追憶のマーシャリア 第三話① ”裁定”を拒んだのは
「良い器と言うのは認めている。けれど、だからと言って全てを救えるほどの器だと思ってる?」
「いいや」
「世界そのものを背負っているくせに?」
「俺でなくても良かった。でも、今は俺しかいない。結果的に“そう”なるだけだ。俺は俺が愛してるヒトのために戦ってるし、不満もない」
「そう。もう“その段階”は通り過ぎているのね。つくづく信じられない。あの子があなたみたいな男を引き当てるなんて」
リスティリアに来てからというもの、総司にとっては初めての体験だらけではあったが、「視界が万華鏡のようになる」という、何とも形容しがたい状況はさすがに、似たような場面すら覚えがなく、めまいがした。
乱反射するように視界が乱れ、“哀の君”の姿が数えきれないほど分裂して見える。
投げかけられた言葉は、総司が既に通り過ぎた葛藤。“哀の君”の声にわずかに感情が宿ったのは初めてのことだ。ただしそれは「呆れ」や「諦観」と言った、あまりよくない感情ではあるが。
「大きな目標を見据えた時、身近にあるものを取りこぼす。今のあなたのように」
「俺が何かをわかっていないってか」
「いいえ、“わかろうともしていない”」
口調に辛辣さはないが、言葉そのものはなじるように強烈だ。総司はきっと目を細め、幾重にも重なる“哀の君”の姿を見据える。
「頭脳労働は可愛い相棒の仕事? いいえ、彼女にその役割を全うすることは出来ない。彼女とあなたの絆が深いほどに」
「……リシアは優秀だ」
「ええ。傑出して優秀でありながら驕りを知らない、稀有に過ぎるヒト。あの年齢で優秀過ぎる己を過信しないのは実に稀ね。普通はもっと図に乗るもの……けれど、年齢相応の未熟さがある――――あなたに対して、あの子は優しすぎる」
エメリフィムにおいて、賢者アルマはリシアを「狂気的」とすら称した。
だが、リシアは鉄の心を持っているわけではなく、「心を鉄にすることが出来る」人間であるとも看破していた。
オーランドがかつて指摘した通り、リシアの本質は総司と似ている。義憤に燃えた時の激情も人並み以上に抱くし、彼女自身はほぼほぼ常に冷静でありながらも、感情が示す方向性や感情の力を決して否定しない。
本質が冷静沈着というわけではなく、そうあろうとして出来る側の人間。彼女の根底には情の深い優しい人格がある。
それが弱点になり得るのだと、“哀の君”は言う。
「優秀な頭脳で以て導き出した答えが、こうすべきだと判断した案が、あなたの心に影を差すものだった時……あの子は口をつぐんでしまうの」
それは何に対する警告か。
今、マーシャリアで起きていることに対してか。それとも、この先。
最後の敵と行き会った時、総司が何をすべきか――――どうあるべきかを問うものか。
「ここから出るには足りない。器は悪くない。けれど、完成には程遠い」
総司の手がバッと動いた。“哀の君”の姿が歪み、視界が正常に戻ると同時に、総司の眼前には煌めくかぎづめが迫っていた。
リバース・オーダーが鋭い光の爪を弾く。世界がぐにゃりと歪んで、紫色の異空間に浮かぶ壊れた闘技場のような場所に放り出される。
びりびりと危険な魔力を放出する“哀の君”と、四足歩行の巨大な光の獣。リシアとヴィクターの姿はなく、異常な状態にあったセーレもいない。
『良いんだな』
「ええ。既に見定めた。一旦潰していい」
『……わかった』
光の獣は狼に似ている。総司の目にはヴィスークと同系統の体躯だ。
だが、ぼやけるように輪郭の不確かな姿が、総司の心を惑わせる。万華鏡のような視界から戻った直後で完全に見極められたわけではないが――――
恐らく、光の獣の体躯は「変幻自在」。少なくとも「伸縮自在」だ。リスティリアで目にしてきた他の獣と同じ動きをするとは思えない。
『悪く思うな』
獣の姿がふっと消える。総司の目がギン、とぎらついて、リバース・オーダーを持つ右腕が鋭く動いた。
予備動作もなく、横薙ぎに一閃。獣の前足がひゅっと引っ込んで、鮮やかな動きで総司に対し長い尾を叩きつける。
『ッ……!』
尾は総司には届かず、空を切った。
一瞬の仕合、わずかな牽制の刺し合い。互いに探るような挙動が、光の獣に確信を与える。
“勝負にならない”
静寂な、しかし内側で今にも弾けそうな、研ぎ澄まされた蒼銀――――つまりは、女神の気配。叩きつけるでもなく、じりじりと空間そのものを侵食するかのような、魔力とも気迫ともつかない言い知れない何かを確かに感じる。
総司は光の獣の特性と、危険性そのものを正しく認識している。そのうえで断じている。自分の方が圧倒的に上であると。
「……何を……見落としてる……?」
そしてそれは主題ではないのだ。
総司の方が明らかに上であることなど、この場にいる誰もがわかっているはず。当然“哀の君”もだ。
そもそも“哀の君”が本気で総司を排斥したければこの状況はあり得ない。マーシャリアが彼女の思い通りなら、わざわざ光の獣に勝ち目のない戦いを演じさせる意味がない。
光の獣が、流星の如く総司へ跳んだ。総司の目が再びぎらついて、完全に見切った上で紙一重でかわす。
鋭い爪がかすめそうなギリギリの間合いはしかし、完璧に回避すれば総司にとっての必殺の間合いになる。総司は再び、剣を鋭く振り抜いた。
光の獣の姿が霧散し、総司の豪快な一閃をかわす。変幻自在な姿を前にして、物理的な攻撃を当てるのは難しいようだが、しかし総司にはまた一つ情報が増える。
『自動』ではない。総司の攻撃をかわすために使用した獣の能力であり、それを使用しない時に剣を受ければダメージが通る。
獣の尾が六つに分かれて、不規則に伸びながら総司を囲む。総司の動きは止まらず、すぐさま尾を切り裂いて囲みを抜け出し、剣へ魔力を通した。
最早総司にとっては十八番とも言える飛ぶ斬撃。光の獣が逃げに徹して、すんでのところでかわし切る。
足元に違和感を覚える。見れば、石造りの足場に、足首から先が沈んでいる。流砂のように変化した足場が総司の速度を奪った。
“哀の君”のわずかな妨害。総司は目を細めて、彼女の行動に疑問を覚えながら、剣を支えにすぐさま抜け出す。
程度の低い妨害。光の獣との意味のない戦い。これまでマーシャリアで見聞きした情報をもとに思考を回しても、“哀の君”の行動に理由付けが出来ない。
自分の役目に飽きていると、彼女は言った。だから魂を捕らえたまま、数多くの行き場を失った意思と共にマーシャリアに佇んでいる。
だがヴィクターの見立ては違った。“哀の君”は特定の誰かの裁定を拒んでいる。その者と、役目に飽きた彼女との利害の一致がこの状況を生んだ。
どこかに本音が潜んでいる。誰かの本音を見落としている。だとすれば、“哀の君”が今やろうとしていることは――――
光の獣が口を開いて、炎の弾丸のような魔力の塊を総司へ飛ばした。
総司が回避した直後、“哀の君”自身がふわりと、瞬間移動の如く総司の傍に湧いて出て、すうっと腕を伸ばしてきた。
思考に脳のリソースを割きすぎた総司は、それでも完璧に反応した。完璧に、反応しすぎてしまった。
刹那の後悔。集中力がわずかに途切れたせいで、総司は飛び込んできた“哀の君”を“本気で殺しに掛かってしまった”。
五つの国を超えて鍛えられた戦士としての本能が、攻撃に対する反応を完全なものにしてしまった。反射的で、ほとんどオートで行われるような反応だ。反射に身を任せるあまり鈍ってしまった総司の理性が、“攻撃を止めなければならない”と判断するまでに、剣は“哀の君”の首元へ――――
「やめてぇ!!」
鈍っていた総司の思考が、悲痛な叫び声でぐいっと現実に引き戻された。
力を込めた腕が、リバース・オーダーの刃をギリギリで止める。
“哀の君”と目が合った。総司は目を細め、軽く後ろへ跳んで距離を取る。
叫び声の主は、どこからともなく闘技場へ現れたセーレだった。
セーレは必死で走り、“哀の君”と総司の間に割って入って、涙を流しながらその場に崩れ落ちる。その姿を見て総司はようやく――――ようやく、全てを悟った。
「あぁ、ごめんなさい……! ごめん、ごめんねソウシ……私っ……! なん、なんて謝って良いか……!」
うわごとのように、謝罪を繰り返す。セーレの向こう側にいる“哀の君”は、露わになっている右目を祈るように閉じていた。
その模様を見守り、総司は深く息をついて、リバース・オーダーを地面に突き立て、腰に手をやって首を振る。
「……あんまり認めたくはねえな」
呟くように言う。
「俺はこんなにバカだったっけか」
「私が気付くのが遅かった」
“ジラルディウス”の翼をふっと消して、総司の傍に着陸しながら、リシアが申し訳なさそうに声を掛けた。ヴィクターも、崩れた闘技場の瓦礫で出来た坂をざーっと滑り降りてきていた。
「“真実の聖域”でセーレを見るまで確証が持てなくてな……気付きを得た時点で、お前とは話し合うべきだった……」
「俺の責任だ。俺が抜けていた。つまりは……」
「“哀の君”が裁定を拒む対象……セーレよ、貴様がそうだったのだな?」
ヴィクターが優しく問いかける。セーレは泣きじゃくり、その場に座り込むばかりで、答えられなかった。
『……言葉尻だけで言えば逆だな』
光の獣が見かねたように、すいと宙を滑りながら言った。
「ほう、逆とな?」
『つまり――――』
「ディルゼン」
“ディルゼン”とは、獣の名前だろう。“哀の君”マティアが静かに名を呼んで、光の獣ディルゼンは口をつぐんだ。
「黙っていなさい」
『……しかし――――』
「余計なお世話なの。心配しなくとも、彼女はもう気づいてる」
ディルゼンの言葉を聞くまでもなく、リシアは既に回答に辿り着いている。泣きじゃくるセーレのもとに歩みを進め、かがみこんで、リシアがセーレを優しく抱きしめた。
「“戻りたくない”のだな、セーレ。君にとってのリスティリア現世に、何かがあるんだな」
セーレの泣き声が一層大きくなった。
真相は単純で、総司もリシアももっと早く辿り着けたはずの答え。
セーレが裁定を拒んだ。迷い込んだだけの意思か、死した者の魂か。その裁定を受ければ、セーレは「迷い込んだだけ」と判断され、リスティリア現世に戻ることになる。
言葉尻だけで言えば逆。それはつまり、“哀の君”が「役目に飽きたから裁定を拒む」という意思を持って、セーレをマーシャリアに閉じ込めたのではなく――――セーレが裁定を拒んだ。戻りたくなかった。“哀の君”マティアはそれに応えたのだ。
「何で言わねえんだよ……最初に言ってくれりゃあ……!」
総司がどかっとその場にあぐらを掻いて、がりがりと髪をかきむしった。
「ハッハー、決まっておる。“信頼に足らなかった”からだ。セーレの抱える事情――――どうやら、何者かの悪意が絡むと見た。オレ達もまた、セーレからすれば悪意ある者かそうでないかの判断がつかなかった。そういうことだろうよ」
「……ヴィクトリウス皇帝陛下ですら、か?」
「あぁ痛い、痛いところをぐさっとやられておるぞ!」
ヴィクターが胸を押さえて、本気で痛がる素振りを見せた。
「オレもその可能性を考えなかったわけではない、貴様ら二人ではなく“オレが信頼されていない”可能性を……! しかし最早、目を背ける段階は通り過ぎた……!」
ヴィクターの葛藤の意味を、総司は察することが出来なかった。
彼には珍しく怒りの感情をあらわに、顔を手で押さえて忌々しそうに、ヴィクターは言葉を続ける。
「シルーセンの村はローグタリアでも魔法的背景の強く残る街、もしやと思ったが……!」
ヴィクターが、リシアに抱きしめられたままのセーレにビシッと言った。
「村ぐるみで何か良からぬことをやっておるのだな、セーレ!」
セーレの体がびくっと震えた。
「貴様はその『何か』の犠牲になっておる! それ故にオレを嫌ったのだ――――臣民が苦境に立たされているにも関わらず、助けてくれないこの愚かな為政者を!」