受け継がれるエメリフィム 第二話④ 森での邂逅
エメリフィム王都フィルスタルの北部に向かって、まず最初にぶつかる難所が『聖櫃の森』である。
常識外の巨木が折り重なるようにして連なり、木々が漲らせる自然味溢れた豊かな魔力が、淡い緑色の光を伴って周囲をふわふわと漂う幻想的な森林だ。
木の根が大地のように巨大で、踏みしめるだけで強靭な生命の脈動を肌に感じられる。エネルギーに溢れた空間は、各国の“聖域”とはまた別の意味で神秘的で、魔力も酸素も濃い空間が体に清涼な感覚を与えている。
高すぎる魔力はえてしてヒトに害となるが、聖櫃の森の魔力は「程よく濃い」。日常的に魔法を使う者が心地よさを感じる程度の絶妙なバランス。きっとヒトに限らず多くの生物にとってそうなのだろう。わずかに発光する木々の合間は生命の気配に溢れている。来訪者からは姿が見えないだけでそこら中から、ここに住まう生物たちが突然の来訪者の様子を窺っている。
王女ティナを筆頭に結成された“リック族との折衝部隊”が聖櫃の森に着いたのは、昼を回ったところだった。
ジグライドの言う通り、ティナは「戦士」としての性質が強い他の面々の疾走に、見事に付いてくることが出来た。当然、全力で走ったわけではなかったが、それでも普通なら置いてけぼり間違いなしの速度である。“女神の騎士”としての力を差し引いてしまえば、総司よりもよほど魔力制御の才能に富んでいる。
木の根の間を縫うように流れる小川を見つけ、一行は昼食を摂ることにした。唯一の男手として荷物持ちを務めた総司が、ジグライドに持たされた野営食糧を皆に配って、一息つく。
「――――森を抜けた更にその先だったな?」
「ええ。夜に動くのは危険だし、抜けられるのは明日ね」
小麦の味しかしない味気ない野営食糧をガリっとかじって、シドナが総司の言葉に答えた。
「……相変わらずまずいわ」
「夜は多少、手の込んだものを作りますから。我慢してくださいね、シドナ」
ティナが笑顔で言うと、総司が慌てて、
「そういうわけには。俺達で何とかしますので」
「気を遣わないで。私にも畏まらなくて良いですよ、ソウシ。普段の態度の方が私の好むところ。父が生きていたら、きっとあなたを気に入ったでしょう」
ティナはにこやかに言った。
「アレイン王女もあなたのことを気にかけておられる様子……“騎士見習い”と書かれていましたが、とてもそうは思えません。レブレーベントで、いろんなことがあったのでしょうね」
「いろんなことって言うか……」
アレインとは本気で戦った仲である。単なる「王女と騎士見習い」の関係性ではないのは確かだ。アレインが今、総司個人をどう思っているかはともかく、彼女は少なくとも“女神の騎士”の使命を支持しており、その旅路の完遂を期待している。
「まあ、そう、いろいろあった。気楽にしていいならそうするよ」
「はいっ」
休憩も程々に、一行は巨大な樹木が立ち並ぶ森へと踏み入っていく。
決して暗い森ではなかった。明るい日の光が差し込み、鮮やかな緑色の光景を際立たせる。
一行はそんな森の中を、木々の根や枝を踏み下してすさまじい速度で駆け抜けていった。途中、一瞬だけ敵対しかけた魔獣の群れも何とか直接的な戦闘をせずいなすことに成功し、今日の旅としては非常に順調に進んだ。早ければ明日の昼までには森を抜け、ケレネス鉱山へ続く荒野へ、リック族の領域へ入れるだろうという位置まで辿り着いた。その頃には日が落ちていた。
道中、たわいもない話を重ねて多少は仲良くなった総司とティナは、夕食を作ることとなり、その間、トバリは周囲の見張りを、リシアとシドナは簡易なテントのくみ上げを担当することとなった。
ティナは本当に「どうしてなのか」と問いたいところだが、野営には随分と慣れているようで、段取りによどみがない。意外にもこういう「アウトドア」チックな動きが得意だったミスティルを彷彿とさせる手際の良さである。シドナは当然としても、王女であるティナがサバイバルに慣れているのは違和感しかなかった。
「――――美味しそうですね」
トバリが料理の匂いにつられたか、ふらりと二人の元に戻ってきた。
「見張りはどうしたんだよ」
「特に気配もありませんし、多少脅威になりそうな実力を持つ者であればむしろ、ここに近づくのはきちんと避けるでしょう」
そっと総司の傍らに座り、トバリがくすくすと笑った。
「あなたの戦いが見れないのは残念ですが、その時も近そうですね」
「……何か感じ取ったか?」
「いいえ、ただの個人的な予感です」
トバリは意味ありげに目を細める。
「あなたはそういう星の下にいる。あなたがリック族の元へ辿り着くことが必ず何かの引き金になる。いいことか悪いことかまではわかりかねますが」
「不吉なことを言う……」
トバリが付いてきたのは当然、王女ティナへの忠誠心からではない。彼女が興味を持った総司という存在の傍にいれば、トバリの主観で言う「面白いこと」が起こる可能性が高いと踏んだからである。
もちろんリズーリの思惑もある。タユナ族の独自の魔法通話で、総司たち一行の動きを掴むためだ。総司と共に行動したいトバリに対して、リズーリは交換条件として、決して魔法による通信を拒否しないことを約束させた。
「トバリも一緒に来てくれてありがとう。とても心強いです」
そんな思惑を知ってか知らずか、ティナが邪気のない笑みで言う。トバリは真意の読めない笑顔で頷いた。
テントの設営も終わり、五人は夕食を摂った。ティナお手製の野菜クリーム煮込みは絶品で、ますます王女らしからぬ特技だと感嘆せざるを得なかった。
「――――私のわがままに付き合ってくれて、ありがとうございます」
食事も一旦落ち着いた頃合いで、ティナがそう切り出した。
「わがまま?」
総司がきょとんとして聞くと、ティナは笑って、
「リック族の元へ私も行くと言ったのは……もちろん、その方が交渉が有利に運ぶだろうというのもありますけれど……何より、父がそうしていたからなんです」
昔を懐かしむように、そう語る。
「父は定期的に城を抜け出しては、一人でリック族の元へ行き、帰りには必ず何か手土産を持ち帰ってくれました。ですから私は、リック族はとても友好的な種族なのだと……けれど、父が倒れてから四年、話が出来たことは一度もありません」
シドナが悲しげな表情で、ふと目を伏せた。
しかし、ティナの顔は決して悲愴にくれてはいなかった。
「父は私の憧れであり、追いつきたいヒト。現状がどうにもならないのならばせめて、父と同じことをしてみたかった。私は父とは違って、一人でリック族の元まで行くことは難しいので……」
もともと母親を失っていたところに、四年の歳月が経ったとはいえ父をも失い、残されたのは荒くれ者の多いエメリフィムの、あまりにも重い王位継承権。背負うには巨大過ぎる重責。ティナがその小さな体で支えているものは、あまりにも多く、重い。
それでもなお前を向くティナの精神性には感嘆せざるを得ない。決して背中を見せることなく、在りし日の父、その憧れの背中に少しでも追いつこうと、出来ることを懸命に探している。先王アルフレッドは、話の中で名が上がるにつけ相当偉大な王だったようだが、ティナはそれを理由に「自分には出来ないから」と逃げ出していない。
強い。それがたとえ、虚勢や強がりであったとしても。
今この場にティナがいることが、彼女の強さの証明だ。
「ジグライドもきっと、だから許してくれたのでしょうね。彼はなんだかんだで優しいから」
昨日リシアがジグライドに語った通り、国内の情勢とティナの安全性を第一に考えれば、ティナをリック族の元へ行かせるという判断は褒められたものではない。
ジグライドはティナの言葉が絶対であるように言っていたが、彼も本心ではティナの好きにさせてやりたいだけなのだ。ただ、それが叶う条件が整うのが、相当厳しいというだけのこと。
大人数でリック族の元へ向かうことは、彼らに無駄な警戒を抱かせる。だから兵団を組織して大仰に、ティナを送り込むのは避けたかった。人数が多くなればそれだけ他の種族に――――殊更“ヴァイゼ”に悟られて罠を張られる危険性も高まる。
シドナに加えて、アレインの手紙で身分を一応は担保された総司とリシアも護衛に付けるし、どうやら今のところは味方と考えていいトバリまでつけることが出来た。この状況を鑑みて、昨日の会話で総司とリシアへの信頼を自分自身でも確かめたうえで、ジグライドは最終的に「強引な解決方法」を取らなかった。きっと彼も心の内では、ティナの望みを叶えたいと思っていた。
ティナの口ぶりは、そんなジグライドへの信頼も滲んでいる。
「……ちゃんと、腹割って話せるといいな。なに、話の流れは俺にはどうしようもねえが、身の安全は任せろ」
「ええ、よろしくお願いします。ところで、トバリ――――トバリ?」
ティナがふと話題を変えようと、トバリに目を向けて、きょとんとした。
トバリはティナを見ていない。どころか、この場にいる誰にも視線を向けていない。
トバリの視線は鋭く木々の合間を走り、彼女にしか見えていないらしい「何か」を追っている。
トバリの様子がおかしいのを見て、総司も意識を集中したが、しかし「何も感じない」。
魔力の波長も、何か敵対的な「生命」の気配も、何も感じないのである。察知能力に優れた総司が集中しても、トバリが警戒を露わにする何かを察知することが出来ない。
「……来る。狙いは――――」
トバリが呟いた。
そして次の瞬間。
淡い緑色の閃光が、一行のど真ん中を鋭く横切って――――時間が、止まった。
総司以外の四人の時間が、完全に止まっている。
何に警戒すれば良いのかわからず、ただ剣に手を掛けているだけのリシア。同じく正体不明の脅威に対し、せめてティナだけは護ろうとティナの傍に身を置いたシドナ、最も警戒していたはずのトバリ。そして、料理の入った器を手に、きゅっと表情を引き締めているティナ。全員の時間が止まって、総司だけがそれを認識していた。
この感覚に覚えがあった。もう遠い昔のことのように思ってしまうが、レブレーベントで同じことがあった。
シルヴェリア神殿に辿り着き、“レヴァンクロス”まであと一歩と迫ったところで、世界の光景はそのままにリシアの時間が不自然に止まったことがあった。感覚としてはそれに似ているが、しかし、今回はレヴァンチェスカではない。
女神レヴァンチェスカによる総司への干渉だとするなら、彼女の気配が微塵も感じられないのはおかしい。女神の特有の魔力が一切感じられず、あの妖艶で美しい声もない。
代わりに総司の耳に飛び込んできたのは、幼さの残る、可愛らしい――――それでいて妙齢の女性であるかのような落ち着きと聡明さを感じさせる、独特な声だった。
「タユナの子はとても優秀なのね。私のことは、“感じ取る”ことなんて出来ないはずなのに」
確かに声がするのに、“彼女”の言葉通り、総司には未だ声の主の気配を察知することが出来なかった。
しかし、姿は見えている。それが何より不自然だ。
総司は間違いなく、今目の前に幼い少女の姿をした、正体不明の誰かがいることを認識している。まさしく「森の妖精」然とした、淡い緑を基調としたドレスに身を包む、十歳かそこらの幼い女の子。醸し出す雰囲気は人間離れしていて、ヒト族とも亜人族とも思えない。魔獣でもなく、かといって女神に近しいわけでもない、不思議な存在。
緑と銀が入り混じりメッシュのようになっている、独特な長髪を何か植物のツタのようなものでポニーテールに結んだ少女は、総司に向かって微笑んでいた。
「驚かせてしまってごめんなさい。敵対の意志はないわ。あなたがこの森に来てくれた今しかないと思って」
少女は手を胸に当て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……俺の声は聞こえてる、のか?」
「正しい感覚ね。安心して。幻みたいに思えるのでしょうけど、私は確かにここにいて、あなたの声は聞こえてる。少しお話しできるかしら」
会話も成立しているのに、総司は未だ、自分が「誰かと会話をしている」ことに自信が持てずにいた。
全ての生命は、たとえ意志ある生命でなかろうとも何らかの気配を発している。気配に敏感な総司は、リスティリアに来てから特にそれを感じ取っていて、直感的に理解していた。
そして目の前にいる“はず”の少女からは、そういった「気配」と呼べるものが未だ微塵もないのだ。“女神の騎士”としての総司はどうやら、リスティリアに来てからは視覚が得られる情報以上に自分の「察知」によって相手の存在、力量、敵意の有無の情報を得ていたらしい。それが全く役に立たないだけで、目の前の光景が信じられなくなっている。
「……話をする前に、互いの理解が必要だ。俺はソウシ。君は?」
「あら、礼儀正しいのね、ソウシ。名乗られたからには、返さないとね」
少女はにこやかに笑ったまま、名乗りを上げた。
「私はネヴィー。けれど覚えなくても良いわ。私としてはあなたと仲良くしたいけれど、そうそう会う機会もないでしょうから」