深淵なるローグタリア 序章③ 狂信者たちが目指すものは
「ラー……トー、ヴィッ……♪」
ヒトの耳には非常に不愉快な、耳障りのすこぶる悪い「声」が、楽しげな調子で響いていた。
不気味に黒く染まり上がり、月とも太陽ともつかぬ不自然に煌めく白い真円だけが浮かぶ空の下。
生理的な不快感と恐怖を駆り立てる、肌色の体躯を持つ化け物が、細い糸を弄ぶ。
その見た目はまさに「化け物」然としていた。獣とヒトを最大限に気味の悪い形で合体させた、と言えば、恐らくかの生物を形容するのに最も近しい表現となるだろう。
不自然に手足の長いやせこけた体躯に、異様に長く「硬さ」を感じさせない首。顔の部分は中性的なヒトのようにも見え、薄く笑っているのも相まって、角度によっては慈愛に満ちた聖母のように、また別の角度で見れば嗜虐的な悪魔のようにも映る。
蝙蝠のような翼を左右対称に三枚ずつ背負い、顔は体躯に比すれば随分と小さく、そしてその小ささに不釣り合いなほど両目が巨大だ。
事細かに形容するにつけてもとにかく不気味で、恐怖を駆り立てる容貌の化け物は、いそいそと細い糸を巧みに操り、何事か器用な作業に夢中の様子だった。
無数の糸の先には、ヒトの形をした影のような、光のような、明確な「生物」とは見えない何かがいる。
少女の姿をしたそれは大口を開けて、目と思しき輪郭から涙を流しているように見える。
周囲には干からびたヒトの遺体が散乱していた。化け物に近しいほど幼い姿で、遠のくほど大人の姿。苛烈で悪辣な死の侵略が、幼い者から順番に広がっていったことが見て取れた。
「ヴォー……? ……ヴィィ♪」
長い足であぐらを掻いていても、3メートルはあろうかという巨体を持つ化け物は、時折首を傾げて手を留めては、何か良いものを見つけたように再び手を動かす。
壊れたおもちゃを慣れた手つきで直しながら、時折うまくいかない部分ではたと手を止めるように。
気楽な調子で、少女の姿をした影のような何かを弄ぶ。
崩れ落ちた石造りの家屋が立ち並ぶ村の中心。
地面から巨大なトゲが、怪物の手でそっと「彼ら」を抱くように天に向かって伸びる、禍々しくも美しい祭壇の上。
無垢で儚い命が、正体不明の悪意に弄ばれ続けている――――
「……どうして?」
星空を足蹴に、真っ白な空を見上げる“狭間”で、セーレは震える声で問いかけた。
「あなたが、何で……?」
セーレの体は、所々が青黒いシミに侵食されていた。体が崩壊していくのを、青黒いシミが如実に示していたが――――その侵食は、止まっている。
セーレの意識、精神は、マーシャリアから帰還すると共に喰らい尽くされていても何ら不思議ではないほど、苛烈な侵食を受けていた。セーレは自分の精神力で耐え抜こうと決心していたが、果たしてそれが出来たかどうかは定かではない。
だがそうはならなかった。正体不明の悪意に侵食されるセーレの器は、中身であるセーレの意識がマーシャリアに連れて行かれると同時に、“取って代わられて”。
セーレの存在における本体とも言うべき魂が護られていた。
『……お帰り、お馬鹿さん』
全く手入れのされていない、肩までの長さの乱れた黒髪。
質の悪い布を適当に繋ぎ合わせただけのような、上下一体だがワンピースと言い切るのも憚られるズタボロの服。
セーレの体よりもずっと多くの青黒いシミを抱える存在。
見た目はセーレとそう歳が変わらないか、少し上ぐらいの少女が、無表情の中にも若干の呆れを滲ませて、セーレに静かに声を掛けた。
『どうして。それはこちらのセリフ。何故戻ってきたの。マティアが私との約束をそう簡単に破るはずがない。キミが自分で、戻ると決めた。そうでしょう』
「じゃあ……じゃああなたが、私をマーシャリアに逃がしてくれたの?」
『……別に。“ヤツ”の目的はそもそも私なのだから。あのやり方じゃキミを喰っても私には辿り着けなかったと思うけど……私を喰らい尽くせば満足してキミをその辺に捨てるはず。キミは生まれのせいで巻き込まれただけだし』
「……ありがとう、“ネフィアゾーラ”。会えると思ってなかったわ。私の才能ではきっと、あなたを呼べるほどの魔法使いにはなれないでしょうから」
セーレが寂しそうに笑った。ネフィアゾーラと呼ばれた少女は、にこりともせず、静寂な眼差しをセーレに注いでいる。
セーレとネフィアゾーラが出会うのは初めてのことだ。だが、セーレは彼女の名前を、彼女と言う存在を直感的に理解し、“知っていた”。
自分がその身に秘める“伝承魔法”の先にいる存在だから、わかったのである。
とはいえ、伝承魔法を継承していれば必ず「その先にいる者」を知覚できるというわけではない。そもそも「その先にいる者」の側が、伝承魔法の継承者と言葉を交わそうとすること自体が稀である。その意味で、ネフィアゾーラが例外的であることは前提ではあるが、セーレがネフィアゾーラを見た途端、彼女という存在が何たるかを認識できた最たる要因はひとえに――――
『そうは思わない。間違いなく資格がある。怠らなければ、あと十年』
「あら。買ってくれているのね」
セーレもまた、伝承魔法の継承者としての器だけなら、「その先にいる者」を疑似的に使役し得る才能を秘めているからだ。
『……マーシャリアで、何があったの』
「助けに来るって、約束してくれたヒトたちがいるの」
『お馬鹿』
ネフィアゾーラはどこか優しげに響く罵倒を繰り返した。
『それで帰ってきたの。信じられないお馬鹿さん。来るとも限らないし、来たところで“ヤツ”に届くはずがない』
「“女神の騎士”、あなたならわかる?」
『わかるけど、だからってどうにもならない』
ネフィアゾーラは辛辣だった。
『ヒトの中では強いでしょう。でも、だからどうにかなるような相手でもない。わかっているでしょう』
「……そうね。けれど」
セーレはネフィアゾーラの辛辣な物言いに臆せず、ハッキリと言った。
「賭けてみたいと、思えるヒトたちだったわ」
『……そう。ならもう何も言わない』
ネフィアゾーラは諦めたように締めくくった。
『もう少しなら持たせられるけど、キミが戻ってきた以上、私を喰らい尽くしたところで“ヤツ”の侵食は止まらない可能性が高い。すぐそこにあるご馳走だもの。きっと喜んでつまみ食いするでしょうね』
「ええ、わかってる」
『もしも私が持たなかった時は、キミが賭けたヒトたちが来るまで、死に物狂いで耐えることね。元々その気だったんでしょ。何とかしなさい』
「……優しいのね。もっと早く、あなたとお話ししたかった」
『キミが期待を寄せるヒトたちが間に合えば、これからも出来る』
「そう言えばそうね。楽しみが増えた。それだけでも、帰ってきたかいがあるわ」
『……本当に、お馬鹿さん』
早々にヴィクターとの合流を果たせたのは僥倖だった。飛空艇『ヴィンディリウス』の見学も後回しにして、三人はすぐさま無機質な船室に入り、ヴィクターが持ってきた地図を広げて今後の方針を話し合うことにした。
「二時間もすれば着くぞ。その間に必要な情報を頭に叩き込み、これから起き得ることの予想まで立てねばならん」
ヴィクターの言葉通りに「ローグタリアの景色を楽しむ」暇などなかった。
総司とリシアは、ヴィクターが語るシルーセンの村の成り立ち、女神教のあまりよくない変遷の話に聞き入った。
「――――ここまでが、シルーセンの村に関する基本的な情報だ」
「……歪んだ女神教……なあ、俺には正直、しっくりこねえんだけど」
「ん?」
総司がリシアに聞いた。
「信仰っつか、何かを信じる、そういう……心? みたいなのは……セーレや子供たちを苦しい目に遭わせても、何も思わなくなるぐらいのもんなのか。いや……俺にはよくわからん。何も思わないわけじゃねえのかもしれねえ、けど……」
「……私も、育ちは女神教の一般信徒の家だ。信仰は心の拠り所、それがなくては生きていけない者、どう生きればいいかわからない者は、間違いなく存在する」
総司の元いた世界、その中でも元いた国である日本は、宗教への信仰が盛んな国ではない。全くないとはもちろん言わないが、少なくとも総司にとっては、盆もクリスマスも単なる「イベント」である。元を辿れば仏教やキリスト教に帰結するということは知識として知っていても、かと言ってそれらの宗教の習わしに丁寧に従うこともなければ、想いを馳せることすらした覚えはなかった。
総司自身の価値観では、シルーセンの村で今を生きる者たちの心情が推し量れないのだ。とりわけ今は、マーシャリアでわずかな時間でも共に過ごしたセーレのことが念頭にあるから余計にである。
「私もうまく言えないが……もし、お前がこれまでの人生で『信仰』と無縁であったなら、行き過ぎた信仰心を持つ者の想いを理解しようとするのは無駄だろうな」
「……続きを聞いていいか?」
「うむ。ここからは“今”の話だが」
ヴィクターはシルーセンの位置を示す地図上のポイントを中心に、ぐるりと雑に円を描いた。
「シルーセンのみならずその近郊も含めて、不可思議な現象に見舞われておる。この近辺とのヒトの往来が一切ない。ないというよりは――――行った者が、帰ってこないそうだ」
総司が眉をひそめた。
「待った。セーレが何かしら窮地に陥って『二年』だって話だったぞ?」
「無論、二年間も異常が続いていたわけではない。それほど長く続いておれば流石にオレの耳にも入るだろうが、この不可思議な現象はここ一か月ほどだと聞いた」
ヴィクターはふと、リシアを見た。
「リシア、貴様の見立ては?」
「“儀式が完成に近づいた”ために、そういう現象が起き始めたと読むが」
「同意見だ」
ヴィクターが重々しく頷く。
「さて……肝心の“儀式”だが。我が右腕が予測を立てた。当たっているとすれば由々しき事態だ。事はセーレ一人の命だけに収まらんかもしれん。シルーセンの連中が『大きな勘違い』をしている故、最悪の事態は避けられるかもしれんがな」
「そんなにヤバいのか」
「段階はいくつかある。が、最終的な到達目標としては……一言で言えば、『共喰い』だ」
ヴィクターが言った言葉の意味が良く理解できず、総司はきょとんとして聞き返した。
「『共喰い』……? ワリィ、何と何の……? まさかヒト同士ってんじゃ……」
「いいや、ヒト同士であればまあ……狂った儀式はやめろと首謀者を縛り上げれば済む話だったろうが、残念ながら“そんな次元ではない”。我が右腕の予想通りだとすれば、連中がやろうとしているのは――――」
ヴィクターは腕を組み、ふーっと大きく息を吐いて、言った。
「“精霊に精霊を食わせる”という、前代未聞の悪逆だ」