受け継がれるエメリフィム 第二話⑤ 喜ばれざる”獣”の目覚め
そこから先の会話は、実に不思議な感覚だった。
視覚と聴覚以外で実在を確信できない、幻のようなネヴィーなる少女と「会話」に入った途端、今度は総司を“逆”の感覚が襲う。
相変わらず気配そのものが全く感じられないネヴィーではあるが、今度はネヴィーの声と表情以外の、一切の情報が掻き消えたようになった。
総司は、自分で意識していないにも関わらず、過剰なまでにネヴィーに集中しており、そのほかの一切に注意を向けることが出来なくなったのである。
彼女との会話、その内容以外の全てが、総司の感覚から排斥される形容しがたい感覚。不自然だが、それを不自然だと警戒することすら許されず、ただ彼女と語らうことにのみ意識が向けられる、強制的な集中状態。
周囲の時間が止まっていなければあまりにも無防備なその感覚はしかし、ネヴィーの言葉を一言一句漏らさず認識するという意味ではこの上ない環境でもあった。
「私の力は、女神ほど強くはないの。だからさほど時間もない。要点だけ話すわ」
「君がどういう存在なのか聞く暇もないってことか」
「ええ。きっとエメリフィムにいる間に、私のことは耳にするでしょうから。そうね、あなたにわかりよい言葉で言えば、“千年前を良く知る存在”と思ってちょうだい」
「……わかった」
「物分かりが良くて助かるわ。重要なことは一つだけ。“獣”の目覚めが近づいているの。とてもよくない、世界にとっての災厄。しかも悪いことに――――目覚めが近づいている“獣”は二体いて、うち一体の目覚めは本当にもう、すぐそこまで迫っている。もう一体も脅威だけど、この場では差し迫った一つについてだけ話すわね」
極度の集中状態にある総司の脳裏に、容易くキーワードが浮かんできた。
「“怨嗟の熱を喰らう獣”……」
「よく知っているのね。そう、彼女の目覚めが最も近い。遠くないうち、エメリフィムでかの“獣”は目覚め、大いなる災厄となって世界を脅かすでしょう」
「“怨嗟の熱を喰らう獣”とは、つまり何なんだ? その名前はエメリフィムに来る前に聞いた。“忘却の決戦場”にその“獣”の痕跡が残っていたんだ」
「 “感情”を喰らう獣、意志ある生命の“怨嗟”を糧に力を増す――――意志ある生命の『負』の側面を凝縮し増幅する存在。あなたが見たのは“怨嗟の蒼炎”ね。千年消えることのない怨嗟がそこにあった。あの場所で潰えた生命の怨嗟が、千年もの間残り続けていたの」
「……答えになっているようで、なってないが」
「あら。ごめんなさい、確かにそうね。わかりやすく言えば、彼女の本質はあなたに似ているわ」
ネヴィーは目を細め、総司をまっすぐに見て、言った。
「“怨嗟の熱を喰らう獣”とは即ち、高位の魔法使いによって精霊を下界に落とし込み、使役された『召喚獣』。あなたが女神レヴァンチェスカによって召喚されたようにね」
「だとすれば」
不可思議な空間の中で、総司の頭の回転は異常に早かった。
「“召喚するヤツ”がいるってことだ」
「そう。そしてもう、止められない段階まで来ているの。召喚自体は恐らく完遂される。たとえ召喚者を失おうとも、“獣”の力は十分に高まってしまっている。もともと自律が可能な存在を、召喚者が制御すると言った方が正しいわ」
「……俺が来るのが一歩遅かったのか」
「ええ。救世主とは基本的に遅れてやってくるもの、皆が絶望の淵に立たされた時にしか輝けない存在。あなたもその例に漏れないのね」
「悪かったな……」
「冗談よ。あら、私が時間を無駄にしてしまったわ」
「それで、俺はどうすればいい」
「召喚を止めることが出来ないなら、あなたは“怨嗟の熱を喰らう獣”を撃破するしかない」
「……どうしてそれを、俺だけに話すんだ?」
総司が当然の疑問を口にした。
「他の皆はともかくリシアは俺の相棒だ。俺がその“召喚獣”と戦うって言うなら、必ずアイツも並び立ってくれる。そしてリシアの力はきっと、撃破する上で助けになるはずだ」
「ええ。彼女とは共有してくれて結構よ。これも時間を無駄にしないための方策、二人から矢継ぎ早に質問が飛ぶのでは、話したいことが話しきれないかもしれなかったから」
「……なるほど。じゃあ、他の皆に話さないのは?」
「発端は間違いなくエメリフィムにあるけれど、召喚が達成されるとすればこれは“エメリフィムの問題”ではなくて、“世界の問題”、“世界の脅威”。かの“獣”はエメリフィムの敵ではなく“世界の敵”であり、すなわち――――」
「俺の敵、俺の役目。なるほど、理解した」
総司は迷いなく頷いて、力強く言った。
「リスティリアを救ってその先を見たい俺にとって、必ず倒さなければならない相手。引き受けた。“怨嗟の熱を喰らう獣”は、俺が討伐する」
「私の言葉が真実かどうかを確かめる必要はないの?」
「君の言葉が真実かどうかは、確かめるまでもなくもうすぐわかるんだろ」
総司がそう返すと、ネヴィーは感嘆したように声を漏らした。
「……あなたは肉体労働派なのだとばかり思っていたわ。普段は相棒に甘えすぎなだけなのね」
「うるせえなオイ。何で知ってんだ」
「私は多くのことを知っているの。もちろん、知らないこともたくさんあるけれど。いけない、時間だわ」
空間が揺らぎ、総司の意識が、過剰な集中が途切れた。
まだ時間は動いていないが、感覚的に「そろそろ時間なのだ」ということが理解できる変化だ。
「最後に一つだけ――――“獣”の名は“レナトゥーラ”。かつて『――――』が無理やり……えっ」
総司がハッと目を見張った。それまで淡々と語っていたネヴィーが意外そうに目を丸くして、自分が「言葉を発することができない」事実に驚愕していた。
「……何故……? どうして、こんなことをするの……? 理解できないわ、ねえ、彼に“これ”を伝えることは、あなたの――――」
ざあっと、強い風が吹き抜けて、ネヴィーの姿を淡い緑色の光と共にさらっていく。
時間が動き出し、刀を構えたトバリが総司の眼前にすぐさま迫った。
「おおう! なんだなんだ!」
トバリが刀を振り抜こうとして、総司のすぐそばでぴたりと止めた。
トバリにとっては、彼女だけが何とか捕捉出来た正体不明の何かが、知覚できていない総司に突進した感覚があって、それに対して刀を振るおうとしたというタイミングだ。
「……おや」
ふわりと消えた、トバリだけが感じ取っていた何か。すなわちネヴィーの「気配」とも形容しがたい存在の可能性。トバリはきょとんとして、刀を引っ込めた。
「気のせい……でしたか」
「滅茶苦茶怖かったぞ……」
トバリは納得こそしていないものの、差し迫った脅威が存在していない以上は、何も行動しようがなく。総司に非礼を詫びて、殺気だった気配を引っ込めた。
「皆さま、驚かせて申し訳ありません。特に何事もないようで」
「全く……ホントにびっくりしたわ」
シドナがほっと息をついて、庇おうとしたティナから離れた。総司だけが知る「何事か」については、この場では言及しないまま、リック族の元を目指す旅の一日目が穏やかに過ぎていった。
聖櫃の森の中心部には、森の中にあるとは思えない、機械仕掛けにすら見える石造りの「霊廟」がでんと鎮座していた。
巨大も巨大、森の木々がなければ王都からでも視認できそうなほどの雄大なるピラミッドのような建物である。白銀に輝くそれは莫大な魔力を発散しているが、生命力あふれる木々に囲まれているおかげか、総司もかなり近づくまで霊廟の存在を感知できなかった。
二日目の朝に辿り着いた「霊廟」は、ティナ曰く。
「“ギルファウス大霊廟”……森の命の代弁者、“泡沫のネヴィー”が眠る場所とされています」
総司が目を見張り、巨大な木の枝の上から霊廟を見つめる。
“私のことは耳にするでしょうから”
ネヴィーはそう言っていたが、まさか半日でその名を聞くことになろうとは。ティナは目を閉じ、霊廟に向かって祈りを捧げていた。
「遠い昔――――生命を根絶やしにする熱を齎す蒼き炎が燃え盛り、植物は朽ち、動物は死に絶え、この大陸は死の大地へ成り果てようとしていました。そんな絶望の最中、この森だけは、泡沫のネヴィーの力によって死が迫る現実との間に境界を引き、エメリフィムの大地を護り抜いた」
ティナが語るのは、エメリフィムに伝わるおとぎ話だ。
「女神様の福音が下界に舞い降り、災厄が払われる頃には、ネヴィーはすっかり力尽きてしまって、永い永い眠りに落ちた……後にエメリフィム王家となる私の先祖は、大恩人であるネヴィーがせめて安らかに休めるよう、かつて王家の城のあったこの場所にネヴィーの寝床を作ったと言います。ギルファウスの名は当時の王の名を取ったとのこと。この霊廟こそが、ネヴィーが眠る不可侵の寝屋……という、言い伝えです」
ティナがふっと笑った。
「父ですら、霊廟の内部に入ることは出来ず、ネヴィーと会うことも、その姿を見ることも出来なかったと言います。おとぎ話、子供が寝る前に読み聞かせる童話の類ではありますが……しかしきっと、何か実際に起きた事件があって、それが童話のように改変されたものなのでしょう。霊廟が実在する以上は、創られるきっかけとなった何かが大昔にあったのでしょうね」
「大昔ってのは、どれぐらい前のことなんだ?」
「聞くところによると千年ほど前とか……そこは定かではないようですが」
ティナの言う通り、伝わっている話は童話の類に近いだろうが、しかし先王アルフレッドも会えなかったというなら、もしかすると。
ごく最近、彼女の語る“怨嗟の熱を喰らう獣”レナトゥーラの目覚めに呼応して、彼女もまた目覚めたのか、それとも総司が来たことで存在を顕わにするつもりになったのかというところだろう。ネヴィーは確かに存在し、恐らくはこの中にいて、世界の変化を、好ましくない目覚めを控えている“獣”の脅威を感じ取った。
ティナが語る童話の内容をそのまま理解するわけにもいかないが――――ネヴィーは千年前、レナトゥーラと敵対したのかもしれない。彼女が語った「千年前を良く知る」とはそういう意味だろうか。
童話によれば、女神レヴァンチェスカの福音によって脅威が払われた。これはリスティリアの勧善懲悪的な物語ではありがちなオチではある。
ネヴィーは抵抗こそしたものの、レナトゥーラを打倒するには至らなかった。そんな歴史がにわかに見えるように思う。何か他のきっかけがあって、レナトゥーラは最終的に「目覚め」の時まで封印された。そんな粗筋を、総司は勝手に脳裏に思い浮かべていた。
ヴィスークが言っていた。蒼き炎が燃え広がらないところを見るに、怨嗟の熱を喰らう獣は死んだか封じられたかしたのだろうと。何となく、あの魔獣とネヴィーについての童話が繋がったように思えた。
「……任せろと言いたいが、現段階じゃあ、わからないことだらけだ」
総司はそっと呟いた。
「まだまだ君の助けがいると思う。よろしく頼むぜ」
『出来ることはするわ。そう多くはないのだけどね』
穏やかな風に乗って、あの幼くも落ち着き払った特徴的な声が聞こえた気がして、総司は思わず微笑んだ。