怨嗟に沈むエメリフィム 第六話⑤ 救国の時・来たる
わずか数時間で、エメリフィムは地獄と化した。
ヒトも、亜人族も、等しく。
ただ追い立てられる家畜のように、蒼い炎に追われその身を焦がしながら、焼き焦がされる親しい者たちを見捨てながら、王都フィルスタルへ流れ込んだ。
地獄絵図。国が終わる一歩手前。夕暮れ時に天を覆う紅蓮と群青のグラデーションが、この世の終わりを具現化したかのよう。
一番星と重なるように、怨嗟の化身は空を優雅に舞う。
ようやく取り戻した、自身の半身とも言うべき力の片鱗、その味を噛みしめて。
“怨嗟の熱を喰らう獣”、忌まわしき“レナトゥーラ”は、国のそこかしこから自身に流れ込んでくる餌の味を引き続き楽しんだ。
乾いた血のような深紅の長髪は、青い肌と不釣り合いな、燃え盛る炎のようなオレンジ色に染まり上がり、彼女の“調子が上がっている”らしいことが見た目にもうかがえる。
指からそっと火種を落とすだけで、大地は容易く燃え上がり、下界の民は逃げ惑った。視線の彼方に王城を望むレナトゥーラの口元には微笑が浮かぶ。
ヴァイゼ族がどれだけ強かろうと、既に問題外。アルマと言う、ある意味ではレナトゥーラの枷として機能していた存在すら消え失せた今、レナトゥーラは自由極まりない。
最も広大なるエメリフィムは今や、彼女を育てるための餌場となって、滅びの時を待つばかり。
黒く暗い情念をこの上なく好むレナトゥーラにとって、不倶戴天とも言うべき眩い情念が、王城に確かに息づいている。
彼女の楽しみはそこにある。
一縷の希望すら残されていないこの状況で、なおも輝きを放つその光が、彼女が最も好む暗い色に染まり上がる瞬間が、楽しみで楽しみで堪らない。
もっと国を蹂躙しても良かった。ゆっくり、ゆっくりと、徹底的に地上の命をいたぶりつくして、悲鳴を楽しんでから王都にやってきても良かった。
誰であろうともう、この存在を止められはしないのだから。
しかしレナトゥーラは誘惑に負けたのだ。
王城でひときわ輝く光が反転した時、他では決して味わえないであろう極上の味が楽しめる。それを悟ってしまったから、彼女の歩みは驚くほど早まった。
それだけ、エメリフィムの滅びが早まったということでもある。
「イチノセはこちらで何とか見つけます。ティナ様だけでもお逃げください」
「既に私を捕捉していると思いますが。逃げられると本気で思っていますか、ジグライド」
王位継承者ティナ・エメリフィムの撤退はついに敵わなかった。
想定を超えて早く、王城の上空に姿を現したレナトゥーラ。
総司を捜索するも、見つけ出すことは叶わず。既に退路はない。
ジグライドの読みは今度こそ当たっていた。賢者アルマには間違いなく、誰よりもティナを害しようという感情は一切なかった。
アルマが生きていれば、レナトゥーラはここまで早く、王都に来ることはなかった。
ひとえに、最後まで“誰も読み切れない”事態が続いてしまったが故の終わり。レナトゥーラがティナを「極上の餌」と見定めてしまったが故の絶望。
阿鼻叫喚が広がる王都を前に、まだ諦めていないらしい彼女の輝きが、レナトゥーラをここまで導いてしまった。
「と言っても、私にできることは命乞いだけです。こうなった以上、取るべき選択は一つしかない」
「通じるとは思いません」
「だから何ですか。何もしないわけにもいかないでしょう」
土壇場になって、ティナとジグライドの関係性は“もとに戻った”かのようだった。ジグライドがどれだけ苦言を呈し、理性的に最善の道を提示しても、結局ティナは最後には、自分で決めた道をひた走る。
ただ力に恵まれなかっただけ。器としては十分以上のものを誇る彼女はもう、レナトゥーラと同じく誰にも止められない。
遥か上空から、少しずつ王都に、王城を囲う巨大な壁の上に立つティナとジグライドに近づいて、レナトゥーラは笑う。
間違いなくあの少女こそが、この国における最高の獲物だと、楽しそうに笑う。
「王族とは火急の折、隠れ潜むものと古来から決まっていたと思うが」
レナトゥーラの声は、遥か天空からでもティナに届いた。魔法で拡張された声。ティナはレナトゥーラに向かって叫んだ。
「狙いは私ですか、レナトゥーラ!」
「よくわかっているではないか。然り、わしの狙いは貴様だ」
「では、取引をしましょう!」
「……取引」
レナトゥーラの笑みが深まった。
ティナの声は、普通であればとてもレナトゥーラのいる位置まで聞こえるものではないはずだ。
それでもレナトゥーラには十分聞こえているようで、ティナの言葉は彼女の興味を引いていた。
「大方、自分の命と引き換えに民を見逃せ。そういう内容か」
「話が早くて助かります」
「健気で大変よろしい。が、言葉の意味をよく考えねばな」
からかうように笑い、レナトゥーラは残酷に言い放つ。
「取引というからには、わしにも利がなければ。元々貴様を殺し、他も殺し、それで終いの予定だった。貴様の命一つでわしが満足するには、相応のものがなければな?」
「ええ、差し出せるものは一つですので、こうしましょう」
ティナは短剣を抜くと、自分の首元に突き付けた。
ジグライドが止めようとしたが、ティナがきっと睨んでその動きを留めた。
「ッ……そんな小細工が通用する相手では……!」
ティナのそんな様子を見て、レナトゥーラは目を細める。
「……なるほどなぁ」
「あなたは私にただ“死んでほしい”のではなく、私を“嬲り殺したい”のでしょう。苦痛を受け入れます。その代わり、皆がより遠くへ退避する時間をいただきます」
王都に逃げてきた国民たちも、その様を見ていた。
先王アルフレッドならきっと、この危機を前に雄々しく戦ったことだろう。
その力を持たない王女が、たった一つ、民のためにできる悲しい選択。
それすらも、レナトゥーラは一笑に伏した。
「実によい。誇り高き王女よ、非力なりに精一杯頑張っておる。嫌いではないぞ。さて……」
レナトゥーラがかっと目を見開いた。
ズン、と王都全体に、言い知れない圧力が掛かる。
錯覚に過ぎない。それはレナトゥーラが醸し出す圧倒的な気配が齎した幻覚。だが確かに、ティナの手は止まり。
ティナがハッと気づいた時には、眼前に蒼い炎の弾丸が迫っていた。
着弾し炸裂する。爆風の中から、ティナの体が飛び出てくる。
かすりはしたが、直撃はしていなかった。その代わりに――――
半身を酷く焼かれたジグライドが、ティナがいた場所に倒れ伏していた。
「あっ――――」
「見事……忠義だけで動きおった――――いや、だけ、では、ないな……?」
ティナが悲鳴を上げてジグライドに駆け寄り、その体を助け起こす最中、レナトゥーラは与えられたはずの追撃を放たなかった。
ティナの叫び声をよそに、レナトゥーラは自分の手をじっと見つめ、何事かを思案する。
「ズレた……威力も……これはこれは。わかっておったのか、アルマ……? あの男が割って入ると……」
わずかな時間、レナトゥーラは自分の世界に入った。
何かに思いを馳せるように、その表情には、彼女にはあり得ないはずの、慈愛のようなものが見て取れた。
「“千年前”も今も度し難いものよ……惰弱な貴様らの“それ”だけは……恋だか愛だか、そんなに大事か……あれほど狂って尚焦がれるほど……」
レナトゥーラが動きを止めている。その間に、ティナとしてはジグライドだけでも逃がしたかった。
「ジグライド、ジグライド! ダメです、死なないで……! 運びますから、どうか……!」
「あなたが……逃げなければ……」
弱々しい声で、ジグライドが言う。
凄まじい火傷が、顔の半分から左半身に広がっている。だが、生きている。ジグライドは、声を発するだけの余裕もあるようだ。
「ここで、あなたがこのまま、殺されては……奴の、思う……ままに……」
「でもっ……!」
「おぉ、よいぞ……よいではないか、貴様もわかってきたな!」
レナトゥーラが高笑いしながら叫ぶ。
「感じるぞ、怨嗟の情念を! ようやく陰ったな、それでいい!」
ティナがレナトゥーラを睨んだ。瞳に宿す怒りは、レナトゥーラを喜ばせるだけ。それがわかっていても、憎悪が胸の内に燃え上がるのを感じる。
同じぐらいに、絶望も広がった。逃げ場などどこにもない。レナトゥーラはまずジグライドにトドメを刺し、然る後ティナを殺し、そのまま大虐殺に乗り出すのだろう。
兵士たちも、国民たちも雄々しく、王城の前に集まってきて、何とかティナを護ろうと、届きもしない武器をレナトゥーラに向けている。
それら全てが殺される。
止める術はなく、ティナにはもうレナトゥーラを憎み、睨む以外にできることがなかった。
流れる涙を拭うことすら億劫だった。何も出来ないまま死んでいくだけの自分の情けなさに嫌気が差した。
「どうして、こんな……こんなことを……! あなたは何がしたくて……!」
「わかりやすく言えば食事だ。貴様らにもわかるだろう? 生きていくだけの栄養を得るためだけに行うのが貴様らの“食事”か? 違うよなァ、より美味なものを、より質の良いものを、貴様らヒトも求めるだろう?」
レナトゥーラが腕を振り上げた。
何か、ティナにはわからない違和感が、レナトゥーラを数秒の間逡巡させたのは事実だ。しかし、結果を変えるほどのものではなかった。
「貴様のことは“よく知っている”。非力で無力、何も護れない飾りの王女。しかし貴様には価値があったぞ。極上だとも。なに、案ずるな。“嬲り殺す”と貴様は言ったが、苦しませはせんよ――――そうせずとも既に、貴様の情念は極上のものになっている!」
蒼い炎が球体を成し、莫大な熱量を伴う。
逆転の芽はない。何も出来ない。ティナはただ悔しさに涙を流しながら、ジグライドの血にまみれた体をきつく抱きしめて目をぎゅっと閉じた。
「“国一つ”と言うのは、貴様の如き非力な生命にはあまりに過ぎた玩具だったが、喜ぶが良い! わしの糧として、このエメリフィムはまさに極上の――――」
レナトゥーラが不自然に言葉を切った。腕を振り落とす直前で、動きを止めて、レナトゥーラの視線がティナを外れて、王城の背後へ。
王城を抱くように広がる、背の低い雄大な山の方向へと向けられる・
そしてティナも目を開けた。
ティナもレナトゥーラも、確かに聞いた。王都とその周辺に集まったエメリフィムの民も皆、聞いた。
間違いなく聞こえた。
凄まじい音が――――“岩盤を砕く轟音”が。
ティナがばっと振り向いた。目を見開いて、遥か遠く、王城の向こう側で、天へと伸びる“蒼銀の光”を見た。
小さな人影が二つ、蒼銀の光――――というよりは衝撃波によって、上空へ打ち上げられている。ティナの位置からは遠くてかすかにしか見えないが、片方が特徴的な武器を持っている人影だったことから、ティナはそれらの人影が“カトレアとディオウ”であることを直感的に悟った。
続いてもう一つ、“誰かを抱えた人影”が飛び出してきた。その人影は明らかに、カトレアと思しき人影を追いかけようとしていたが――――
驚いたことにその人影は、抱えた誰かをその辺にぽいと捨てると、空中で方向転換した。波紋のように魔力が広がり、衝撃波が周囲に拡散する。
ティナの絶望を反映したかのような、暗く沈む群青のソラに、蒼銀の光が走る。希望を告げる一条の光は、一直線に。
一切の迷いなく、レナトゥーラに向かって突撃する――――!
「レナトゥーラァァァァァ!!」
失ったはずの“蒼銀の魔力”を身に纏い、女神の騎士が突っ込んで、レナトゥーラがとっさに構えた不気味な腕のガードの上から、強烈な右ストレートを叩きこんだ。
救国の時は来たる。わずかな希望を繋ぐ一条の光は今、情けない日々を乗り越えてようやく。
世界を救う「救世主」として、世界の敵と対峙する。
一体何があったのか、取り戻された破格の力に速度が上乗せされた強烈な一撃は、流石のレナトゥーラであっても受け止めきれなかった。空中で大きく弾き飛ばされ、レナトゥーラは立て直しを余儀なくされる。
「貴様か――――そうか貴様か! 随分と“憎たらしい匂い”の方が強くなったものだ! あの忌々しい女神と縁切りでもしてきたか!」
「ッ……ジグライド……!」
空中で弾かれたのは総司も同じ。
だが、総司は蒼銀の魔力を纏いながらくるくる回転しつつ、見事に態勢を立て直してティナとジグライドの傍に着地を決めた。
身のこなしが確実に良くなっている。シドナとの特訓はわずかな時間ではあったがしかし、動きの基礎を学んで、そこに“本来の力”が戻ったことで完成されている。
元々運動のセンス、体の使い方に関しては、元いた世界でも十分な素質を持っていた総司である。一度力を失い、どういうわけか取り戻したことで、更に磨きが掛かっていた。
「ソウシ……?」
「ティナは無事か! 流石すぎるぜジグライド……! 生きてるか!?」
「……そうか、間に合ったか……」
跪いて総司に目を向けながら、ジグライドは微笑を浮かべていた。
「心配無用だ……それより、君は、奴を……」
「ああ、わかってる! ステノ!!」
「聞こえてるっつの!」
ザン、と姿を現したのは、深い紫色のショートヘアを揺らめかせる、顔にわずかに広がる竜の鱗が特徴的な、濃い褐色の肌をした、勇ましい顔つきの美女。髪の色と同じ深い紫の、肩を出した動きやすそうな、簡素なドレスが風にはためいた。
竜人系亜人種“ヴァイゼ族”の指導者、行方不明であったはずの要人「ステノ」である。
「ステノ……?」
「久しぶりだね、でも挨拶は後だよティナ王女! 連れてきゃ良いんだね、ソウシ!」
「ジグライドは医務室へ運んで、お前はティナと一緒に“地下”に戻れ!」
「戻れ!? あんなとこ戻って何しろっての!?」
「決まってんだろ、あの“杭”ぶっ壊してこい! アレがある限り俺は全開じゃやれねえんだよ、”今のコレ”は裏技みたいなもんなんだ! 説明している時間はない、行け!」
「ッ……良いけど、ティナ王女まで連れてけってのはどういう了見?」
ステノが総司に顔を近づけてこっそりと聞く。総司も声を潜め、ステノの肩にがっと手を回して顔を近づけた。
「ジグライドの傍で看病してろ、なんて言ってみろ、出てきちまうだろうが。俺が戦ってるとなりゃじっと待ってるなんて出来やしねえ。だから仕事をさせるんだよ」
「……短い付き合いで随分と、仲良くなったもんだね。わかった、あんたに従う」
ステノは総司から離れると、ジグライドをひょいと担ぎ上げて、ティナの手を引いた。
「ほら行くよ! ここにいても邪魔になるだけだ!」
「あ、あの、本当に、どういうことか少しもわからないのですが! 説明してください、ソウシ!」
「言ったろ、時間がねえ! 話せば長くなるんでな、全部終わったらゆっくりだ!」
全くもって意味不明で、ティナが混乱していることは、総司も十分理解している。だが、レナトゥーラを相手取る今、悠長に全てを話しているだけの時間はなかった。
「随分と遅れちまって……詫びの言葉も見つからねえし、偉そうに言えたもんじゃねえけど」
空中で楽しげな笑みを深め、総司を睨むレナトゥーラを睨み返し、蒼銀の魔力を再び拡散させて、総司がティナに背を向けたまま言った。
「レナトゥーラは俺の敵だ。俺が必ずここで仕留める。だからそっちは頼んだぞ!」
総司が力を取り戻し、レナトゥーラと対峙するに至った経緯を語るには、少し時を遡らねばならない。
数奇な運命の糸を手繰り寄せ、類まれなる奇跡を味方に、総司は返り咲いた。
”国一つ背負う”英傑として、彼をこの舞台に引き戻したのは、他ならぬ”彼ら”だった――――