追憶のマーシャリア 第三話③ 王の歯がゆさを知る救世主
「違うっ……!」
セーレがゆるゆると顔を上げた。声を抑えようとして不自然に絞り出すような声色になって、総司の言葉がセーレに届いた。
「“そうしなければならない”じゃ“なくて良いんだ”よ、セーレ……そうじゃない!」
「……何を……?」
「ハッ……まあ、譲るとしよう。オレにそれを言う資格はないからな……」
ヴィクターが満足げに頷く。総司はリシアの手を冷静に、優しく振り払って、立ち上がった。
「俺達を頼れなかったのは、俺達を信頼しきれなかったから。当然だ、出会ったばかりの得体の知れない連中を手放しで信頼できるような人生を、セーレは歩んでこなかった。それで良い。だから――――だからもっと“打算的”で良いんだ!」
リシアもまた頷く。総司の言おうとしていることは、きっとセーレの救いになる。
「俺達を“使えば良い”! ここにいるのはレブレーベント最強の騎士と、ローグタリアの現皇帝と――――現世最強の男だ! 俺達の強さを見てきたはずだ!」
祈るように閉じられていた“哀の君”の右目が、すうっと開かれた。
「自分のために俺達を使って良いんだよ! 涙を見せて、篭絡して、俺達を自分のために動かせば良かったんだ! すぐ引っかかってた自信があるぜ、何せ俺達二人は、全ての国で呆れられてきたぐらいの甘っちょろいお人好しなんだからな!」
「自慢げに言うことではないけれど」
「うるせえ、わかってる、うまく言えねえんだよ……!」
“哀の君”がそっと、セーレのすぐ後ろに立った。
もちろん彼女は、セーレを責めることはない。
総司の言葉に、目を見開いて涙を流したセーレではあったが、再び目を伏せてしまう。彼女の心を開くには、共に過ごした時間が短すぎるのか。それとも、総司たちへの信頼とは別のところで――――総司たちに託して巻き込んでしまうこと、それでも解決しなかった時のことを考えて、踏ん切りがつかないのか。
これ以上何と言葉を掛ければ良いのか、総司には、すぐには思いつかなかった。
総司はここに至って初めて、王ランセムが自分に対して抱いていたであろう歯がゆさを身を持って思い知る。固める拳に、己の不甲斐なさを握る。
セーレの言葉通り、彼女はいずれ現実と向き合う必要があるだろうが、彼女の言葉の裏には「一人で向き合わなければならない」という意味が隠れている。
出会ったばかりの総司たちへの不信感か、出会ったばかり故に巻き込みたくないという遠慮と責任感か、それとももうどうにもならないのだという諦観か。
特殊な状況から発生する複雑な葛藤が絡み合って、 “そうしなければならない”というある種の固定観念に囚われた者へ――――“それは違う”のだと伝えることが、こんなに難しいとは。
難しくて当然の命題――――王ランセムは総司にそれをわからせるためだけに、「国」そのものを使い尽くしたのだ。
憧れと渡り合いたい総司ではあるが、憧れそのものになりたいわけではない。
王ほどうまくできるわけがない。同じことをする必要もない。総司は総司のやり方で、セーレを――――
「……セーレ」
逸る気持ちを抑え、冷静に、総司が言う。
「俺はリスティリアで、少なくともヒトの中なら一番強い。リシアも、上から数えた方が早いぐらいに強くて、何より頭が良い。ヴィクターは他ならぬローグタリア皇帝、世界でも有数の権力者だ」
総司は自分の胸にドンと拳を当てて、力強く言った。
「俺達なら必ずセーレを助け出せる、なんて無責任なことは言わねえ。現実的に、俺達で無理なら他の誰にも無理だって話だ。現世で囚われの身なら俺達以外に託せる相手もいねえだろ。セーレの人生は幸運なものとは言い難いかもしれないけど、ギリギリのところで運が良かったと思って、俺達に賭けろ」
セーレと視線を交わす。総司は目を合わせて頷いた。
「もし俺達を気遣ってるなら遠慮はいらねえ。俺達にとってもこれは『打算』だ。セーレが現世に戻ってくれなきゃ俺達も戻れない。だから、リスティリア現世への帰還と引き換えに、俺達はセーレの救出に向けて死力を尽くす。俺達も俺達で、自分のためにセーレを助けるんだ」
王ランセムの叱咤激励と比べてみれば、何と不格好な説得か。及ばぬ器、及ばぬ才覚。これが総司の精一杯。
不器用で支離滅裂にも思える説得を聞いたセーレは――――
呆れたような、穏やかな微笑を口元に浮かべて、最後に一筋、涙をこぼした。
この者たちを“強い”と思った自身の直感を――――彼らなら、もしかしたらという淡い希望に、一度だけ。絶望の最中たった一度だけ縋ることを、許してほしいと。
「……マティア」
「なに?」
「ありがとう」
「良いわ。私も楽しかった」
「嘘つき。役目を全うしたくてうずうずしてたくせに」
二人きりの会話。セーレと“哀の君”マティアの間にしか流れない特別な空気。総司たちは固唾をのんで見守った。
「私を現世へ……忌まわしきシルーセンへ。もう少しだけ耐えてみるわ」
『フン……この爪が現世へ届くならば……』
ディルゼンが下らなさそうに鼻を鳴らした。
『すぐにでも片をつけられたものをな……』
「ありがとうディルゼン。優しい子……マティアをこれからもよろしくね」
“哀の君”がもろ手を挙げる。セーレの体が光に包まれ、少しずつ消えていく。
「ソウシ、リシア」
「おう」
「何だ?」
「よろしくね」
言葉少なに、託された懇願を。
バシッと胸の前で拳と手を合わせて、総司が勇ましく受け取った。
「任せろ!」
「すぐに行く。もう少しの辛抱だ」
セーレは微笑を浮かべたまま頷いて、ヴィクターの方を見た。
「ヴィクター」
「ハッハー、ようやくその名を呼んだな! 申してみよ! いやよい、よい、言わずともわかっておる! なぁに心配するな、オレも戻り次第すぐに――――」
「元気でね」
「おぉい何故だ!? オレにも言わんか『よろしく』と!」
「あなたは皇帝陛下でしょう。一人の臣民を贔屓してはダメよ」
「むぐ、ぐっ……」
「それにあなたは、ソウシやリシアと違って弱いじゃない?」
「やかましいわ! 最後まで驚くほど大人びておるな貴様……! だが愚かと言わせてもらおう! 貴様のような幼子が気を遣うことではないわァ!」
セーレは初めて年相応の、可愛らしい笑顔を見せて、光に包まれて消えていく。
セーレの意識がマーシャリアから旅立っていくのを、じっと最後まで見送って――――総司が決然と言った。
「首都に行くのは少し遅くなる」
「ハッ、わかっておるわ。なに、再会は遠くない」
「感情に任せて突撃する前に、『儀式』とやらの内容も大枠は掴んでおくべきだ。シルーセンまでの道のりも含めて、まずは調べる必要がある。焦れば全てを取りこぼすぞ」
「頼もしいことよリシア、よくわかっておるではないか。しかし貴様が調べるのは道だけでよい。他はオレが任されよう。リシアは――――」
ヴィクターがポン、と総司の肩に手を置いた。
「この男の手綱を握る。それに集中することだ。義憤は美しく、まさにオレ好みだが……その殺気、我がローグタリアでまき散らすなよ」
「ッ……わあってる……!」
総司よりもずっと苛酷な状況にいて、嘆きたい気持ちを抱いているであろうセーレの手前、総司は出来る限り冷静でいるように努めた。
そのセーレがこの場からいなくなった今、抑え切れなくなった感情が漏れ出していた。
「マティア、俺達もすぐに現世へ――――」
総司の首筋にすうっと、半透明の刃が当てられて、総司がぎょっと目を見張った。
「“哀の君”と呼びなさい。馴れ馴れしい」
「せ、セーレには許してたくせに……!」
「うるさい」
“哀の君”は虚ろな眼差しのまま、淡々と言った。
「すぐには無理。聞いているはずよ、順番がある。そう時間は掛からない」
「ッ……そこを何とか、こう、特例みたいな感じでよ……!」
「それが出来るなら、セーレを帰したりしていない」
総司もそれを言われれば口をつぐむしかない。
順番を守らなくていいなら、苦しみしかない現世にセーレを帰すことなく総司たちだけを先に帰して、セーレの救出に向かわせることが出来たはずだ。
“哀の君”が払うような仕草を見せると、また光景が歪んで切り替わった。
セーレが最初に案内してくれた、豪華な装飾の天秤を持つ「聖女」の像の公園。“魂”で溢れ返ったその場所で、“哀の君”マティアは、一時的に放棄していた役目を再開する。
セーレがこの場所に来てからマーシャリアに留まり続けた死者の魂と――――ルディラントの民の魂、その断片。日常的に世界のそこかしこでヒトは死ぬものだが、ルディラントの民の魂がある分、数は「通常」よりも多いだろう。
「一応、普段よりは急ぐ。しばらく待っていて」
“哀の君”は素っ気なく言って、聖女像に向かって祈りを捧げ始めた。光の軍勢がざあっと風のように流れて、“哀の君”マティアの元へ次々に集まってくる。
停滞していた選定と裁定が、遂に始まったのである。こうなってしまっては、総司たちに出来ることはもうない。
「リシア、良いか?」
「ん……?」
仕方なく、その場で腕を組んで待つしかない総司から隠れるように、ヴィクターがリシアを小声で呼んだ。
「一応貴様には言っておこうと思ってな。いや、無論言いたくて言うわけではないが――――」
「要らぬ心配だ、ヴィクター」
リシアがぴしゃりと言った。ヴィクターが言葉を続けようとして、リシアの冷静で、ともすれば冷酷にも見える鋭い瞳に、口をつぐんだ。
「“セーレの話が全て悪意ある嘘という可能性”――――或いは“彼女も知らぬまま救世主を誘導してしまった可能性”は完全に排除できない。だが私が正しく認識している限り、貴殿の心配は無用である。総司に伝える価値もない程度のことだ」
優しい人格の持ち主であるがしかし、「心を鉄にする術」も知るリシアは、総司ほど情に絆されることもなく。
セーレの身を案じながらも、最悪の可能性についてもしっかりと考慮している。ヴィクターはふっと笑みを零した。空恐ろしさすら感じる“救世主の相棒”の気迫に、頼もしさを覚えながら。
「……あいわかった。許せ」
「構わない」
リシアはすぐに和らいだ表情になって、総司の隣に戻った。
「そう気を張っていても疲れるだけではないか? 逸る気持ちもわかるが」
「……ああ。ん? そういや」
ふーっと息をついて気持ちを落ち着かせた時、総司がふと思い出した。
「俺達はどうなってんだろうな……?」
現世の不可思議な山とも角ともつかない場所に置き去りにされている、総司とリシアの体。ここに来る直前の記憶を失っており、現状がどうなっているのか全くわからない。
「考えるべきかもしれんがしかし、考えても仕方のないことだな」
リシアが諦めたように言う。
「もうすぐ戻れるんだ。現状を知ったところで何が出来るわけでもない……戻ってから確認する以外、取れる手段はないさ」
「そりゃそうか……けど、多分“これ”のために連れてこられたんだろ?」
総司が言うと、リシアは難しい顔をした。光の奔流の中で、相棒の横顔が疑念に満ち溢れているのが良く見える。
「この世の誰に……“哀の君”以外の誰に、マーシャリアで起こっている異変を知ることが出来るのか。謎めいてはいる。加えてセーレの現状を知り、且つ直接的にセーレを救出する立場にはない存在……女神さま以外に思いつかないが、しかしそれでは……」
“哀の君”の普段の「仕事」がどれほど早いのかはともかく、言葉通りそれなりに急いではいるようだ。溢れんばかりだった“魂”の光は、風のようなうねりを上げながらその数を徐々に減らしており、総司の目にも次々に旅立ちを迎えていると見えた。
「うむ、我らの順序で言えばオレの方が先だな。ほんのわずかな差ではあったと思うが」
数の減りを見て、順番が近づいてきているのではないかと感じたヴィクターが、別に必要もないのに腕のストレッチをしながら言った。
「リシアの話に則れば、もしかしたら、女神の思惑より我らの出会いは早かったのかもしれん。この出会いは予定外だったのかもしれん。しかしオレは、ここで貴様らと会えたことを嬉しく思う」
神妙で、彼らしからぬ、しかしどこまでも彼らしい声。為政者としての顔を覗かせるヴィクターの本音だ。
「ローグタリアで会うのはもとより、貴様らが真に救世主として名を馳せる瞬間が実に楽しみになった! まだ全て見定めてはおらんが、貴様らには十分にその資格があると見たぞ!」
「……名を馳せることはねえよ。この戦いの結末はきっと、誰かに讃えられるようなものじゃないんだ。賞賛なんてのは……要らねえ」
「そうだろうとも、リスティリアの大半の者は、貴様らに感謝などせんよ。貴様らの奮戦を知る由もない者が大勢だ。だが不満か? 貴様が縁を繋いだ者たちだけが、貴様の偉業を心から讃えるとして、貴様はそれらすらも『不要』と切って捨てるのか?」
ヴィクターの声がわずかに厳しさを帯びた。総司が言葉に詰まると、ヴィクターはトン、と優しく、総司の胸を拳で叩いた。
ヴィクターの言葉は本当に、胸がすっと晴れやかになるほど快活だった。
「謙遜は美徳に違いない。使命感も見事なものだ。しかしそれだけではヒトは持たんものよ、もっと貪欲で即物的な生き物だからな。極上の褒美を用意しておいてやる。『辛い戦いの後』にも楽しみがある。それを忘れるな、救世主よ」
何もかも見透かしたようなヴィクターの言葉に、総司もリシアも目を見張った。
「……そんなに顔に出てたかなぁ……?」
「ハッハー、未熟者め! せいぜい精進するが良いわ! さあ、そろそろオレの番か!?」
ちょっとしんみりした空気を払しょくするように、ヴィクターが快活に言った。
“哀の君”が動きを止める。ふと翳した手の中に、青く煌めく光が宿る。
「……最低最悪の違反行為なのだけれど……本当に、命の法則を捻じ曲げる所業に等しいのだけど……頑固なものね。良いわ、わかった」
唐突に、“哀の君”が振り向くや否や、腕から青い光の矢を放った。
完全に油断していて、まさかそんなことがあると思わなくて、誰も反応できなかった。
身をかわす暇もなく、青い矢は総司の額を、頭蓋をまっすぐに貫いた。