。何度も訪れて、何とか先へ進もうと試みては頓挫していたリズが感動で言葉を失うのも仕方がない。
総司たちが辿り着いた『一段下』は、総司がリズに向けて言った通り『一段下』どころではなかった。
総司たちがふらりと入ったあの小さな入口は既に空間から消え失せ、代わりに三人は暗い星空のような球形のドームの真っただ中にいた。
中央に向かって四方から細い通路が伸び、中心にある鳥かごのような、淡くぼんやりと光るカプセルのような正体不明の構造物へと繋がっている。中央の構造物の発光だけでなく、ドーム全体を旋回する謎めいた光の光量もあって、薄暗いが真っ暗闇というわけでもなく、薄い白と青の光が全体を少しずつ照らし出していた。それでも、中央のカプセルのような構造物の細部までは見えない。
薄く尾を引く、目に見える濃密な魔力の流れが、流星のように球形の壁から中心の構造物へ流れ込んでは、ざあっと風のように上部へ発散されて、またドーム全体へ静かに広がっていく。その流れに一体何の意味があるのか、何を表しているのか、見ているだけでは少しもわからない。
とにかく巨大な空間だ。通路から下を覗き込んでみると、炉のように煌々と輝く白の強い青色の光が見えるだけ。球形の空間の壁には凹凸があり、何かが埋め込まれているようにも見える。
「んぐっ……んん?」
シルヴィアがわずかに呻いて、頭を軽く押さえながら膝をついた。総司が気付いて声を掛ける。
「シルヴィア? どうした、大丈夫か?」
「ん……平気、だけど……何だろ、何か変な感じ……」
「あー……空気中の魔力が濃すぎるのかもしれねえな」
ルディラントでの探検を思い出しながら、総司がそんなことを言いつつシルヴィアに近寄り、その肩に手を置く。
「しばらく体を慣らした方が良い……ここから離れられればそれが一番なんだろうが、今のところ出口もわからねえしな」
「そうなのかな……いや、でももう大丈夫」
深呼吸一つ、シルヴィアがすっと立ち上がる。
「一応、懲罰の一環らしいし。ソウシの足を引っ張るわけにはいかない」
「小悪党やってた割に真面目だな……まぁ、大事ないならそれでいい」
総司は苦笑しながらあたりを見回した。
見れば見るほど幻想的な空間だが、例えば大聖堂デミエル・ダリアの最深部に入った時のような、「神秘的」だとか「厳か」だという感想は不思議と抱かなかった。
荘厳という言葉は似合わない。厳粛な空気感もない。何故か、この場所に「そういう感想は相応しくない」と思えてしまう――――どうしてそんな感覚を持ってしまうのか、総司にはわからなかった。
「おいリズ、そろそろあんたの知識の一つや二つ、披露してくれても――――」
ガシャァン、と派手な音がして、続いてバチン、という電撃が走るような音。総司の目が途端にぎらついた。
金属の扉が開くような音。詳細はわからないが、急に響き渡った派手な音によって総司の警戒レベルが一気に引き上げられて、その手がリバース・オーダーの柄に飛んだ。
「ッ……何だ……?」
球形の空間の、壁の凹凸が「開いていた」。凹凸に見えたそれらは、単なるシャッターだ。ブラインドカーテンのようにガシャン、と開いたそれらの奥に――――
光り輝く、魔法による灯りではない“照明”を見る。球形の空間が一気に明るく照らし出された。
総司の目が驚きに見開かれた。
「“水銀灯”……じゃないか……?」
リスティリアに来てから、灯りと言えば魔法によるものか、魔法によって保たれる火によるものだった。マーシャリアで「ガス灯」のようなものは見たかもしれないが、あれも「技術の発展」によって造られたものであるかは定かではない。
しかしここにある照明は、元いた世界の歴史にさほど精通しているわけではない総司でも理解できるほど、リスティリア世界の技術水準の遥か先を行く物。
白熱電球が実用的なレベルでの完成を迎えたのは、1879年とされている。「水銀灯」の開発と改良の歴史はそれよりも前から始まっていたものの、様々な形での「実用化」にまで至ったのは1900年代初頭の話だ。リスティリアの機械文明の発達は、局所的に見れば近しい発明品もあるものの、全体で見て1900年代初頭並には全く至っていない。リスティリアという世界の特徴として、横のつながりが希薄であることと、総司がいた世界で機械が担っていた役割を魔法が代替できることによる発展の遅さが確かにあるのだ。
故に矛盾する。リズが言っていた通りだ。太古の昔から存在する“聖域”の内部に、リスティリア現世の技術水準の遥か先を行く発明品が、確かに存在している。
「“海底神殿”に零れ落ちてくるのは、“リスティリアではないどこかの技術”だ――――とする、荒唐無稽な仮説があってね」
思わず、背筋に悪寒を覚えた。
リズの声のトーンが、総司に言い知れぬ不安と不気味さを感じさせた。
似ている――――心底狂い切ってしまった賢者アルマの、何かに心酔しているような、取りつかれているような雰囲気に。
「当然、歴史研究家が大真面目に取り組む説ではなかった。そりゃそうさ、結局はある種の諦め、考察を投げ出した末の仮説……そこに確かに在る技術の発展経緯をどうあっても解き明かせないから、無理やり理屈をつけようとした。あたしはそこに一つの可能性を見出したんだ」
戦闘能力で総司がリズに劣るはずもなく、掴みどころのないところはあっても、総司にとってリズは脅威ではなかった。
そのはずだったのに、リズが総司へと向ける視線を真正面から見つめ返して、総司は底冷えするような寒気を覚えてしまう。
よく言えば恍惚としている――――悪く言えば取りつかれている。形容しがたいその眼差しを表現するとすれば、良くない夢にうなされているのにどこか嬉しそうとでも言おうか。
想定外の魔力を迸らせているわけでもないのに、リズが放つ気配が異常性を帯びている。
危険だ。総司は咄嗟に、調子の悪そうなシルヴィアとの間に割って入るように動いた。だがその必要はなかった。
リズの異常な眼差しはただ、総司にだけ向けられていた。
「仮説ではなく事実だとしたら。“海底神殿”には、異界へ通じる道があるということだと」
「……おかしいな、それこそ矛盾してる」
リズはカトレアの陣営だ。総司に対して際立って敵対的ではないが、いざとなれば斬る理由にはなる。その選択を出来るだけしたくないというのが総司の本音であるのは言うまでもないし、だからこそリズと行動を共にすることを許容したのだが――――
急激に異常性を増すリズの雰囲気にあてられて、無意識に総司の手がリバース・オーダーの柄を捕らえていた。
「俺の思い違いだったら悪いんだがな。その顔は“この場所に来て確信を得ている”顔に見える。ここで“何を見て”だ? “アレ”か?」
ずらりと壁面に並べられた水銀灯を示し、総司が鋭く聞く。
「今のところ“アレ”しかない。けどだとするならおかしい。どうして“アレ”がリスティリアのものではないと確信できるんだ。あんたは“知らないはず”だ」
「カトレアにキミの話を聞いた時にね」
リズがにぃっと、不気味な笑みを浮かべた。
「あの子は誤解していると思った。キミは短絡的で、リシアという相棒がいなければどうにも思慮に欠けるという人物評。カトレアはまだ若い。故にヒトの心の機微を見誤りがちだ」
「……何を――――」
「キミの思考能力は決して低くない。ただ想定に対する自信がないだけなんだ。キミもまた若い。故に“想定通り”の成功体験に乏しく――――頼れる相棒が出来て任せきりだから、経験が積めなかった。言ってあげようか?」
リズは不気味な笑みを浮かべたまま言った。
「気づいているだろう、ソウシくん。キミの考えている通りだよ」
リバース・オーダーを背から外し、ヒュンと振ってリズへ向ける。
「“どこの出”だ」
「あたしの名は“リゼット・フィッセル”。リズは愛称ってやつだ。“日本人”であるキミには馴染みがないだろう。何せ“オランダの名前”だからね」
「なに……? さっきから何の話?」
シルヴィアが不安そうに聞きつつも、総司がリズへと向けた敵意に応じてとりあえず、リズに対し警戒の構えを取る。総司はそんなシルヴィアをぐいっと自分の後ろへ押しやった。
「そっちは俺の名前からすぐ日本を連想できるんだな。日本に縁があるのか」
「そうだね、一度だけ日本の地を踏んだことがある。不思議な縁もあるもんだ、まるで日本とリスティリアが繋がっているみたいだ。まあキミのトコは神様が八百万ほどいるらしいし、そのうちの一つがこっちの女神さまと仲が良いのかもねぇ。あぁ、日本じゃ神様の数え方は『柱』だったっけ?」
じりっと、総司が構えを取り直す。
総司の警戒は『異世界人としての特権』に対するものだ。
カトレアの陣営に属するリズが総司と広い意味で“同郷”である事実を隠していて、“海底神殿”の最も重要と思われる場所でそれを明かした意図。今もって不明ではあるが、リズの異常な雰囲気を合わせて考えれば、これから何かを仕掛けてくる可能性が高まっているように思えてならない。
現時点での魔力とリズの身のこなしを見る限り、戦闘で後れを取るとは総司も思っていないが、彼女が自分やヘレネ、スヴェンと同じく『特異な能力』を獲得していたとしたら話は別だ。
何が飛んでくるかわからない。ここまでの道中もリズのことを信頼していたわけではないが、ますます油断ならなくなった。
「そーんなに怖い顔をしないでくれよ。むしろもっと喜んでくれても良いんじゃないか? キミもこっちでいろいろと、“異邦人”として苦労したろう。あたしはそれを分かち合ってあげられるよ」
「目的はなんだ。ただ『歴史の理解を深めたい』からここまで来たわけじゃないはずだ。そこがハッキリしない限り、“同郷”の苦労話に花咲かせる気にはなれねえな」
「簡単なことさ。ローグタリアがもしも、“我らが故郷”と縁の深い場所ならば――――」
リズの目が――――恍惚としていた、どこか狂気を帯びたようにすら見える目が、初めて。
総司を外れて、シルヴィアに向けられた。
「そこへ至る扉を、開けるかもしれないってね。丁度そこに鍵もある」
決してリズから目を離すまいとしていた総司だったが、思わず振り向いてしまった。
球形の空間の中央にある、鳥かごのような巨大な何かから膨れ上がる強大な魔力が背中に突き刺さるように照り付けてきて、振り向かずにはいられなかった。
光渦巻く鳥かごの中に「何か」がいる。無数の蛇のようにうごめく青白い光の帯が、鳥かごの隙間から球形の空間内部へゆっくりと伸び始める。
そして――――シルヴィアがどさっと膝をついて、苦しそうにうめき声を上げた。
「う、ぁ……ああああ!!」
悲鳴が上がる。突如として様々な異変が同時に起こり始めて、総司は冷静さを失いつつも、シルヴィアの肩を抱いた。
「どうした!? シルヴィア!」
肩を抱いて、気付く。
シルヴィアと初めて出会い、その魅惑の双眸を初めて見た時と同じ感覚。
シルヴィアから発せられる気配の中に、あの時と同じく“オリジン”の魔力を感じ取った。
双眸だけでなく、シルヴィアの全身から、鮮やかな水色と赤色の光がざあっと漏れ出してきて、周囲に拡散していく。
鳥かごの中でうねる「何か」の強大な魔力に呼応するように。
「これは――――」
「ダメ、離れて……ソウシ……!」
何が起きているのか、これから何が起きるのか全くわからない。だが少なくともリズは、総司とシルヴィアの様子を全てわかっているような顔で笑顔のまま見つめていたのだが――――その笑みが崩れ、驚きに目を見張る。
「おっとぉ……!?」
鳥かごの中から、触手のようにうねっていた光の帯が伸びてきてシルヴィアを捕まえる――――よりも、一歩早く。
総司たちの足元、遥か下。
炉のように煌々とあたりを照らしていた遠い光の中から、青白く光る無数の手が凄まじい速度で伸びてきて、総司とシルヴィアを豪快に掴み上げ、だだっ広い通路から取り上げて「下」へ攫って行く。
「おおおおおお!?」
「あっはっは、マジ!? あれっ、思ってたのと違うなぁ!」
リズが通路の端に屈みこんで、無数の手に連れ去られた二人を目で追った。
鳥かごの中から伸びる光の帯が、二人を追いかけてギュン、と下へ飛ぶ。
炉のように輝く光の中で、「無数の手」と「光の帯」による“争奪戦”がどのようにして決着したのか、リズには見えなかったが――――
バツン、と大きな音がして、全ての水銀灯が消灯した。
鳥かごが急に光って魔力を発し、異常事態を引き起こしたかと思えば、それが嘘のように光を失い――――まるで何事もなかったかのように、ただ薄暗い空間の中で、遥か下の炉のような輝きだけが球形の空間を照らす、来た時と同じような景色に戻った。
リズは呆気に取られて、数十秒もぽかんとした後で、どさっと後ろ手に手をつき、弾けるように笑い出した。
「あはははは! いやー参った……! 多分これ“うまくいってない”な……流石にちょっと安直過ぎたか……!」
「何がどううまくいかなかったのか――――」
リラックスした様子のリズの首元に、ぴたりと剣が当てられる。リズが笑みを浮かべたまま目を細めた。
「ここで起きたことも、全て。貴様は事情を知っていると見える。話してもらわねばならない」
「リシア・アリンティアスか。ちょっと遅かったね……とはいえ、キミらにとっての最悪の事態には、どうやら持っていけなかったようだけど」
冷たい目をリズに向け、リシアが言葉を続けた。
「ソウシはどこだ」
「……はいはい、話すよ。ただここに居残るのはまずい。場所を変えよう」