深淵なるローグタリア 序章② 集う希望
「珍しい。人目に付くところで酒を片手にとは。今宵の月は猊下好みですかな?」
カイオディウム首都・ディフェーレス。
空中に浮かぶ大聖堂デミエル・ダリアの前面にある広場の、小さなベンチに、フロル・ウェルゼミットは腰かけていた。既に深夜となった時間帯、人気はなかった。
強めの酒をグラスに注いで、月を眺めながら嗜んでいるところを、オーランド・アリンティアスに見つかった。
「……皆眠っています。あなたのような物好き以外は」
「さて、どうでしょう。猊下のように今宵の月に魅せられた者も、どこかにいるやもしれませんぞ」
オーランドは静かに歩みを進めながら、どこからともなくグラスを取り出した。
「いただいても?」
フロルが注ぐ酒を一口飲み下し、オーランドが苦笑する。
「これはまた強いものを。それにしても……私の知る限り、さほど重大な出来事はなかったように思いましたが……今日、何かありましたかな?」
「……エメリフィムでの騒ぎを聞いたでしょうね?」
「あぁ――――無論。また派手に暴れたようだ。結果はあの二人の勝利……事が噂通りなら敗北もあり得た相手だったはず。いかに“女神の騎士”とはいえ、流石と言わざるを得ませんな」
「あの二人が無事だったことは喜ばしい」
フロルは静かに言った。
「ですが、それはつまり――――いよいよ駒を進めるということです。彼らにとってリスティリア下界最後の国、ローグタリアに」
「……ふぅむ」
オーランドはフロルの傍に立って酒をあおりながら話をしていたが、「その話」の段に至って、恭しく一礼しながらフロルの隣に腰かけた。フロルは特に何も言わなかった。
「ヴィクトリウス皇帝陛下は、あの二人をむげには扱いますまい。となれば猊下が懸念されておられるのは、ローグタリアに息づく“狂信者”どものことでしょうな」
「……きっと知っているのでしょうね、彼らが元々は――――」
「エルテミナに反抗する勢力であったことをですかな? もちろん」
フロルはくすっと笑った。
ウェルゼミットの家系でもないのに、オーランドはやはり抜け目のない男である。かつてはエルテミナと手を取り合おうとしたのだから、そのぐらいのことは知っていて当然とも言えよう。
「話が早くて助かりますよ」
「ローグタリアに生きる者たちのほとんどは知らないことです。彼らの源流を辿ろうとすればどうあってもエルテミナが絡みますから。そうなると当然、今を生きるローグタリアの民にとってはただの……妙な信仰を掲げる異端者だ」
「悲しいことですがね」
「……しかし何を懸念なさいます? 連中は確かシルーセンとかいう辺境の村を拠点としているはず。エメリフィムから陸路で行けば、首都ディクレトリアの方角とは逆方向でしょう。狂信者どもと関わり合いになる機会などありますまい」
「そう思いますか?」
フロルは体を横へ向け、オーランドをまっすぐに見つめて言った。
オーランドは少し意外そうに、彼にしては珍しく面食らったような顔をして、また口をつけようとしたグラスを下げてフロルに向き直った。
「カイオディウムでエルテミナの件と関わり、女神教の中枢に触れ、エメリフィムでもまさに『千年前の因縁』と相対した彼らが、ローグタリアではそれに関わらずに済むと、本当にそう思いますか?」
「……女神がそのように導くやもしれぬと。そういうお話ですかな」
「いやな予感がしてならないのです」
フロルはオーランドから視線を外すと、両手に顔をうずめて項垂れた。
「警告しておくべきだったのかもしれません……どうしても、それより言わなければならない言葉があると、あの時にはそう思えてならなかった……私の甘さです。笑ってください」
「……現代の連中の教義にしてみれば、イチノセの存在はまさに『異端』、排斥すべき存在でしょうからな」
オーランドが酒をあおりながら言った。
女神レヴァンチェスカを否定する教義に変貌した異端宗教の信者からすれば、その危機を救おうとする総司の存在は明確に敵だ。
「そしてそうである限り、脅威にはなり得ないと考えますがね。甘い男ではありますが、“女神の騎士”だからという理不尽な理由で向かってくるならば蹴散らすでしょう。仮に奴にそれが出来ずとも、我が孫はそこまで甘くはない」
オーランドは、彼にしてはやはり珍しく、少し軽い口調で言った。
「ご心配もですが、後悔など輪をかけて意味のないこと。もとより整然とした道を歩む二人でもありますまい――――勝手に何とかするでしょうし、何とかせねばならない。猊下が責任を感じることは何一つないように思いますね」
「……ありがとう。お孫さんが心配ではないですか?」
「さて、本心は脇に置いておくとして、現実的な話ですが。私がアレの身を案じているなどと、口が裂けても言えませんな」
「確かに」
フロルはようやくくすりと笑って、ふーっと大きく息を吐いた。
「部屋に戻ってもう少し飲みますか。付き合いなさい」
「喜んで。しかし情けない話、年寄りにはもう少し弱い酒が欲しいところですなぁ。この時間からでは明日に響きそうだ」
「誰かさんがベルに私の酒好きをばらしたせいで、飲みやすいものはあの子が持ち帰ってしまいました。自業自得ですね。他言無用と釘を刺したのに」
「良かれと思ってのことだったのですがね」
大聖堂デミエル・ダリアに向かって連れ立って歩を進めながら、オーランドが仕方なさそうに肩を竦めた。
フロルの酒好きをベルに明かしたのは、カイオディウムでの一件以来、流石にこれまで通りとはいかずぎくしゃくしがちだった二人の間を、オーランドなりに陰ながら取り持つためでもあった。
「スティンゴルドめ、もう酒の味を覚えたか。共に飲んだことはないが、アレが酔うと厄介そうですな」
「ええ、全く……可愛らしいのですけどね、絶妙にこう、面倒というか……今度一緒に飲みますか?」
「遠慮しておきましょう。どんな絡まれ方をするか想像がつかんのでね。酔いが回った若い娘のあしらい方など、流石にもう覚えておりませんな」
「あなたにもそういう時があったのですね。ぜひお聞かせいただきましょう」
「爺の過去の色恋沙汰など、聞いていて面白いものでもありませんが」
「リシアが帰ってきた時にこそ輝きそうな話です」
「……ご勘弁願いたいものだ」
エメリフィムとローグタリアを繋ぐ陸路を抜け、辿り着いた沿岸の街、セフィア。首都ディクレトリアほどの「機械仕掛け」感はないのだが、エメリフィムの港町・シュテミルに比べれば、これまでリスティリアでは見たこともなかった「クレーン」のような機械があったり、カイオディウムのマリューダ船長に乗せてもらったような、ローグタリアの外では希少な帆船に機械の動力を取り付けた独特な形の船が大量に並んでいたりする。
背が低い山が長く続く沿岸部に沿って、色とりどりの家々が立ち並ぶ姿は美しい。形も色も統一感はなく雑多だが、それがどことなく、皇帝たるヴィクターの奔放な気質を反映しているようにも見えた。
アニムソルステリオスと別れ、陸路を制し、二日後の正午までにはセフィアに入ることが出来た二人は、早々に宿を押さえてその一室でちょっとした言い争いをしていた。そもそも宿をとることすら総司は反対だったのだが、そこはリシアが譲らなかった。
宿は石造りの立派な構造ということもあって、会話が筒抜けと言うこともないだろうが、しかし二人の議論は油断するとすぐ白熱しそうだった。
「最短最速でシルーセンに行くってのは、反対か」
「お前の意見を尊重していないわけではないし、ある意味では理にかなっているとも思う。行かなければわからないことも当然ある。だが……」
リシアは腕を組んで言った。
「シルーセンで行われていることの全てを完全に把握してから行こうと言っているわけではないが、流石に何も知らないままというのは無策に過ぎる。セーレにとってはもう、我々しか希望はないんだ」
「……そりゃ、そうなんだが」
「……個人的な意見としては、首都ディクレトリアを経由して、ヴィクターと会ってからの方が良いと思うが」
「でも、てんで逆方向なんだろ? ここからじゃ……」
「だが、ヴィクターは『シルーセンで行われている儀式については任せろ』と言っていただろう? 私とお前の移動速度なら――――最短最速というわけではないが、それほど時間は……いや、お前がセーレの身を案じているのはよくわかるが……」
シン、と沈黙が支配しかけた瞬間、総司もリシアも、「遥か上の方」から名前を呼ばれてびくっと体を弾ませた。
『セフィアの諸君! ソウシとリシアを見なかったか!? 背の高い少年と女騎士の二人組だ! レブレーベントの紋章を衣服に掲げている! 見かけた者は至急、狼煙なりなんなりあげてオレにわかるように示せ!』
聞き間違えようもない。
マーシャリアで共に過ごした、現ローグタリア皇帝の声である。何だか雑音が混じっているが、何かで拡声されたとんでもなく大きい声で、セフィア中に轟くように二人を指名手配している。
総司とリシアは慌てて宿を飛び出して、バッと空を見上げた。
巨大な船が、空を飛んでいる。ドラゴンの助けもなく、鋼鉄の体躯を持つ機械仕掛けの船がセフィア上空に鎮座している。
『むっ――――? おぉ! いやセフィアの諸君、驚かせて済まなかったな! 見つけた、仕事に戻るが良い!』
一体どうやって二人を視認したのか、ヴィクターがすぐさま総司とリシアを発見し、セフィアの街に早々の捜索終了の号令を出した。時すでに遅く海辺の方で狼煙が上がり始めていたが、それらはすぐに消された。
空飛ぶ船はぐーんと高度を下げて、見事な姿勢制御で宿の屋根すれすれにまで下がってきた。近づいてみればかなり巨体であることがよりよくわかる。レブレーベントで、女王陛下と共に乗り込んだ船よりも更に大きい。しかも金属の体躯を持っているから、余計に重厚感があった。漆黒の飛空艇『ヴィンディリウス号』から、ヴィクターが二人に向かって手を振り、ブン、とロープを投げる。
ロープが投げ渡される頃には、総司もリシアも既に跳躍していて、船の甲板にまで躍り出ていた。
「ぬおっと! そうであったな、貴様らにこんなものは不要だったか!」
ヴィクターは「しまった!」と大袈裟な身振りで頭を押さえると、小さなナイフでロープを切り捨てた。
『主人よ、この縄の処分を任せる! 捨てるなり使うなり好きにせよ! こやつらの宿代は後日届ける!』
総司とリシアが泊まろうとしていた宿屋の主人が何事か怒っている。恐らくゴミを寄越した皇帝に対する罵詈雑言だろうが、ヴィクターは笑いながら無視した。
「ヴィクター……!」
「まさか皇帝陛下自ら……本当に来るとは……」
「ハッハー! 当然であろう、愛すべき臣民の危機である! 貴様ら二人に全て預けるわけにもいくまい!」
ヴィクターは腕を組んで、相変わらずの快活な笑い声をあげた。
「誇るが良い、この『ヴィンディリウス』に他国の民が乗り込むのは初めてのことだ! 乗り心地は保証せんがな!」