深淵なるローグタリア 第一話③ ネフィアゾーラ・ラヴォージアス
「善の神と悪の神。光の神と闇の神。白と黒。“あなたの世界”における多神教の原則――――良き神と悪しき神の対立、その後に起きる予定調和の如き勧善懲悪。けれど、“その神様”だけは外れている」
宗教観、信仰が、異教徒たちの侵略と共に上書きされ、塗りつぶされていく中で。
誰もが読み解くことのできる「完全な記録」を持たなかった者たちの心の拠り所、もしくはその読み解き方までが完全に伝わり切らなかった寓話。
間違いなく存在したと思われる、信仰を集めた神話の中で、明確に「善なる神」の実在が確認できず、「悪しき神」のみがはっきりと記された物語。
他の宗教観における多神教の原則に基づき、後世において「善なる神」の席に座る存在の名が「後付け」された神話。
悪しき神がいるのだから、その敵となるべき善なる神も必ずいたはずなのだと、後世の研究者たちが“その神話に縋って生きる者たち”に「持たせるべき希望」を書き加えた。
総司の元いた世界において、現代まで存在が伝わる“多神”神話において。
原典に「善なる神」の存在が明確に確認されていない神話がある。欧州のわずかな地域に残る「地名」を見て、「きっといたのだろう」と希望的観測のもとで語られる白き神。
黒と対を成すはずの白が、どこにもいない神話。
「さて、流石の私も“あちらの世界”の過去にまでは詳しくないけれど。対立する善なる神がもしも“本当に存在しなかった”としたら――――けれど、信仰を集める神話ならば、悪しき神は“それでもやがて打倒されるべき”なのだと定義すれば」
女神レヴァンチェスカの凛とした声を聞く者は、誰もいない。
「ヒトの英雄が、悪しき神を打倒し神話の時代を終わらせるという英雄譚か、或いは――――“神”にはわずかに及ばぬ存在が、ヒトと手を組み、悪神を滅ぼす反逆の物語なのか……ふふっ、でもあなたのことだもの」
凛とした声が、少し崩れて、笑い声を含んだ。
「きっと、手を取り合って悪に立ち向かう物語になるのでしょうね」
リシアは決して、総司の言うようにぼさっとしていたというわけではなかった。
ただ、リシアもセーレも動けなかっただけだ。
蒼銀の爆裂の中、ちぎれた首一つになっても、ゆらゆらと浮かび笑みを浮かべる異形の怪物が醸し出す、圧倒的な力と不気味過ぎる気配――――そして、相変わらず脳と神経をぐらつかせるようなノイズが、二人の動きを奪っている。
明らかに魔法的な、呪いじみた行動制限と、「恐怖」そのもの。
化け物の首元に糸が集まり始め、無数の糸が刃の如くリシアとセーレに向けて射出されても、二人は硬直してしまって動けない。
まともに動けるのが、総司しか――――
「ぬぇぇい!」
いや、もう一人いた。
ローグタリア皇帝・ヴィクトリウス。リシアに置いてけぼりにされた彼は、全速力で祭壇まで駆け抜け、リシアとセーレに飛びついて糸を回避した。
「ハッハー、待たせたな! こんなに走ったのは久しぶりだぞ!」
「流石だヴィクター! やるヒトだと思ってたぜ俺は!」
「当然だ!」
総司が素早く三人の前に回って、化け物との間に挟まる。
化け物がかっと目を見開くと、祭壇の周囲にゆらゆらと薄紫色の膜が張られた。小規模な結界――――漆黒の結界と共に二重で囲んで、「絶対に逃がさない」という意思を示している。
せめてこうなる前に、セーレを出来るだけ遠くへ逃がしたかったというのが総司の本音ではあった。当然、こんな能力まで読み切っていたわけではないが、曲がりなりにも戦い続けてきた本能が、とにかくセーレと化け物の距離を取らなければ必ずまたセーレが狙われると総司に告げていたのだ。
結局のところ、状況としては最悪。繋がりを断ち切りこそしたものの、セーレが化け物の「射程圏内」にいる状態で、しかも総司の渾身の一撃は化け物の命を取るに至らない。
存在の格が違う。まともにやり合って勝てる相手ではないから、先制し立て直す暇を与えず最大火力を叩き込んだ。総司の戦術自体は間違ってはいなかったが、そもそもの前提が間違っていた。
まともにやり合おうが、奇襲を仕掛けようが、関係ない。“そもそも勝てる相手ではない”。
「ヴォー……ヴィィィィィィ……」
「……何だ……?」
首だけになった化け物が、糸で体を形作りながら天を見上げた。
やがて、糸の渦が唯一残った首すらも巻き込んで、その渦の中に沈める。
そして――――
リシアやセーレのみならず、総司も、ヴィクターも巻き込む、強烈な「脳と神経をぐらつかせる」ノイズが響き渡る。
「ぐ、おぉっ……!」
思わず剣を取り落としそうになるほどの衝撃。同時に、祭壇の中央から凶悪な魔力が拡散する。
神獣すらも超える、莫大な魔力の奔流。光がふっと消えたかと思うと、漆黒と淡い水色の魔力が霧のように広がっていく。
糸の集積によって出来上がった球体が形を変えた。
深海魚のような不気味な顔に、黒ずんだ鋼の鱗を持つ、蛇のように長い怪物の首が――――中性的なヒトの顔の面影など完全に捨て去った、「魔獣」然とした凶悪な顔が伸びてきて、それに合わせてゆっくりと、ほっそりとしたドラゴンの体躯を形成し始める。細い体躯に似合わない、巨大な手と足先をしていた。手の指も足の指も全て、生物を殺すことに特化した刃のような鋭さを持つ。
大きさの異なる同じ顔が、同じ首が、六つ。刃のような鱗で覆い尽くされた翼も左右三対に六枚。
先ほどまでの「生理的な嫌悪感」を覚える見た目とは違い、まさに「化け物」と称するべき凶悪な魔獣の姿で、怪物が吼える。
その咆哮はもはや女神の騎士すらも“関係なし”。
行動能力を奪う強烈なノイズ、圧となって、四人に平等に襲い掛かる。
「うぐ、おぉ……!」
総司にその責めを負わせるにはあまりにも酷だが、事実として。
総司の破壊的な攻撃が、化け物の「殻」を破ってしまったのだろう。幼体から成体へ進化を遂げた化け物の口が、六つともかぱっと開いた。
「ソウシ、“くれ”!!」
リシアの叫び声が聞こえたと同時に、総司は剣を祭壇の地面に突き立てて叫んだ。
「“ティタニエラ・リスティリオス”!!」
「“エルシルド・ゼファルス”!!」
深緑の魔力が背後へ伸びて、女神の騎士の力を受け取ったリシアが叫んだ。
光機の天翼が展開されて分離し、円形に陣取って光り輝く盾を形成する。
化け物の咆哮と共に放たれた、黒と淡い水色が入り混じる、魔力の閃光。リシアが展開した盾がそれらを受け止めるが、全てをはじき返すには至らなかった。
蹂躙され吹き飛ぶ祭壇。化け物自らが張った結界に激突し、瓦礫は消し飛んでいく。
“ゼファルス”の真髄に至っているリシアが、これまでの戦いで学んだことを生かして、伝承魔法の使い手たちが操る「盾」を展開しからくも難を逃れる形となった、のは良いが――――
破滅的な攻撃の余波を受けて、セーレとヴィクターをかばい、既にズタボロとなった総司とリシアに、この先の「勝利」があるとは到底思えなかった。
「はっ……ハッ……!」
「あー……本格的にやべーな、これは……!」
リシアも既に疲労困憊、動けないはずの状況で無理やり動いたのもあって、もう戦える状態ではない。
総司も――――勝てるかどうかは別として、一人であればまだ気合で戦えたかもしれないが、三人をほったらかしにして戦い続けるのはあまりにも無茶だ。
「ダメ……」
セーレが絶望的な声で呟く。
「また……また、皆……死んじゃう……! そんなの……そんなのっ……!」
細々と、シルーセンと言う田舎で育んできた友情を失い。
親しい者たちを皆失って、最後に縋った希望すらも巻き込んで。
このまま何も出来ず、ただ予定よりも死人を三人多く増やすだけ。
そんな未来に絶望し、涙を流すセーレの脳裏に、声が響いた。
『彼に触れて。そこから先は彼が知ってる』
苛烈な侵食からセーレを護り続けてくれた、セーレにとっての守り神の如き、彼女の声が。
「ッ――――ソウシ!」
セーレは未だ動けず、まともに声を発するのもやっとだった。その場にうずくまったまま、総司の名前を呼んで、必死で手を伸ばした。細かい説明をすることすら出来なかった。
だが、総司は振り向いてセーレの目を見た瞬間、直感的に自分のやるべきことを悟った。
セーレに「あの呪文」を伝えながら、総司が体を無理やり動かしてセーレの元へと駆ける。
化け物の第二撃が来る前に、達成しなければならない。
セーレが伸ばした腕が、駆け付けて屈んだ総司の背に触れた。
そして、二人で同時に叫ぶ。
繋いだ縁を力に変える、あの魔法の名を。
「「“エメリフィム・リスティリオス”!!」」
漆黒と蒼の稲妻が走った。
総司の衣服が稲妻と同じ色に染まり上がって、瞳に深い蒼が刻まれる。セーレが持つ伝承魔法の力が、総司の中に入り込んでくる。
繋がる力“エメリフィム・リスティリオス”によって、総司はセーレが内包する伝承魔法の力を獲得した。
化け物がけたたましい叫び声を上げて、セーレが苦悶の声を上げるが、総司の背中から手を離さなかった。
「セーレ、無理すんな、もう――――」
「このまま……!」
総司自身も余裕があるわけではないが、セーレの方がもっと苦しい。その状況の中でも、何故かまだ手を離そうとしないセーレを気遣ったつもりだったが、セーレは声を絞り出した。
「彼女を呼んで……!」
「ッ……わかった! やるぞ、セーレ!」
伝承魔法の力を借り受けると共に、総司にはその魔法の使い方も流れ込んでくる。セーレがやろうとしていることを悟って、総司も覚悟を決めた。
化け物のいくつもある眼差しが全て、セーレをまっすぐに睨んでいる。
相対する力を、これから自分に歯向かってくる存在を、知っているかのように。
「お願い……皆を、助けて……!」
二人の声が、再び重なった。
「「“ネフィアゾーラ・ラヴォージアス”!!」」