受け継がれるエメリフィム 第三話④ リシアの反旗、女神の降参
総司が放つ究極の一撃を、カトレアとディオウが受け切れるはずがない。既にそんな次元にはない、破格の攻撃能力を有する魔法だ。
単純な白兵戦でも、本気になってしまった総司を前に、カトレアとディオウでは全く為す術がなかった。彼がこれまで、各国の「時代の傑物」たちと相対した時に多少の苦戦を強いられていたのは、彼がその者たちを「殺さない」という確固たる意志の元、剣を振るっていたからに過ぎない。
相手の命を奪い取ることに対して、総司が躊躇いを押し殺してしまえば、彼はまさしく最強だ。生まれながらの戦士ではないが、総司はリスティリアに来た時点で生命としては破格の能力を有しており、四つの国を超えて更に磨き上げられてきた。
故に――――外すはずがない。
感情を押し殺して、世界の敵の排除に徹した総司が、この状況で彼の切り札を外すなんてことはあり得ない。
にも関わらず、カトレアとディオウは総司の渾身の一撃からからくも逃れ、爆裂に追いやられながら“泡沫の霊殿”の宙を舞っていた。総司が目を見開き、何が起こったのかを高速で思考する。
明らかに“ズレた”。だが、それはカトレアとディオウが何かしたわけではない。
爆裂の勢いをそのまま推進力に転嫁して、何とか総司から逃げおおせようとするカトレアとディオウの姿を目で追いながら、総司は「何が起こって外れてしまったのか」について思考を続けようとして――――シャットアウトする。
不要。
どんな事情であれ外してしまったのならばそれもまた自分の責任、自分のミス。その上で。
空中を舞い回避行動の余裕など微塵もない「世界の敵」へ、二撃目を放てばそれで済む話。
「“シルヴェリア”――――!!」
間髪入れず、総司が再び究極の一撃の名を告げようとした、次の瞬間。
キィン、という、金属音にも似た不可思議な音。
世界が一瞬止まり、総司の魔力が途切れ、霧散する。ぴたりと総司が止まり、剣を振るう手を押し留めた頃には。
既にカトレアとディオウは遥か彼方に逃れ、そのまま“泡沫の霊殿”から逃げおおせようというところまで駆け抜けていた。
時間が跳んだ。「一コマ飛ばした」ような感覚。早送りが少し行き過ぎたような感覚。カトレアとディオウが射程圏外に抜ける速度が速すぎるが、きっとそれは彼女らが速かったのではない。総司が止まっている時間が、総司の主観以上に長かった。
「……もう、冗談じゃ済まねえぞ」
総司の声は怒りに震えていた。剣を背に収めなおすことはまだしない。
幻想的な“泡沫の霊殿”の中で、総司は怒りに燃える眼差しを、崩れ落ちかけた塔の上へ向けた。
「今度こそ俺が納得するように話すつもりがあるんだろうなァ、レヴァンチェスカァ!」
カイオディウムでは遂に、姿を見せて顔を合わし、話をすることは叶わなかった女神レヴァンチェスカが、崩れ落ちた塔の手すりに腰かけて、総司の火の出るような眼差しを静かに見つめ返していた。
「……ありがとう、ネヴィー。無理をさせるわね」
「構わなくてよ。私もあなたの考えには興味があるから、こうして話が出来るなら安いものね」
ふわりと、総司の前に再び姿を現したのは、森の妖精の如き不思議な存在、おとぎ話の中の守護者・ネヴィー。相変わらず、レヴァンチェスカ以上に見た目に不釣り合いな、落ち着き払った口調と声ではあるが、以前総司と出会った時より、幾分声色が堅かった。
「ギルファウスにも感謝しないとね。こうして疑似的に領域を構築できたのは、彼が財をつぎ込んでこの霊廟を創ってくれたから。それとも、こうなることを見越していたのかしら?」
ネヴィーの深遠な問いかけに、レヴァンチェスカは微笑を浮かべるだけだった。総司が乱暴に剣を向けて叫んだ。
「良いからさっさと降りて来い! エメリフィムでは俺と話す、そうだったよな!」
「落ち着いてくれたらね」
総司が言い返そうとまた口を開いたところで、ネヴィーが総司の元へちょこちょこと駆け寄って、袖をくいっと引っ張った。
「何だ!」
「そう邪険にしないで。ほら、あそこ」
ネヴィーが指さした先は、まっすぐ続く白亜の道の遥か彼方。
総司は怒りを忘れて目を丸くした。
今日まで誰も入れなかったはずの大霊廟の内部を、相棒であるリシアが疾走していたからである。
「ッ……どういうつもりだ……?」
総司がきっとレヴァンチェスカを睨んだ。
これまで、女神レヴァンチェスカがリシアの前にまで姿を現したことはないはずだ。彼女との若干の接触はあったが、総司との会話の折にリシアまで招き入れたことはない。
「無事だったか! 良かった! 怪我は……」
リシアは総司に駆け寄ると、肩を抱きながら傷がないことを確かめたが、ふと気づいた。
やはり、リシアにもきちんと見えている。ネヴィーの姿も、レヴァンチェスカの姿もである。
「……この、お二方は……?」
リシアが茫然とそう呟いて、ようやく総司も気づいた。
そう言えば、聖櫃の森で以前出会った時には、ネヴィーの気配らしきものはつゆほども感じられなかった。生命の気配そのものがないといっても過言ではなかった。
しかし、今のネヴィーからは明確に、森の木々のような溢れんばかりの生命力と、どこか癒される自然の脈動を肌に感じる。レヴァンチェスカは言わずもがな、神々しい気配を纏っていて、尋常ならざる二人であることがリシアにもよく伝わっていた。
「はじめまして、リシア。私はネヴィー、ソウシの友達よ。思ったより早く会えたわね」
ネヴィーがにこやかに自己紹介し、リシアにも駆け寄って笑いかけた。
リシアは言葉が出ず、ただ頭を下げるばかりだった。そして、遂に。
「我が騎士もそうだけど、あなたも見違えたわ、リシア。久しぶりね」
「……女神さま……!」
女神レヴァンチェスカと、その騎士の相棒たるリシアが、顔を合わせて会話をする初めての瞬間だった。リシアはパッと跪き、頭を深く下げた。
「お初にお目に掛かります……! お会いできて、その、何と申し上げればよいか……!」
「良いのよ、仰々しい真似はしないで。レブレーベントからここに至るまで、我が愛する騎士があなたにどれほど助けられたか、もちろんよく知ってるわ。けれどまだ、あなたと会うつもりはなかった……」
レヴァンチェスカは少しだけ目を細めて、仕方なさそうにため息をついた。
「あなたの仕業ね、ネヴィー」
「公平じゃないもの」
ネヴィーは涼しい顔で、冷静に言った。
「彼女には聞く権利がある。それにほら、ソウシを落ち着かせるには、これが一番でしょ?」
総司はしばらく、まだ納得のいかない様子で肩を震わせていたが、確かにリシアがこの場に来たことは効果があった。
剣をガン、と突き立てて、腕を組み、ひとまずは落ち着きを取り戻した。
「……そうね。良いわ」
レヴァンチェスカがふわりと舞った。
また時間が跳んだ感覚に襲われたかと思うと、レヴァンチェスカは総司たちと同じく「橋」の上に降り立っていた。
ギルファウス大霊廟は、決して「かつて女神の領域と接続できた場所」ではない。レヴァンチェスカの思念が顕現できたのは、ひとえにネヴィーの努力によるものだ。
どうやら超常の存在として互いに顔見知りらしいレヴァンチェスカとネヴィーの間で、何らかの取り交わしがあったらしい。ネヴィーはレヴァンチェスカの顕現を手助けし、レヴァンチェスカは総司の前に姿を現した。
逆を言えば、これまでの法則を捻じ曲げてでも、今総司の目の前に姿を現さねばならなかった――――そうまでしてでも、総司がカトレアを殺すことを、レヴァンチェスカは止めなければならなかった、ということである。
「……何で止めた。殺せていたはずだ」
「そうね。あの子たちでは、今のあなたの相手にならない」
総司をこの場に引きずり込んだのはカトレアである、と想定していたリシアは、短い会話の中で全てを察した。
「……やはりカトレアとこの場で戦ったんだな」
「そうだ」
総司が厳しい顔のまま頷いた。
「そして仕留める直前に割って入られた。ネヴィーも、もうちょっと待ってくれても良かったろ」
「あら、私?」
八つ当たり気味ではあるが、総司の心中をいくらか察しているネヴィーは、気を悪くした様子もなく笑顔で答えた。
「そうね、多少は待てたかもしれないけど、この場で殺さなかったことも間違ってはいないと思うわ。あなた、無理やり覚悟を決めたのでしょう。それはそれで立派だし、必要なことでもあるのだけど……多分、後悔するわ」
「それも織り込み済みだったんだ」
総司が言うが、ネヴィーは首を振る。
「わかってるのよ、そんなこと。言ったでしょう、それも必要なことだって。感情を押し殺し、その責任を背負う覚悟で決断したあなたの選択を認めていないわけではないわ。あなたは簡単な選択に飛びついたのではない、いろんなことを考えて決断した。それ自体を否定するつもりはないの。けれど、より良い形での決着の可能性だってある。どうあれ取り逃がしたのだし、そっちを模索するのもいいんじゃない?」
「……軽々しく言ってくれるぜ……出来りゃ苦労はしねえけど、向こうにその気がねえんだからどうしようもねえだろ!」
いい加減、カトレア関連については考えるのもうんざりしていた総司が、捨て鉢に言った。
「俺だって殺しなんざしたかねえよ! 斬らずに済むならそれに越したことはねえに決まってる! でも、これまでとは事情が違うんだよ!」
総司が本音をぶちまける。レヴァンチェスカは、眉一つ動かさない。
「これまで何とかしてこれたのは、これまでの相手が心から俺に殺意や敵意があるわけじゃなくて――――それぞれが誰かのことを想って、それぞれの正義で戦おうとしていたからだ! うまく言えねえけど、これまで俺に必要だったのは、叩き潰して“排除する”ことじゃなくて――――アイツらに道を譲ってもらうことだった! いろんなことを諦めてもらうことだったんだ! でもカトレアは違うだろ!」
ネヴィーが総司の旅路の詳細をどこまで知っているかはわかったものではないのだが、総司はネヴィーに向かって自分の胸の内を吐露していた。そしてネヴィーは、穏やかに総司の慟哭を聞いていた。
「アイツがやろうとしてることを全部知ってるわけじゃねえけど、少なくとも俺の妨害をしようとしてる! それはつまりリスティリアを脅かすってことだ! それなのに――――」
「ソウシ」
そんな総司に、リシアがいつも通り声を掛ける。総司の返事もいつも通りだ。
「ッ……わかってる……!」
「……さて」
コホン、と咳ばらいを一つ。リシアは、この場にいる「普通のヒト」がそう言えば自分だけなのだという事実に気づかないふりをして、努めて冷静に話を切り出した。
この場で自分が仕切るというのは不敬極まりないと思いつつも、他の誰かがまとめてくれる雰囲気でもない。それに総司が冷静でいられる可能性が一番高いのは、リシアが話をまとめている間、というのは間違いない。司会役に相応しいのはリシアしかいないのである。
「女神さま、恐らく様々なお考えがあるのでしょうし、それは我らに推し量れるものではありませんがしかし……ただ“女神さまのお導きのままに”というだけでは、納得しがたいことがあるのも事実です。僭越ながら此度のことも、これまでもです」
「……もちろん、そうでしょう」
「お時間の許す限り、女神さまのお考えをお聞かせ願いたい。知りたいことはたくさんありますが、とにかくまずは此度の……どうやらカトレアとの対決は首尾よく、ソウシの勝利で運びかけたようですが、それを女神さまが止められたということについて。少なくとも、私はソウシと同じ考えを持っています」
リシアは、多少の疑念を抱きつつも、やはりリスティリアの民として敬愛を念を抱くレヴァンチェスカに対し、出来るだけ失礼にならないよう言葉を選びながらも、聞くべきことを単刀直入にぶつけた。
「カトレアは我らの旅路にとって脅威でしかありません。どのような画策をしているのであれ、我らにとって利となる可能性は限りなく低い」
「これまであなた達が見てきたものを考えれば、そう見えるでしょう。けれど、リシアが今言った通り、あなた達はあの子のことを“何も知らない”。そうね、一言で言うならば――――」
レヴァンチェスカは一瞬だけ間を置いて、総司をまっすぐに見つめて言った。
「何も知らないままあの子を斬れば、総司が抱えることとなる後悔は、総司の覚悟を遥かに上回るものになる。だから止めたの。それ以上の理由はない」
「……俺のためだったとでも言いたいのか、テメェ……!」
「責任転嫁のつもりなんてないわ、誤解しないで」
総司がにわかに怒りを再燃させたので、レヴァンチェスカが重ねて言った。
「あなた達は知らなければならない。そして知ったうえで、もう一度同じ結論を導き出すのか考えるべきなのよ」
「なら今教えろ。カトレアが抱える事情ってのは何だ」
「自分で辿り着いてこそ意味があるわ」
どうにも、ティタニエラからだろうか、レヴァンチェスカの一言ひとことは総司の神経を逆なでするようで、また殺気立った総司の胸のあたりを、リシアが腕でがっと押さえた。
「カトレアをこの場で取り逃がしたことが、更なる災厄に繋がるかもしれないというのはご存じですか?」
「……ええ」
カトレアがやろうとしていることも恐らく把握しているレヴァンチェスカが、リシアの問いかけに肯定の意志を示した。
「それがひいては我らの敗北に……女神の騎士の敗北に繋がるかもしれなくとも。今この場でカトレアの排除をしなかったのは、正しいと?」
「……言いたいことを言って良いわ」
「不確実な未来と不確実な根拠のために、ただでさえリスティリアのため、身を削ってくれているソウシが不要な危険に晒されるのだとすれば、私は女神さまのご意見に賛同するわけにはいきません」
リシアはレヴァンチェスカの目をまっすぐ見つめ、強く、ハッキリと、言い切った。
「私は他の生命と同じく、あなた様の忠実なるしもべでございます。しかしながら今はその前に、この男の相棒であり、この男の味方です。そして私は、この男の“強さ”を知っている。元から強かったわけではない心を、歯を食いしばって奮い立たせることが出来る男だと知っています」
リシアの高い評価に、総司の怒りもいくらか収まり始めていた。現金なものではあるが――――きっと今、リシアは総司以上に、総司のために怒っていて、それを何とか押し留めて冷静に話をしてくれている。その事実が、総司の毒気を抜いた。
「あなたが仰った“想定以上の後悔”も、この男ならば乗り越えるでしょう。私もどんなことになろうともソウシを支えて見せる。申し訳ありませんが今のご説明では、この男の重く辛い決断をないがしろにするほどの価値を見出せない。エメリフィム城に戻り次第、ソウシと共にカトレアを捜索し、今度こそ討つ。ソウシが後悔するというならせめて、私が彼女を討ちましょう」
ネヴィーの表情が驚きに染まり、レヴァンチェスカが目を閉じた。
「……やはり」
レヴァンチェスカがふと漏らした声は、リシアにとっては信じがたいことに。
リシアに対する惜しみない賛辞が滲んでいた。
「総司の旅路にあなたが付いてきてくれたことは、本当に……これ以上ないほどの巡り合わせだったようね」
レヴァンチェスカは苦笑し、腕を組んでため息をついた。そこから先のちょっとおどけた口調は、これまでのレヴァンチェスカからするとむしろ、総司と二人きりだったあの頃の彼女に近い雰囲気だった。
「なんだかんだ、総司一人なら丸め込むのも簡単だと思ってたのに。ネヴィーのせいよ。どうしてくれるの」
「あら、また私?」
「オイ頼むリシア離せ一発だけ殴らせろ……!」
「本音じゃないんだ、わかるだろう……! ようやく話がついたのだから落ち着け……!」
「降参よ。ちょっとだけ情報を与えるわ。それで手打ちにしてちょうだい」
「ほらまだあんなこと言ってる! 殴らなきゃわからねえんだよアイツは!」
「良いからお前は座ってろ!」
リシアが厳しく言って総司を無理やり座らせて、リシアがふうと息をついた。
「では、女神さま――――」
「カトレアはルディラントにゆかりがあるの」
レヴァンチェスカがさらりと、単刀直入に言った。