怨嗟に沈むエメリフィム 第五話⑤ 憧憬の光と影
大賢者レナトリアの足跡を辿ることは困難を極める。
かつて反逆者ロアダークの暴挙を阻止するため、各国で立ち上がった英傑の一人。エメリフィムにおいて名を馳せた高名なる賢者レナトリアは、“忘却の決戦場”で行われた最終決戦にも臨み、時のシルヴェリア王女ゼルレインと共に勝利を収めた。
だが、その時の記録はほとんど残っていないものの、子孫だけに受け継がれたわずかな記録の中に、理解しがたいものがある。
大賢者レナトリアは、彼女の才覚を以てしても、“怨嗟の熱を喰らう獣”レナトゥーラの召喚を「完全には達成できなかった」という、魔法使いとしての敗北の記録である。
「君の召喚準備を進めていたのは確かにレナトリアだったけれど、“召喚者”は別にいた。そうだよね、レナトゥーラ?」
いくつかの色とりどりの薬を調合しながら、アルマが気楽な調子で聞く。
暗いドーム型の研究室。賢者アルマにとっての現在の本拠地は、“ヴァイゼ族”が根城にする集落に堂々と構えられている。
切り立った崖の上に築き上げられた、王城に勝るとも劣らぬ要塞じみた集落こそ、遥か昔からエメリフィムの「第二勢力」として在り続けてきたヴァイゼ族の故郷だ。
当然、王家に仕える魔法使いであるところのアルマが、堂々と拠点を構えるというのは本来あり得ない話である。たとえアルマが「王家を裏切りヴァイゼに加担する」道を選んだのだとしても、不自然極まりない。
「レナトリアは人格的に……まあ、決して度の過ぎた善人というわけでもなかったんだろうけど、君を召喚する者としてはちょっと情があり過ぎた。要するに、君という炎にくべる薪を用意しきれなかったわけだ。まあその点では私もまだ途中だし、先人の失敗をきちんと生かすつもりだけどね」
「あの女が自らの汚点を詳細に残すとは思えん」
レナトゥーラはけらけらと笑いながら、アルマの研究室をふわりと飛んで、空中からさかさまにアルマの顔を覗き込んだ。
「何を見た、アルマ。興味があるぞ」
「たった一人で、君の召喚に十分足る“怨嗟”を、君に叩き込んだ者がいる。どうかな?」
「これこれ」
レナトゥーラは逆さの状態でアルマの頬に大きな手を這わせた。
「質問に答えんか。我が召喚者と言えどその無礼、何度も許しはせんぞ」
「おっと。別にそれほど珍しいものでもないよ。私は事実をいくつか確かめただけ。“ロスト・ネモ”に残る君の力の断片や、ほんの少しずつ残る当時の記録をちょこちょこと……それだけでも十分」
「優秀だな」
「残念だけどそれほどでもない。同じ情報を得れば恐らく……例えば、アリンティアス団長でも辿り着く。随分気に入ってるようだね?」
「リシアな、アレはよいぞ、どうにか口説けんのか。傍に置きたい」
レナトゥーラが弾けるような笑みでアルマに提案するが、アルマは苦笑して首を振るばかりだ。
「それはもう、私が君を滅ぼすことより不可能だろうね。君、せっかく出しゃばったんだから、ついでに彼女を仕留めておいてくれればよかったのに」
ボフン、と薬が音を立てて煙を上げる。決して失策ではなく、この派手な挙動で以て完成を迎えたのである。
アルマはそれをぐいっと一気に飲み干した。とてもヒトが飲むものとは思えない、蒼とピンクが入り混じる不可思議な色をしていたが、全く気にしていない様子だ。
「先ほどの質問だが、見事と言っていい。細部は違うが大体は合っておるぞ」
ふわりと体制を変えて、空中でハンモックに揺られるような姿勢を取りながら、レナトゥーラが気楽に言った。
「ついでにちょいと補足してやろう。“女神の騎士”と同じ匂い、憎たらしい匂いの莫迦者。それがわしの千年前の召喚者よ。しかしあやつは、女神の騎士ほど忌々しい匂いは纏っていなかったがな」
「……ふぅん?」
不意に齎された新しい情報に、アルマがちょっと考えた。
「それはちょっと意外だったな。私はてっきりゼルレインの――――」
そこまで言って、アルマは言葉を切った。レナトゥーラはふと眉根をひそめた。
「しもうたわ、ちと喋り過ぎたか」
「……ロアダークとの決戦時点で……そうか、そういう……ハハッ、これは面白い。事が終わったらその研究もしてみたいな。歴史学はちょっと専門外だけど、すごく興味が湧いたよ」
「優秀な者は好ましいがしかし、話すと油断できんのがな。疲れる」
レナトゥーラがけたけたと笑う。
「だとすれば……酷だね。これ以上ないほど残酷だ。この先に進んでも、彼を待ち受けているのは絶望しかないってことだ」
「とてもそう思っておる声色とは思えんぞ、アルマ」
「なに、私はレナトリアほどではないけど、それなりに慈悲深いからさ」
魔法のベルをちりんちりんと鳴らし、アルマもまた笑う。
「彼にも慈悲を与えよう。この先に進んで、残酷な運命に苦しまなくて済むように。彼の旅路を、ここで終わらせてあげよう――――それこそが優しさってものさ。ねえ、カトレア?」
「お呼びですか」
魔法のベルの音色が届いたか、どこからともなくカトレアが現れて、アルマの傍にさっと膝をついた。
「女神の騎士を再びおびき出すよ。そこで仕留めてくれ。君たちが彼に仕掛けると同時、こちらも王城に仕掛けるとしよう」
「アンティノイアにいると聞いていますが、そちらには?」
「あー、ダメだね」
アルマは肩を竦めた。
「力の大部分を失っているとはいえ、あの場所は女神の領域に最も近い場所だ。一応破壊はしておいたけど、レナトゥーラの話じゃどうやら失敗に終わったみたいだし。あそこを決戦の地としてしまうと余計な邪魔が入りかねない」
「……では、もう一度リシア・アリンティアスと引き離す必要があります」
「君とディオウでアリンティアス団長に勝てないのかい?」
「力及ばず申し訳ありませんが、よくて相討ち。とても女神の騎士を仕留める余裕は持てないでしょう」
「謙遜ではなさそうだね。客観的な現状把握は大切だ。正直でよろしい」
アルマは頷いて、
「では私の方を先にするという前提で策を立てられるかな? 王城の混乱に乗じて女神の騎士をおびき出す策だ」
「……立案まで、時間は?」
「あぁ、急がなくていい。私の準備もあと五日は欲しいからさ。四日後までに策を聞かせてくれ。そこからすり合わせるとしよう」
「かしこまりました。“逃げた者たち”のことは、いかがなさいますか」
カトレアの問いに、アルマが一瞬だけ沈黙する。
「……“逃げた”のではなく“逃がした”のだと言えば、君なら理解するかな?」
「……なるほど」
「結構。さあ、幕を上げに掛かろうじゃないか。私の悲願、君の悲願、どちらも手の届くところまで来た。抜かりないよう、お互いにね」
大賢者レナトリアに関する記録は少ないが、レナトゥーラもレヴァンチェスカも、千年前当時のレナトリア本人を知る存在である。
女神レヴァンチェスカは、あらゆる意味での「優秀さ」、戦って強いというだけではない魔法使いとしての才覚に、持て余すほど恵まれてしまった大賢者レナトリアの悲劇を、まさにその目で見た。
彼女にとって最も悲劇的だったのは、彼女自身の人格と魔法性質の乖離だ。
魔法を極めし者として一般的な感性よりは破綻したところがあっても、レナトリアは性根の部分で善なる者だった。ゼルレインの陣営に加わり、肩を並べて戦うに足る善性の持ち主だった。そして――――彼女に与えられた魔法の才覚は、それとは真逆。
この世の悪性をこれでもかと煮詰めた漆黒の魔法。
伝承魔法“イラファスケス”。リスティリア史上最も忌むべき伝承魔法である。
「レナトリアは “イラファスケス”の真髄に至ることを嫌った。当時の彼女の言葉を借りれば、至ってしまえば“自分が自分でなくなる”のだと。でも――――溢れる才能が、それを許さなかった」
精神的な拒絶は、伝承魔法の真髄から使い手を遠ざける。リシアがそうであったように。
だが、レナトリアの魔法使いとしての才覚は、リシアとは比較にならなかった。心の拒絶が問題にならないほどレナトリアは魔法に卓越しており、彼女が望むと望まざるとにかかわらず、彼女の才能は彼女を、“イラファスケス”の真髄へと押し上げた。
「憎悪と怨嗟の熱を束ね、具現化する魔法。使い手であるレナトリアの精神すら蝕み始めた“イラファスケス”の呪縛から逃れるため、彼女は内から湧き上がる暗い情念を外に吐き出し、封じ込めた」
「ッ……そうか、その『封じ込めた先』ってのが――――」
「“レヴァンフォーゼル”。レナトリア自身も留め切れなかった“イラファスケス”の全てが詰め込まれ、“レヴァンフォーゼル”は『伝承魔法の真髄の結晶』となった。“レヴァンフォーゼル”とはつまり、召喚魔法“レナトゥーラ・イラファスケス”の礎ということね」
レヴァンチェスカは軽く腕を組んだまま、悲しげに首を振る。
「千年前、レナトゥーラは召喚された後、再び封じ込められたのだけど、アルマの手によって呼び覚まされてしまった」
「“レヴァンフォーゼル”が砕けていた理由は? その言い方だと、千年前は召喚後も、礎は無事だったんだろ」
「十全な召喚ではなく暴発だったからよ」
レヴァンチェスカがにべもなく言う。
「アルマは優秀だけど、正直、レナトリアに及ぶほどではない。レナトリアですら制御できなかった“イラファスケス”の情念を、アルマに御し切れる道理はないわ。あの子はここに来たから、私も十分“見る”ことが出来たけれど……」
総司から目を逸らすレヴァンチェスカ、と言うのは、どこか珍しい光景だった。
「酷いものよ。中身はもうアルマとは呼べないぐらい。レナトリアがギリギリの理性を保って“レヴァンフォーゼル”に押し込んだものを全て取り込んでる。“イラファスケス”の情念だけじゃない……レナトリア自身の悲哀と絶望も、全部あの子に流れ込んでしまった。しかもあの子はレナトリアと違って、“イラファスケス”の性質と人格に親和性があったみたいね」
「もともと善人じゃなかったってわけだ」
「いいえ、根幹は善性を帯びていたと思うわ。ただ……ただあの子は、“憧れ”を歪めてしまったの」
妙な言い回しだった。総司が眉を吊り上げて、わかっていない顔で聞き直した。
「どういう意味だ……?」
「レナトリアに及ぶほどではない、って言うのはね、私がそう断じるまでもなく、アルマ自身も痛感していたということよ。理想を追い求めて、けれど賢い子だから、届くはずがないのだと理解していて……どうしようもなくなった」
「……暗い、情念」
「あの子のそれはすなわち、“劣等感”」
レヴァンチェスカは再び総司に視線を戻し、懇願するように言った。
「アルマの名誉のためにあなたの誤解を解いておくわ。アルマは四年前、確かに“全力で暴走する氷魔竜と戦った”。そして――――死力を尽くして尚、アルフレッドを護ることが出来なかった。ただでさえ、かつてエメリフィムを護った大賢者に対する劣等感を抱いていたアルマは、きっとこう思ったでしょうね……『自分にレナトリアほどの力があれば、王が死ぬことはなかったのに』と」
総司には「聞くに堪えない」話だとレヴァンチェスカが前置きしたのは、アルマの心情が総司と正反対だったからだ。
“ただ背中を追うだけの憧れ”は、ある意味で道を閉ざす。憧れた背中に追いつくことが目標になってしまえば、追い越すことは出来ない。
尊敬や畏敬の念を抱きながらも憧れを凌駕するためには、“自分の望み”を捨ててはならないのだ。
ルディラント王ランセムは総司にとって憧れの男だ。しかし、“ランセムそのもの”になりたいのではない。偉大なる王の真似事をしたいわけではない。
“自分がどうしたいのか”を見つけ叶えることから逃げるなと、まさに王ランセムから叩き込まれたのだから。
“憧れた存在”に対する価値観を端的に表現するなら、総司は憧れの男に近づきたいのでも、なりたいのでもなく、憧れの男に堂々と胸を張れる男になりたいのである。
アルマは違った。自分ではなくレナトリアがその場にいれば。そんな思考が常々抱いていた劣等感に混じってしまって、最終的には取り返しのつかない事態に発展した。
“自分の望み”を捨て、負の感情に取り込まれた。それは総司が、王ランセムによって総司自身も気づかないまま、今は遠きルディラントに置いてきた“弱さ”である。
「ギルファウス大霊廟で、“強くなった”と言ったでしょう? あなたはとても強くなったわ。けれどアルマには……あなたと同じ強さを得る機会がなかった」
「……買いかぶり過ぎだ。偉そうに何か言えたもんじゃねえ。俺も、“それじゃダメだ”って叱ってくれたヒトがいたからここまで来れただけで……けど、それでも同情ばっかりってわけにもいかねえ」
アルマの事情に多少の理解を示しつつも、総司は厳しく言った。
「少なくともティナがいたしジグライドもいた。シドナだってそうだ。一人で抱え込んでねえで、アイツが少しでも心開いてりゃ……あー、いたなァそんなヤツ。誰にも頼ろうとしなかったせいで最終的に大事になったアイツも、そういやとんでもねえ天才だったな……」
「一個の生命として強いって言うのも考えものってことかしらね」
レヴァンチェスカも、総司が誰のことを言っているのかに思い当たって、肩を竦めて苦笑する。
「……俺にはわからん。誰かに頼るってのは、そんなに難しいことなのか」
「……そうね。弱みを見せて、誰もかれもがただ助けてくれるだけではないわ。それに、“強い”自覚があると、誰かに頼る自分の“弱さ”を……弱い自分を知られたくないものよ。理解できなくて当然だわ、あなたとリシアの間には露ほども存在しない感情だもの」
憧れに恥じぬ姿を目指す者。
憧れに諦観を抱き、やがて道を踏み外した者。
“憧憬”の光と影。何かが違えば総司もそうなっていたかもしれない、一つの末路。
「“カイオディウム・リスティリオス”にどれぐらいの可能性がある?」
「恐らくわずかもないわ」
レヴァンチェスカは、一縷の望みすらもバッサリと切り捨てた。
「やめておきなさい……ありもしないその可能性に縋ってしまったら、今回ばかりはいくらあなたでも……ベルと言ったかしら。あの子とはちょっと事情が違い過ぎるわ」
「……そうかい。まあ良いさ」
総司の目が、暗い覚悟をにわかに湛える。
「アルマの目的がレナトリアみたいになる、要は千年前の大賢者に比肩する力を手にするってことだとして、ここから先、アイツは何をするつもりなんだ?」
「……詳細までは、私もわからないけれど。レナトゥーラの完全覚醒を目指しているのではないかと思うわ」
レヴァンチェスカは言葉を選びながら、自分の考えを話した。
「さっき“見た”けど、今のレナトゥーラの出力は、千年前を100としたら50ぐらいだったもの。ただでさえタガの外れちゃってるアルマがアレで満足しているとはとても思えない。そこから推察するに、あの子はこれから“怨嗟の熱を束ねる”動きをするはず」
「……戦争を引き起こすつもりか」
「多分ね」
総司は舌打ちして、ぼりぼりと頭を掻いた。
「今の俺じゃあ止められねえぞ……」
「とにかく、あなたはまず自分の力を取り戻すことが先決ね。すぐそこに“杭”があるから……壊せはしないでしょうけど見ていきなさい」
「リシアならぶっ壊せるか?」
「アルマが施した魔法防御を解除してからでないと無理ね。物自体の破壊は容易いでしょうけど」
「オイオイ、相当キツイな。レナトゥーラを倒すには俺が力を取り戻す必要があるけど、俺が力を取り戻すにはアルマを何とかしてからでないとってか。……いや、待て、っていうかだ」
総司がふと気付いて、レヴァンチェスカに率直な質問をした。
「“アレ”で50……? なあ……仮に俺が力を取り戻したとして……どうなんだ? レナトゥーラを100としたら、俺は?」
「あぁ、ちょうど今のレナトゥーラと同じくらいじゃない? ものすごくおまけして55ってところかしら」
「……マジで?」
レナトゥーラが言っていた、「今の状態の方が命の削り合いを演じるにはちょうどいい」という見立ては、あながち間違いではなかったようだ。万全の総司であれば、「今の」レナトゥーラと互角か、少しだけ上回る程度。
完全覚醒に至れば戦力差は歴然。
「ティタニエラでほとんど無抵抗な『精霊の現身』を消し去る時でさえ、あなた一人では無理だったでしょう?」
事も無げに言うレヴァンチェスカだが、総司としてはそれどころではない。
「下界でヒトの形に落とし込んだ状態だから、滅ぼせないわけではないのだけど、多分今までで一番手強い敵じゃないかしら。まあでもきっと何とかなるわ、よろしくね!」
「何を軽く言ってんだお前は。その立てた親指へし折るぞ」
「あら、成長したと思ったけれど、まさかレブレーベントで言ったのと同じことをもう一度私に言わせるつもりなのかしら」
頭を抱える総司に、レヴァンチェスカは微笑みながら言った。
「一人でやれなんて誰が言ったの。あなたはアルマと違って、誰かに頼ることが出来るでしょう」
「……リシア込みで、届くか」
「もちろん状況によって変わるし、単純なものでもないけれど、数字で言うならリシアが30ってところかしら。でも、足して80じゃないでしょ、あなた達は。掛け算してしまえばレナトゥーラ15体分よ。1体やっつけるぐらいわけないわ!」
「だから軽く言うなっつの……まあいい、それはもう出たとこ勝負しかしょうがねえし、どうやって勝つかは後で考える」
キィン、と、不愉快な金属音。
総司が顔をしかめ、レヴァンチェスカがハッとする。
「……今回はかなり気合を入れたのだけど、それでもこの程度か……ごめんなさい、もっと話したいこともあるでしょうけど、最後に一つだけ」
レヴァンチェスカが口調を早め、総司に言った。
「“アゼムベルム”のこと。まずはレナトゥーラを倒してもらわないとお話しにならないのだけど……必ずぶつかる壁になるから、伝えるだけ伝えておくわ」
「ってことは、アゼムベルムってのも『敵』なんだな」
「そうね、敵になるでしょう」
不愉快な金属音の感覚が徐々に早まっていく。レヴァンチェスカとの邂逅もどうやら終わりが近い。エメリフィムで話すという約束を果たすため、女神はこの邂逅に相当な力を使ったようだが、レヴァンチェスカの想定よりも早く終わりが訪れたのは、恐らくアルマによって聖域が蹂躙されたせいだ。
「“敵になる”……?」
「『神獣の王』アゼムベルム。今まで出会った子たちと同じとは思わないことね。あの子にはもう、意思ある生命としての性質はないわ。四体の神獣は、アゼムベルムが切り離したものから生まれた存在。生命を慈しむビオス、真実を司るウェルス、裁きを代行するジャンジット、そして意思を愛でるアニムソルス」
生命への慈しみと、意志ある生命に対する愛を切り離したもう一体の“獣”。
わずかな記憶の糸を手繰り寄せ、目に浮かぶは“真実の聖域”のとある光景だ。
「アゼムベルムは自らの役割を捨て、永い眠りについたけれど……あぁ、ダメね」
不愉快な金属音が、レヴァンチェスカの声が満足に聞こえないほど大きくなる。総司の苦悶の表情を見て、レヴァンチェスカが諦めたように言った。
「後のことはいずれわかるわ。ともかく今は――――」
ブレーカーでも落ちたように、急に。
レヴァンチェスカの姿が消え、周囲が真っ暗になった。
いつもと違う。総司は全神経を集中して気配を探る。
いくら時間が迫っていたとはいえ、女神との邂逅の終わり方があまりにもこれまでと違い過ぎた。
「ういっす」
他に何も見えない暗闇のはずなのに、唐突に目の前に顔を突き出してきた男だけはハッキリと見えて、総司は思わず声を上げた。
「うおぉぉぉう!」
「オゥ。元気そうじゃねえか」
目の前にいるのはスヴェン・ディージング。
カイオディウムでちょっとしたアクシデントに見舞われ、ローグタリアに飛ばされた時も案内役を担ってくれた、ルディラントで出会った男――――を、模した存在。
つまりは――――
「ひ、久しぶりだな、アニムソルステリオス」
「長ぇからアニムソルスで良いぜ」
真っ暗闇が消え失せ、崩れ落ちた“聖域”の光景が世界に戻ってくる。
相変わらず割れたサングラスを掛けて、スヴェンの姿をしたアニムソルスが笑った。総司からの指摘を生かしたか、今度は割れている方を間違えていない。
「ちょいと前にエメリフィムまで来たってのを知ってな。ローグタリアで会えるのを俺もヘレネも楽しみにしてたんだが、何をモタモタしてんのかと思ってよ。迎えに来たぜ」
「……迎えに? なんだそりゃ」
「まあ何だ。ほらアレだ。こちとら神獣、お前が“オリジン”を手に入れてるかどうかなんて見りゃわかるってこった」
またしても総司の指摘から模倣のクオリティを上げたのか、シュボっと葉巻に火をつけて、スヴェンは気楽な調子で言った。スヴェンのどこか適当な感じも見事に再現している。
「事情は大体知ってる。っていうかレヴァンチェスカとの会話も聞いてたし。“オリジン”のことも、あのクソ忌々しい精霊もどきのこともな。“オリジン”は壊れてる、そうだな?」
総司に座るように促しつつ、スヴェンもまた、どさっと瓦礫に腰を下ろした。
「あぁ、まあな……」
「んで、“聖域”でなら力を取り戻せると踏んでる。そこまでは別に間違っちゃいねえが、一つ見落としてるんだよ」
「見落としてる?」
「“別にエメリフィムの聖域でなくても良い”だろって話だ」
総司が目を見開いた。アニムソルスはスヴェンの口でふーっと葉巻をふかし、事も無げに言う。
「エメリフィムに入った瞬間わかった。鬱陶しい結界だ。それでお前の力は制限されてる。そうだろ? そりゃ俺にだってわかるさ、俺とお前の魔力は同質だからな」
神獣たるアニムソルスの力と総司の力は、共に女神に近しい力であり、似通う部分がある。
「けど今言った通りだ。“エメリフィムにだけ”施された結界だ。よく考えろ」
アニムソルスは淡々と言う。
「レナトゥーラを討ちたいってんなら、エメリフィムの外で迎え撃てばいいんだよ。どうせお前と戦いたいのはアイツも同じ。追ってくるだろうぜ。ローグタリアでシバいてやりゃ良い」
「……エメリフィムはどうなる」
「そりゃあ」
葉巻をもう一度吸って、煙を吐き出し、アニムソルスは相変わらず淡々と言った。
「レナトゥーラの召喚者が滅ぼしたいなら、滅ぶだろうよ。お前との対決はその後なんじゃねえの」
「受け入れられるわけねえだろ」
「何でだ?」
「何でって……そんなの当たり前じゃねえか!」
「そうは思わねえな。お前だってわかってんだろうが」
火のついた葉巻が総司に向けられ、アニムソルスの声色が厳しさを帯びた。
「お前が万全なら戦うことは止めやしねえよ。それなりに見込みもあるし、それがお前の役目だってのも理解する。けどエメリフィムの中で全部やろうとするのは現実的じゃねえだろ。どうやって力を取り戻すんだよ。さっきのアイツとの会話でも、お前自身が無理難題の自覚あったじゃねえか」
痛いところを衝かれて、総司は押し黙る。
本当に総司を封じ込めるための結界が「エメリフィム限定」ならば、アニムソルスの意見は正しいとも思える。
レナトゥーラの進撃を止めるにしても、今の総司では全く勝ち目がない。どころか、レヴァンチェスカが言うには万全の総司であっても、レナトゥーラには数段劣る。それでもなおレナトゥーラを打倒しようとするなら、総司が万全の状態であることはあくまでも前提条件であり、そのうえでリシアとの協力や戦略が必要になる。
“杭”を全て破壊できれば、結界の無力化の可能性はある。だが、“杭”を破壊するにはアルマの打倒が必要で、そのアルマを何とかするにはレナトゥーラによる妨害は避けて通れない――――アニムソルスが言う通り無理難題であり、総司にもその自覚はある。
「悪いことは言わねえから、俺と一緒に来い。リシアともども連れてってやるよ。城に戻り次第準備しとけ」
合理的判断。
女神の騎士に託すしかない、神獣としての最大限の譲歩。総司の決意、『レナトゥーラを討たなければ』という意志を汲んだ上で、可能性の最も高い道を提示する。
アニムソルスの提案は筋道が立っていて、リスティリアの救済を最終的な到達点とすれば完璧な論法だ。
だが、総司の出した結論は。
「断る。ありがとな」
「ハッ、言うと思ったぜこの馬鹿。救えねえな」
明らかに誤った判断と決断を、そして感謝を、アニムソルスは笑って聞き入れた。
「一つ助言だ、心して聞け。レナトゥーラ。あの陰気精霊もどきの“見てくれ”に騙されんな。どれだけ魔力が凄まじかろうと、見た目がああだとどうしてもヒトの常識の範疇が想定の一番手前に来る。特にお前はな。お前自身がなまじ強いもんだから、魔力ぶつけられるだけじゃ脅威の認識が他より薄いし、五つ目の国に至っても“以前の”常識が抜けきってねえ」
アニムソルスはスヴェンの姿で、トン、と総司の額に人差し指を当てた。
「お前の経験に基づいてわかりやすく言えば、アイツとやり合う時は“ジャンジットとやり合うつもりでやれ”。それだけでもかなり変わる。あのダ女神の言い方を借りれば、55が60になるぐらいの違いだ。リシアにも必ず伝えろ。お前らが全身全霊でぶつかっても多少ぐらつかせるぐらいがせいぜいだった天空の覇者を“殺さなきゃならねえ”、これほどわかりやすい指標もねえだろ。これまでの敵とは違う。甘くはねえぞ」
「わかってる。ローグタリアで待っててくれ。自分の足で必ず行く」
「ったり前だ。そうしてくれねえと、それこそ俺がジャンジットに殺されちまう。引きずってでも連れて行かなかった俺の失態だってな」
額に当てた指を離し、どすっと総司の胸元を拳で殴って、アニムソルスが笑う。その姿がふわりと消え始めた。
「しっかりやれよ」
「……ああ。じゃあな」
スヴェンの姿を模した神獣の姿が消える。
見てくれに騙されるな、という言葉を使っている割に、アニムソルスは「見てくれ」というものを効果的に使っていた。
たとえ本物でなかったとしても、スヴェンの姿でする助言は、そうでない者の姿を借りるより何倍も総司にきちんと届くだろうとわかっているのだ。
意思を愛でる獣の通り名に相応しく、アニムソルスは意思の機微というものをよく理解している。
「……うし」
ぐっと拳を握り、決意を新たにして、総司は聖域の出口へと走った。