怨嗟に沈むエメリフィム 第五話④ 獣は笑い、女神は語る
圧が違う。
じりじりと、無意識のうちに足が後ろへ下がるのを感じて、シドナは自分の臆病さに愕然とした。
歴戦とは言えないまでも、シドナとて優秀な戦士である。ジグライドとは違い戦闘の腕を買われて王城に入った。彼女の種族であるミデム族は再生能力に長けた一族であり、痛みさえ恐れなければ多少の傷など取るに足りない。戦闘面では性格的な相性の良さもあって、恐れを抱くことは稀だった。
恐怖というよりは畏怖。
別格別種の威光を前に、平伏してしまいそうな圧倒の気配。己の情けなさを嘆くより、生存本能による危険信号が先に来る。
背を向けて一目散に走れと。恐らくそれは悪手なのだろうが、その甘い誘惑に乗ってしまいそうなほど、目の前にいる“獣”は圧倒的だった。
ひとにらみで他の生物の生存本能を刺激する無二の危険性。生物としてというよりは存在としての格の違いを肌で感じる。一切やる気をみせていないにも関わらずである。
「おぉ! よくよく見ればその翼、“ゼファルス”か! ヒトの齢など詳しく見て取れんが、貴様歳の頃は……せいぜい二十か、もっと若いか……? よいな、実によいぞ。名乗るが良い、勇敢なる騎士よ。貴様の名、覚えるに値すると見た」
その圧倒を前にして。
わずかにも気圧されることも、物理的に引くこともなく。
氷魔竜スティーリアの死骸の上にふよふよと浮かぶレナトゥーラと、総司たちの間に割って入る立ち位置で、リシアはただ、敵意の充満した眼差しで睨み合っていた。
「……リシア・アリンティアスだ」
「リシア。今代の担い手、ゼファルスの真髄に至った者。覚えておこう」
蒼い炎が、悪魔とも鬼ともつかぬ、不気味な腕の形を作る。レナトゥーラの大きな体躯をも覆い尽くせる巨大な、手首から先だけの手の上に、レナトゥーラはぽすっと気楽に腰かけた。
「しかしリシア、賢明とは言えんな。まさかわしと戦って勝てるなどと思い上がってはおるまい。貴様は気に入った。一度の無礼を許す。剣を収めよ」
リシアは剣を引くことはなく、レナトゥーラを睨みつける。レナトゥーラは呆れたように息をついた。
「死に急ぐこともなかろうに……若さの為せる業よな。よい、それも許す。で、貴様」
レナトゥーラの目が総司に向けられた。総司はシドナにもらった短剣を構えつつ、レナトゥーラの眼差しを受け止めた。
「憎たらしい匂いだが混じりけがあるな。憎たらしい匂いと忌々しい匂いが混ざっておる。この忌まわしさ、レヴァンチェスカの犬とは貴様のことか」
「そういうお前はレナトゥーラで間違いないな」
総司が聞き返すと、レナトゥーラはつまらなさそうに笑った。
「わかりきったことを聞くでない。他に心当たりがあるか?」
「……敵対の意志はないのか」
「吹けば飛ぶような貴様らを『敵』と見なすのはなかなか難題だな」
不気味で巨大な手の中で足を組み、レナトゥーラはからかうように言う。
何もしていないのに、明らかに別格。総司が万全でない以上はリシアが戦うしか選択肢がないが、恐らく敵わない。
リシアもそれを承知の上で、いざの際には自分が少しでも足止めしている間に総司たちを何とか逃がす覚悟だが、レナトゥーラからやる気は感じられない。
わざわざ氷魔竜の死骸を使って襲ってきたのも、ほんの小手調べ、挨拶代わりと言ったところだろうか。
少なくとも本気で総司たちを殺したかったのなら、何十秒も前にそれは達成されている。
「もう召喚されてるとは思わなかった……目覚めはまだ先って話だったが」
「その言い方、伝聞か。しかし当たっておる。完全ではない」
今度は楽しそうに笑う。レナトゥーラの強者の余裕は崩れない。
「まだ“足りぬ”。貴様が本調子であれば届き得る程度だ。もっともそれも一興、血沸き肉躍る命の削り合いを演じるにはこのくらいが丁度いいが、今代の召喚者はそれでは満足しないらしくてな」
「……アルマはどこにいる」
「居場所が重要か?」
「確かに。アイツの目的は何だ」
「そう、それが正しかろ。ま、語るつもりもないがな。いや隠したいわけではない、面倒なだけだ」
レナトゥーラは満足げに頷いて、ピン、と軽く指を弾いた。
うねる炎が蛇の形を成し、鎌首をもたげる。
光機の天翼が神速を与え、リシアの剣が目にも止まらぬ速さで振るわれ、蒼き蛇を即座に斬り伏せた。レナトゥーラがわずかに目を見開く。
「見事だリシア、その齢では覚醒から日も浅かろうに……やはり天才か。ますます気に入る……顔見せ程度のつもりであったが」
本能的に、総司がさっとシドナの前に立ちはだかった。
レナトゥーラの気迫の質が変わった。遊び半分にも満たないやる気のなさが、その色を明らかに変えた。
「少しばかり仕合うてみたくなった……どぉれ、貴様はこれをどう防ぐか――――」
不気味な手の椅子から空中で立ち上がり、にわかに構え始めたレナトゥーラが、ふと動きを止める。
楽しそうな表情が一変し、つまらなさそうに目を細め、あまつさえ舌打ちまでして、レナトゥーラはどさっと再び不気味な手に腰を下ろした。
「興のわからんご主人様よのぉ……すまんな貴様ら、今日はこれまで」
レナトゥーラがふわりと腕を上げた。
指先に蒼い炎が宿り、周囲の魔力を吸い取りながら拡散し、それは熱を帯びていく。
「ッ――――リシア!」
リシアの反応は相変わらず一級品で、すぐさまレナトゥーラに肉薄したが、レナトゥーラが空いた片手を掲げて火炎を発し、その行く手を阻んだ。
「くっ――――!」
軽い所作だが、とんでもない威力。触れれば消し炭となりそうな凶悪な炎が、軽く放たれたとは信じがたいほどの広範囲に及んでおり、リシアは回避に専念せざるを得なかった。
「挨拶代わりはこれで終い、ひとまず生き残ってみせよ駄犬。召喚者は望んでおらんようだが、わしは期待しておるぞ。貴様が万全の状態でわしに噛みついてくる日をな」
氷の大地に墜ちる、蒼炎の爆弾。レナトゥーラの手から零れ落ちる水滴のように地へ墜とされた蒼い炎が爆裂し、総司の足場を奪う。
総司は自分に残る力を最大限発揮して、シドナを思いきり放り投げていた。
解けて崩れ落ちる氷。空洞となっているらしい足元へ、総司の体が落ちていく。
「ソウシ!!」
リシアが何とかして総司を助けようとスパートを切る。
だが、崩れ落ちる氷塊に阻まれ、しかもレナトゥーラの炎が絶え間なく襲い掛かってきて、総司の元へ飛ぶことが出来ない。
「行け!!」
下へと落ちながら、総司が叫んだ。
「ジグライドに知らせろ! “獣はもう起きてる”ってな!!」
総司に言われるまでもなく、既にリシアはもう追いつけない。氷塊だけなら、リシアの翼ならばかわしきれるが、レナトゥーラの攻撃を回避しながら総司の元まで辿り着くことは不可能だ。ましてや今、レナトゥーラが本気になってしまえば全てが終わる。総司の無事はリスティリアのために必須事項だが、この一手を防げなかった今、打てる手は限られている。
少なくとも、レナトゥーラに総司を追撃する動きはない。敵の言葉を鵜呑みにするわけではないが、レナトゥーラのやる気のなさは一目瞭然でもある。
総司は「生身のヒト」にまで弱体化したわけではない。常の規格外の状態ではなくなっただけで、肉体の強度はそれでも常人とは一線を画す――――そのように自分に言い聞かせ、リシアは歯を食いしばりながら、進路を変えてシドナの元へ行き、彼女の体を捕まえると一目散に空へ逃れた。
その様を見て、レナトゥーラは幾度目か、感心したように頷く。
「まこと、よい。貴様も見習わんかアルマ」
『うるさい。勝手な真似をしないでと何度言わせる』
既に総司の姿を見えなくなり、誰もいなくなった氷の大地、その大穴の上にふよふよと浮いたままで、レナトゥーラは召喚者と会話する。
賢者アルマは召喚獣レナトゥーラと魔法的な繋がりを持つ。レナトゥーラの動きはそれなりに掴めているし、どこにいようと会話も可能だ。
「面白みに欠けるヤツよな」
『カトレアは“自分でやる”と言っていたのに……君が殺してしまったら、契約は不履行みたいなものだよ』
「おぉ、それならば心配は要らんぞ」
『……と言うと?』
「この下は『水場』があるしな。それに、忌々しい匂いが強まった。出しゃばってきおったようだ。死んではおるまい」
『……そう。とにかく戻って。君には別の仕事がある』
「わしがおらんと何も出来んな貴様は」
レナトゥーラは軽口を叩きながら、蒼い炎と化してその場から消え失せた。
「……良い湯だな。丁度良い感じだ。何で温泉なんてあんだよ、氷の下に」
「昔は巡礼者が旅の疲れを癒やす場所だったのだけどね。いつからかしら、スティーリアが生まれてから? 別にあの子は元来危険な魔獣でもなかったのに、ヒトが勝手に寄り付かなくなったのよ。で、何を簡単に負けてるのかしら。わかってる? 下手したらここで終わりだったのよあなた」
「うるせえな。しゃーねえだろ、どうあがいても回避しようのないイベントってやつだ」
氷の下を落下した総司が辿り着いた先は、少しばかり温度の高い、広々とした温泉だった。
通常であれば、いかに水場であろうと死んでいる高さからの落下だ。コンクリート並みに堅い水面にぶち当たって潰れていたはずだが、幸い、完全に魔力と強度の全てを失ったわけではなく、何とか衝撃に耐えられる程度の肉体強度は保っていたらしい。
仰向けにぷかぷかと、心地よい温度の湯に漂う総司の傍ら、温泉の端の岩場にレヴァンチェスカがいた。
アンティノイアの頂とは、かつて女神が恵みを齎した伝説の地。現代におけるその伝説は、千年前には女神の領域と接続できた可能性を示唆していた。
ティナやジグライドの読みは当たり、総司はエメリフィムにおいて二度目となる、女神レヴァンチェスカとの邂逅を果たした。
「……お前のお膝元にしちゃ、魔力が薄いな。薄いというより質の違いか。今までと違う感覚だ」
温泉に浸かっているのは総司だけではなかった。
氷と共に下に落ちた氷魔竜スティーリアの死骸がある。氷魔竜は四年前、先王によって討伐された。極寒と言うほど気温が低くない場所ではあるが、大地を覆う氷がかの竜の腐敗を妨げたのか。
「そうね。ここはもう、私というよりは彼の場所だったから」
死骸を弄ばれた氷魔竜に、女神レヴァンチェスカは憐みの目を向ける。
「彼とデュリアの故郷……けれど、見事に蹂躙されたわね。してやられたわ」
「これも既定路線ってわけじゃねえのか」
「……随分と嫌われたものね」
総司の辛辣な言葉に、女神レヴァンチェスカは寂しげに笑う。
「これまでのあなたの旅路で起こったことの多くは、私の想定を超えているわ。良い方向にも悪い方向にもね」
温泉からざばっと上がると、総司の体や衣類は瞬く間に乾いた。温泉そのものが普通ではない。ちょっとした野球場ほどもありそうな大きさの温泉は、今は氷魔竜の死骸だけを湛え、静かに湯気を上げている。
「来なさい」
氷で覆われた縦長の洞穴の端に、明らかに「ヒト」が通るための通路があった。
氷とは違い、何か特殊な黒と金の金属の壁で構成されている。レヴァンチェスカの後をついて、総司は無言で通路を通り抜けた。
通路を抜けた先は、先ほどの温泉があった空間と同じぐらいに広々とした、魔法の光が灯る遺跡だった。
総司は、瓦礫の山と化した遺跡を見て目を見張る。
既に遺跡、つまりは“女神の領域と接続できた聖域”は破壊されている。わずかに残る大鐘楼や、神を祀る神殿に相応しい折れた柱が並ぶのみだ。
台地の地形から見て、円形の空間の外側から中心へと、神殿を構成する建造物の数々が立ち並んでいたのだろう。最も高い場所にある大鐘楼とわずかな塔の痕跡が、きっとあの場所こそ、かつてここにあった聖域において最も重要な場所だったのだろうと推察できる。
黒と金で構成され、時折火炎のような紅蓮の鉱石が顔を覗かせる、どこか不気味で物憂げな遺跡。総司はレヴァンチェスカの背中に向かって問いかけた。
「ロアダークの手がエメリフィムに及んだなんて話は聞いた覚えがねえな」
「そうね、正しい。彼が破壊できたのはルディラントの聖域のみ。この場所は違う者の手によって壊されたわ」
「しかも聞いた話じゃ、デュリア族が“ここ”を護っているはずだった。ってことは……」
「あら意外。想定外の光景を前にしても、自分が得た情報と繋げて思考を組み立てようとしている。レブレーベントやティタニエラにいた頃のあなたなら、目の前で起こっていることをただ受け入れて驚いたり喜んだりするだけで、考えようとはしなかったでしょう」
レヴァンチェスカは感心し、実に嬉しそうに頷きながら、総司に先を促した。
「続きを」
「……つい最近なんだな、こうなったのは。もっと言えば四年前の、先王様と氷魔竜の対決よりは間違いなく後だ。ここに破壊工作が行われたならデュリア族が王家に報告しないってのはあり得ないだろうし……たとえ、デュリア族が破壊を企んだどこぞの馬鹿に全滅させられたとしても、時間が経ってるなら王家はそれを把握しているはずだ」
「お見事。簡単過ぎるかもしれないわね、今のあなたには。さあ、つまり答えは?」
「賢者アルマ。あぁクソッタレ、マジでことごとく先を読んでやがるじゃねえか……! ずっとアイツの手のひらの上だ!」
「そうね、でも良いじゃない。アルマは確かに周到な計画をうまく実行しているようだけど、少なくともここに関しては徒労に終わったのだから」
レヴァンチェスカが軽く拍手しながら笑う。
「私との接触を妨害したかったのでしょうね。女神の騎士であれば、“聖域”でなら私と接触できる可能性がある、とまで思い至ったのは見事。素晴らしい想像力だわ。けれど足りなかった。あの子の力では、この場所に“全てを失わせる”ほどの破壊を齎すことは出来なかった」
「……レヴァンチェスカ」
どさっと瓦礫の一つを椅子代わりにして腰を下ろし、総司はふーっと大きく息を吐いて、意を決して言った。
「お前に聞きたいことはとんでもなくいっぱいあるが、どうせいつも通り“そんなに時間はない”んだろ」
「……ええ。むしろいつもよりもないかもね。既に私は、この世界に関わる力の大部分を失いつつある……いよいよ、限界が近いわ」
「“敵”の正体は相変わらず、俺に教えるつもりはないと」
ティタニエラで邂逅した時、レヴァンチェスカは“最後の敵”の正体を、総司に対して「言いたくない」と言った。
それはつまり、レヴァンチェスカは“最後の敵”の正体を知っているが、しかし総司に教えることは出来ない、ということになる。
「……ええ、出来ない」
「ハッ、それもそれでクソッタレだが……なら……」
いろんな想いを、ぐーっと飲み込む。
ぶつけたい疑問はたくさんあった。一日二日と時間を使ってでも、レヴァンチェスカを徹底的に問い詰め、問いただし、明らかにしたい疑問、教えてほしい過去の出来事、指折り数えるにも両手の指ではとても足りない。
暗い岩肌の天蓋を見上げ、そっと目を閉じて、それらの想いを胸に押し留め、バシッと膝を叩いた。かなり強い手つきだった。足に与える痛みで、渦巻く感情を押し殺そうとしているかのようだった。やがて総司は、強い眼差しでレヴァンチェスカを見つめた。
「三つだ。“レヴァンフォーゼルの力を取り戻す方法”が俺達の考えで合ってるか、それから“今エメリフィムで起きていること”と“アゼムなんとか”について。三つに絞る」
「……本当に……」
レヴァンチェスカは一瞬、涙をこぼしそうなほど瞳を潤ませたが、一瞬だけ目を閉じて潤んだ瞳を隠し、すぐにいつも通りの彼女の顔になった。
「あなたをそこまで“らしく”したのは、一体誰なのかしらね」
「出会ってきた皆が、俺にはないものを持ってた。そして学んできたつもりだが……そうだな、この判断はアレインかフロルって感じかもな」
総司は苦笑しながら言った。
「感情に任せて“自分が知りたいだけ”の質問を、押し問答にしかならねえことがわかりきってるのにここでぶつける判断なんて、あの二人なら絶対にしないと思った。アレインなら目の前の課題を何とかするために、得られる見込みのある情報をさっさと取捨選択するだろうし、フロルなら合理的に考えて、この感情論を“無意味”だと断じる」
レヴァンチェスカが答える気がないらしい質問をして時間を使うのは、現状にはあまりにもそぐわない。
この判断が正しいか間違っているか、今はまだ総司にはわからないが、総司は心を決めた。
「何がどうあれあの二人も、他の皆も。これまで出会ってきた全てのために、俺は絶対にお前を助ける。そのためには“エメリフィムでの勝利”は絶対条件だ。教えてくれ、まずは“レヴァンフォーゼル”だ。壊されて魔力を失ったがガワだけは修復した。俺の魔力を込めれば直ると踏んでるがどうだ」
「正しい。けれど今のあなたでは無理ね」
「道筋が合ってるならそれでいい。そっちは何とかするしかねえしな」
腕を組み、総司は考えをまとめながら次の質問をぶつける。
「エメリフィムで何が起きてる。アルマの目的は何か知ってるか」
「……今の私は、全てを知るわけではないのだけど。断片的には知っている。怒らないで聞いてね、総司」
「何だ。まさかこれも答えたくねえってんじゃ――――」
「ここから先はきっと、“あなたにとっては聞くに堪えない”わ」
レヴァンチェスカが目を細める。それは氷魔竜の亡骸に向けたのとはまた別種の「憐み」。総司に向けられたものではない。
「アルマの目的はいくつかあって、どうしてもそのうちの一つは私には理解できていないけれど……」
「けれど?」
一瞬の間を置いて、レヴァンチェスカは言った。
「レナトリアと並ぶこと。自身をレナトリアの“生まれ変わり”の如く、自ら祀り上げること。あの子の主たる目的はその一点にある。故に“レナトゥス”の名乗りを上げた――――知っているかしら、 “あなたの世界の単語”よ」