追憶のマーシャリア 終話③ いざ出陣!
ローグタリア首都・ディクレトリアは、「果てのない海」を臨む沿岸部にある。
「果てのない海」とは、海の果てにエメリフィムがある方角とは対岸、誰もその先を見たことがない、リスティリアの「外」に繋がるとも言われている北方の海である。
無論、過去数千年に渡って、その方角へ旅に出た冒険者の数は夥しく。
しかし、「果てのない海」の先へ辿り着いた者はただ一人としていない。
海の藻屑となるか、どういう因果か海流にさらわれてローグタリアの沿岸にいつの間にか送り返されるか、とにかく「果てのない海」の先には行けないのである。
総司の元いた世界の常識で言えば、星そのものが球体であるから、陸上からは見果てぬ海に見えても、大航海に乗り出せばその内星を一周して帰ってくることになる。しかしながら、ローグタリアの北方の海にはその常識が当てはまらないのだ。
さて、「果てのない海」の更なる詳細については、いずれ総司も知ることとなる。
語るべきは、首都ディクレトリア。
ローグタリア皇帝が住まう「帝都」にして、ローグタリア機械文明の中枢。
誰も果てを見たことのない「果てのない海」に対して、“何故か”。
「果てのない海」から来る“何か”から首都を護るように、茶色い石で形作られた巨大な要塞が聳え立ち、その要塞の最中に抱かれるようにして皇帝の住まう城――――城と呼べる見た目でもない、機械仕掛けの要塞の中枢、『歯車の檻』が存在する。
聳える壁が「防波堤」の位置づけでないのは、高い壁の上に備え付けられた、砲台ともバリスタともつかぬ攻撃兵器が「果てのない海」の方角を向いていることからもうかがい知れる。
ヴィクターことヴィクトリウス・ローグタリア皇帝が即位すると共に、かなりの急ピッチで整えさせた「果てのない海」向きの兵装の数々は、皇帝に従う軍の皆を以てその「用途」を説明できない。しかしかと言って誰も異を唱える者はいない。
ヴィクトリウス皇帝陛下の命令には必ず何らかの意図があるのだと、皆が信じ切っているからである。
しかし――――
「行くと言ったら行くのだ! 『ヴィンディリウス号』で飛べば時間もさほど食うまい!」
「ダメと言ったらダメです。シルーセンには兵を送ります。それで良しとしてください」
「だーからオレが行かねば意味がないのだと何度言わせる! えぇいこの拘束を解けアンジュ!」
奔放で、カリスマ性故に全て是とされるような皇帝だからこそ、傍には勝手を許さない厳しい御目付け役が控えている。
見事な手際でヴィクターを拘束したアンジュ・ネイサーは、ヴィクトリウス皇帝陛下に対し極めて深い敬意と信望の念を抱きつつも、彼を諫めることのできるほとんど唯一の存在だ。
『歯車の檻』はその名の通り、鈍く黒と銀の光を帯びた、さながら鉛のような重厚な金属で造られた歯車を何百、何千、何万とつなぎ合わせて建造された見た目をしている。内部には鳥かごのように、地上から天へ無数の細かな、決してまっすぐではないしなやかな金属の柱が編み込まれるようにして聳えており、何とか「城の塔」のような形を保とうとしているが、時代を重ねるごとに増えていく歯車のせいでそろそろ城と言い張るには似つかわしくないちぐはぐな姿になってきた。
これらの歯車は常にせわしなく動いているのだが、さて一体どの歯車が『城』や『城壁』のどんな機能に使われているのやら、全てを把握しているのは現代においてヴィクターだけである。
しなやかな金属の柱の隙間を埋めるのは、透明なガラス――――に似た素材でありながら、より柔軟性が高く、水のように形を変えつつもよほどのことがなければ砕けることのないプレートである。ヴィクターはこれを、器の形によって自在に姿を変える特徴から「水板」と呼んでいるが、決まった名前はない。『歯車の檻』以外ではお目に掛かれず、製造方法も一切伝わっていない古の技術の産物であるためだ。
見た目はとんでもないというか、およそ皇帝が住まうのにふさわしい場所とは言えないものだが、内部の居住空間そのものはきちんと城として、あるいは帝国の最後の砦としての機能をきちんと備えている。
その頂上付近、『果てのない海』を臨む物見の空間の一つ下に、ヴィクターが普段ふんぞり返っている皇帝の執務室にして謁見の広間がある。
残念ながら今のヴィクターは、ふんぞり返ることも許されず、無駄に背もたれの長い豪華な椅子に縛り付けられているが。
「んぎぎぎぎ……!」
「歯が無くなりますよ、陛下。残念ながら鉄線に勝る硬度です。諦めてください」
「ぬぎー!」
ヴィクターを縛り付け、彼の自由を奪っているのは、アンジュ・ネイサーの麗しい黒の長髪である。
普段は包容力と優しさ溢れる、大人の色気を醸し出しつつもどこか幼さを残すアンジュを彩るに相応しい、軽くウェーブの掛かった鮮やかな長髪であるが、アンジュの魔法の号令を受けることで、それは瞬く間に強靭な武器へと変貌する。長さも動きも変幻自在の長髪から、戦う術を持たないヴィクターが逃れ得るはずもなかった。
少しおっとりしているようにすら見えるのに抜け目のないアンジュは、ホラー映画の幽霊のように不気味に、言葉通りに「髪をそのまま増やして伸ばして、真正面から襲い掛かる」のではなくて、一本一本丁寧に散り散りに、変幻自在の特徴を生かしてわざわざ限りなく細くして、確実にヴィクターの周囲に張り巡らせて、ヴィクターが自ら「シルーセンの少女を助けに行く」と口にした途端即座に拘束した。
ヴィクターを縛る髪以外は目に見えるかどうかというレベルで細いままのおかげで、アンジュとヴィクターのいる空間全てが黒髪で埋め尽くされるという異様な光景にはなっていなかった。
「陛下が寝ておられる間、大きな仕事も細かな雑務も溜まりに溜まっているのです。お話を伺う限り野放しに出来る事案とは思いませんが、かと言って陛下御自ら出向かれるほどのこととも思えません。“女神の騎士”殿は『首都に行くのは遅くなる』と仰ったのでしょう? では彼らも、陛下がシルーセンの村に出向くとまでは思っていないはず」
パラパラと古めかしい本をめくりながら、アンジュは極めて真面目な顔で言った。
「ここは“女神の騎士”に任せておいてもよろしいのでは? エメリフィムでの武勲はこちらの耳に届いております。精霊級すら打破する強さ――――むしろ陛下がおられては、彼に余計な気を遣わせる結果になりかねません」
「そういうわけにはいかん!」
ヴィクターはなおも粘った。
「セーレはオレを信用していなかった……ローグタリア皇帝に何の期待もしておらなんだ……! ここで行かねば、大切な臣民の心が一つ離れるのだ!」
「酷な言い方と承知で言いますが、たった一つ、何だというのです。万を束ねる皇帝陛下ともあろう御方が。新兵がその甘さを持つならわかりますが、あなたには許されないことです」
「数の問題ではない、あの幼さで“諦めさせてしまった”ことを挽回したいのだ、わかるだろう!」
本をめくるアンジュの手がぴたりと止まる。
ヴィクターは自分の想いが届いたのかと期待したが、そうではなかった。
「……シルーセンで行われている儀式は、恐らくこれですね。というか陛下もよくこんな本を持っていらっしゃいましたね……何百年前のものですか、これ……」
「フッ、ローグタリア皇帝たるもの、魔法文明のことも学ばねば務まらんからな! まだ一文字も読んでいなかったが!」
「じゃあこの本にあたりをつけたのは、ただの勘ですか」
「天運には自信があるからな!」
「全く……こちらです」
アンジュが本を持ってヴィクターの前に近づき、自分が見つけた「内容」をヴィクターに見せた。ヴィクターはしばらく黙ってそれを読み――――やがてわなわなと震え出した。
「ッ……許せん……! もし本当に“これ”ならば、一体どれほどの……!」
「……溜まった書類に目を通そうとしたところで、一つも進みそうにありませんね」
アンジュが深いため息をついた。
いろいろと厳しいことをヴィクターに叩きつけていたアンジュだが、どうせ止まることはないのだろうと半ば諦めてはいたのだ。アンジュとヴィクターの付き合いはそれなりに長く、故にアンジュもわかってはいたものの、しかし立場上言うべきことは言わなければならなかった。
「一応、『ヴィンディリウス』の準備は手配しておきました。そろそろ出撃できるでしょう」
ヴィクターがぱっと目を輝かせた。
「アンジュ……!」
「条件があります」
ガッ、と。
アンジュが美しい腕を伸ばして、皇帝の頭を強めに掴んだ。ヴィクターの顔からふっと笑みが消えた。
「護衛は付けますが私自身は一緒に行くわけにはいきません。ただでさえ溜まっている仕事を、陛下と私が揃って放り出すことは出来ませんので。ですから熱くなり過ぎず、陛下御自身の命を最優先に動くこと」
「うむ、約束する」
「……まあ、言っても無駄なのでしょうけれど。陛下をして『極めて優秀』と言わせしめた、“女神の騎士”の相棒様に期待するとしましょう」
「もうちょっと信頼せんか……流石に傷つくぞ……」
「どの口が仰いますか」
アンジュが髪の拘束を解いた。ヴィクターはすくっと立ち上がって、「いつも通り」の大仰な仕草で宣言した。
「まあ良い、とにかくそうと決まれば――――いざ出陣である! まずはあの二人と合流せねば!」