受け継がれるエメリフィム 序章② 消えぬ怨嗟の蒼炎
“忌まわしき谷”と呼ばれる「深く巨大な地割れ」が、カイオディウム最北端に存在する。
レブレーベントとの国境をわずかに超える位置にまで続く巨大な亀裂であり、山と山の間の低地を指す「谷」というよりは、断層によって生じた谷という意味合いの方が近い。
レブレーベント及びカイオディウムが存在する大陸からエメリフィムへ渡りたければ、まずはこの谷を越えなければならない。
“忌まわしき”という形容詞の由来は、亀裂の奥底に滞留する魔力が近くを通る生物へ言い知れぬ脅威を覚えさせることと、強力な魔獣を呼び寄せている事実に起因する。谷底に潜む魔獣は、千年もの間滞留する凶悪な魔力を食らい、魔獣自身もまたその魔力を増大させることで、凶暴性の循環が生まれている。
そう――――橋を架けるほどに巨大なこの亀裂は、決して自然の営みによって生じたものではないのだ。
「千年前、ロアダークとゼルレインの激突の時に生み出された、最終決戦の“爪痕”。ヘレネ様の手記にはそう記録されている」
「これが……」
カイオディウムの為政者、フロル・ウェルゼミットによってもたらされた情報をもとに、まっすぐエメリフィムを目指すのではなく、少し道を逸れた先にある“忘却の決戦場”を目指すこととなった総司とリシア。
地図上では「何もない」広々とした土地としてしか記されていないが、間違いなく目的地へと続いているであろう巨大な目印がある。
一体、どれほど強大な力がぶつかり合ったら、地形を変えるほどの事態になるのだろうか。一国を両断する破壊の規模は、総司とリシアがカイオディウムで挑んだ“ラーゼアディウム”の撃墜とはとても比較にならない。
ゼルレインは、レブレーベント王女アレインの先祖である。つまりは伝承魔法“クロノクス”の使い手だ。
ロアダークは、カイオディウムの聖職者であり聖騎士団員であるベル・スティンゴルドの先祖。伝承魔法“ネガゼノス”を操る魔法使いだったはず。
となればこの爪痕は、恐らく“クロノクス”の真髄である“ゾルゾディア”と、“ネガゼノス”の真髄である“リベラゼリア”の激突によるものだろう。大きさは計り知れないが、あの強大な力同士が全力でぶつかり合う様を想像するだけでも恐ろしい。しかも千年前の使い手たちは、現代の使い手よりも数段上の完成度を誇っていたに違いないのだ。まさにこの世の終わりじみた戦いが繰り広げられたことだろう。
“忌まわしき谷”に沿って歩き、途中何体かの魔獣を撃破した。流石にレブレーベントで相対したブライディルガや、カイオディウムで戦ったリンクルのような戦闘力を持つ魔獣はいなかったが、どれも一個体が強力だった。エメリフィムへのルートからは外れた、ヒトが好んで踏み入ることのない道なき道である。誰も近づきたがらないのは正解だろう。総司とリシアでなければ、何度首が飛んでいたかわかったものではない。
谷底に眠る濃度の高い魔力が魔獣をこの場所に惹きつけている。それ故に、カイオディウムは平和でいられる。
やがて、二人は辿り着く。
高濃度の魔力が、例えるならば「人魂」のように光の粒となって空間を満たす、忘れ去られた遺跡。
青銅色の鉱物で形作られ、無残に破壊し尽くされた古代の遺跡には、ヒトや動物、魔獣はおろか、植物すらも存在しない。
小さな都市だったのだろう。神殿や大聖堂のような重厚な造りの建物が崩れた様とは思えなかった。小さな家屋だったはずの建物が残らず破壊し尽くされ、物悲しく横たわっている。シンと静まり返ったこの場所では、自分の息遣いすらかなり大きな雑音に思えた。
“忘却の決戦場”ロスト・ネモ。千年前、ゼルレイン・シルヴェリアとロアダークが激突し、ロアダークの野望が潰えた場所。
不可思議な蒼い炎が揺らめいていた。燃える材料もないだろうに、そこかしこで小さく燃え盛る蒼き炎は、見るだけで寒気を覚えるほどの、底知れない不吉さを湛えている。
総司は瓦礫の一つを椅子代わりにして、その場に座り、静寂な瞳で遺跡を眺めた。
総司の傍らに立ち、リシアもまた、物悲しすぎる遺跡へ、千年前の戦いへ想いを馳せる。
「流石というべきか……枢機卿猊下の予想は的中したな」
リシアが、そこかしこで小さく燃え続ける、不思議な蒼い炎を指さして言う。
「伝説を信じるならば、ここで行われたのは“クロノクス”と“ネガゼノス”の激突だ。あの炎の主は別にいるということになる」
「“炎”の魔法の使い手……今まで手に入れた情報の中にはなかったよな?」
「……これは私も、実際に見たことはなく、伝聞でしかないのだが」
リシアは厳しい表情で、一瞬だけ目を閉じ、言った。
「まさに、これから我々が目指すエメリフィムの王家が有する伝承魔法が、“炎”の魔法だそうだ」
「何……?」
総司も表情が変わる。
「……エメリフィム王家も、千年前はゼルレイン陣営だったんだよな」
「これまで得られた限りの情報では、ロアダークの側についた国はなかったはずだ」
静寂に過ぎる、過去の戦いの跡。
そのさなかに残る痕跡が意味するところを、総司たちはまだ知る由もない。だが、エメリフィム王家が「炎」を操るならば、あの蒼炎の主であった可能性は捨てきれない。
ゼルレインとロアダークの激突に介入した不吉な蒼い炎の使い手が、最終的にロアダークを討ったのだとすると、ティタニエラの大老クローディアの伝承とも符合する。
大聖堂デミエル・ダリアに残された、「新たな脅威」として記録された存在は、もしかしてエメリフィム王家の者だったのではないか。総司の脳裏をそんな推測がよぎった。
「……少し歩いてみるか」
総司とリシアは、あまりにも物寂しい遺跡を、目的もなく歩いてみた。小さな都市が壊滅した、過去の残骸。生命の営みを微塵も感じさせない不気味なほど静かなその場所を、気ままに歩いたところで、何か収穫があると期待したわけではなかった。
「近づくのはまずいよな」
蒼い炎のゆらめきを眺めて、総司が言う。リシアが当然だ、とばかり頷いた。
「ヘレネ様の手記の通りなら、千年消えない炎だ。何が起きるかわかったものではない」
「そうだよなァ……」
総司が何か言おうとして言葉を切り、リシアに目で警告した。
リシアの手は既に剣の柄に添えられていて、表情は一気に険しくなっていた。
「何かいる」
「敵意ってわけじゃなさそうだが……相当“やる”ぞ」
「ああ」
遺跡の一つ、背の高い塔の残骸の向こうから、にゅっと顔を出してきた「巨大な魔獣」がいた。
しかし、総司の見立て通り、敵意をみなぎらせているわけではなかった。
顔の高さが地上から五メートルはある、巨大な狼のような魔獣だった。体毛は遺跡と同じ青銅のような鉱物を纏い、ごつごつと無骨な見た目だ。
鉱物じみた体躯のところどころに、小さく、遺跡に残されたのと同じ「蒼い炎」が燃え盛っている。蒼い炎は、魔獣の体毛を燃やし、しかしその部分が瞬く間に再生し、魔獣を焼き尽くすことが出来ないまま虚しく数か所で揺らめいている。
一言で形容すれば「いかつい」顔つきをした隻眼の魔獣は、総司とリシアを一瞥し――――興味深そうに、“言った”。
『ヒトの子か』
総司とリシアが目を見張り、魔獣の鋭い目を見つめ返す。
相変わらず敵意はない。魔獣の目と態度に現れているのは「興味」。総司とリシアに対して、どうしてこんなところにいるのかと訝しんでいるようだ。
「人語を話せるのか……?」
総司が試しに聞いてみると、魔獣はフン、と下らなさそうに鼻を鳴らした。あまりにもヒトくさい仕草だった。
『話しているのではない。魔力を通じて“伝えている”だけだ。まあ、そんなことは良いが』
魔獣はのっしのっしと総司たちに近づいてきて、総司が近づこうとした蒼い炎を一瞥した。
『儂の言葉が聞こえるなら忠告してやろう。触れぬことだ。消えぬ怨嗟の蒼炎は、ヒトに抗えるものではない』
「消えぬ、怨嗟の……?」
『……ふむ』
巨大な狼のような魔獣は、総司とじっと見つめて、何か勝手に納得し、頷くような仕草を見せた。
『それなり、よな、貴様ら』
特に臨戦態勢というわけでもなかったが、魔獣は総司たちから何かを感じ取ったようで、どこか賞賛するように言った。
『……修羅場を潜ったか。良い。出来る奴は嫌いではない。ヒトでもヒトでなくてもな』
理性的な魔獣らしい。総司は警戒を解いて、魔獣に少しずつ近寄った。
「ソウシだ。こっちはリシア。お前は?」
『ヴィスーク。良いな。礼節を知っておる。物見遊山の馬鹿ではない』
「ああ。エメリフィムを目指す途中で立ち寄ったんだ」
魔獣がヒトの礼節を語るとは面白い話だ、と思ったが、それは言わないでおくことにして。
総司は、その場にゆっくりと「伏せ」の態勢で落ち着き始めたヴィスークなる魔獣に問いかけた。
「その炎を知っているのか」
『当然だ。見えんか、この体の鬱陶しい炎が』
「見えてるさ。ってことは、お前……千年前から、生きてるのか」
『左様。まあ、こそばゆい程度だがな。鬱陶しいことには変わりない』
長寿の魔獣、千年前を知る魔獣である。これが偶然とは信じがたいほど、総司にとってありがたい出会いだった。
総司はまずリバース・オーダーを背から外して、その場にガシャンと置くと、丸腰でてくてくとヴィスークの眼前に歩み寄り、伏せた姿勢の魔獣の眼前に腰を下ろしてあぐらを掻いた。
「話がしたい。時間をくれ。頼む」
『堂々たるものよ。嫌いではない。許そう』
理性的であるどころか、聡明で寛容な魔獣だった。もともと、総司とリシアに「何か」を感じ取って、ヴィスークの側も話をしに来たのだろう。総司は頭を下げて、単刀直入にぶつけた。
「お前がその炎を背負うことになったのは、千年前にここで起きた戦いが原因なのか」
『左様』
「その『炎』を操るそいつは……ヒト族だったか?」
伝説の国・ルディラントに行く直前、レブレーベントの端にあった「メルズベルム」という街で、総司は“最後の敵”に関する最初のヒントを得た。
“ヒトが織りなす悪の最たるもの”
傀儡の賢者、何でも知っている賢者・マキナが言ったセリフから、総司は“最後の敵”を「ヒトに属する何者か」であると読んだ。
『いいや』
しかし、あてが外れた。
ヴィスークが言及した「怨嗟の蒼炎」を操るのは、ヒトではなかった。
『化生の類、精霊の類……精霊をヒトの形に落とし込んだもの。女の形。なんと言ったか……何分、千年前のこと。名前までは覚えていないが、ヒトではなかった』
「……精霊をヒトの形に。そりゃまた、妙な話だな……」
リシアも、総司に倣って剣を離れた場所に置き、ヴィスークに前に歩み寄った。
「ヴィスーク、私から聞いても?」
『賢く強いヒト。嫌いではない。許す』
ヴィスークが頷いたので、リシアも聞いた。
「“消えぬ怨嗟の蒼炎”と言ったな。どういう意味か教えてほしいのだが」
『言葉通りだ。消えぬ怨嗟の熱を喰らう獣、げに忌まわしき、悪霊の怨念。思い出すだけで忌々しい。名を覚えておらぬのは当然、ことさら気に入らぬ者、覚える価値もない』
抽象的な表現だが、この場所で千年前に戦った者たちの中に、千年消えない蒼炎を放つ人外の存在がいたということなのだろう。
『炎が燃え広がっていないところを見るに、どうやら死んだか、封じられたか、と言ったところ。いい気味だ』
「お前はそいつの巻き添えを食らったってことか」
『忌々しいことよな。大した熱も持っておらんが』
「……消えぬ怨嗟の熱を食らう獣……」
ヴィスークの言葉を反芻し、リシアは顎に手を当てて思考を回した。
総司がこれまで見聞きした情報、千年前の知識の中に、そんな特徴を持つ「何か」に言及したものはなかった。
リシアには総司と違って、リスティリアという世界そのものの予備知識があるが、繋がりが希薄なリスティリアの、レブレーベントから遠く離れた場所の伝承など、流石に網羅できていない。
となれば、得られた情報からいくつか推測する以外に方法はない。
「……よし」
総司はふと立ち上がると、魔力をにわかに高め始めた。一瞬、ヴィスークが警戒してぴくりと耳を動かしたが、総司に害意がないことがわかると、彼が為すままに任せた。
「“ルディラント・リスティリオス”」
ギン、と総司の左目が、白の強い虹の輝きを湛えて見開かれる。時計の文字盤のような紋章が瞳に浮かび上がり、光を強め、ヴィスークを含めて周囲を優しく包み込んでいく。
『ほう……!』
鮮やかな輝き、それに呼応するように緩やかに消え失せる、自身の体毛を燃やす蒼炎。その二つを見て、ヴィスークは驚嘆の声を上げた。
虹の輝きが失せると共に、怨嗟の炎も霞と消えた。ヴィスークはすっと立ち上がると、首を後ろに向けて自分の体を確かめ、総司へと視線を戻した。
「確証はなかったが、どうやらうまくいったみたいだな」
『魔法を滅する魔眼か。どことなしに、伝承魔法に似ているが……いやしかし、ついぞ聞いたことがないぞ。面白いものを持っている。どうやって手に入れた』
「今は遠きルディラントでもらったものだ」
総司が正直に言うと、ヴィスークは笑った。吼えた、というのが正しい表現かもしれないが、明らかに笑っていた。
『そうかそうか! ルディラントと来たか! 数奇な運命もあるものよ。ルディラント王には会ったかね?』
「王ランセムは、俺の憧れだ」
『ふはっ』
ヴィスークは愉快そうに目を優しく細めた。
『ランセムの名を知るか。良い。信じよう』
ヴィスークにとって、蒼炎は煩わしいものではあったが、別に命の危機に瀕するような脅威ではなかった。それでも、ヴィスークは総司が蒼炎を消し去ってくれたという事実を高く評価した。
『こそばゆい程度とは言ったが、これは借りだ。ヒト嫌いではないが、儂は借りを作りたくはない。エメリフィムに行くと言ったな?』
「そうだけど」
『港まで乗せてやる。それで貸し借りはなしだ』
総司とリシアは顔を見合わせた。
「だってよ?」
「……そうだな」
リシアがこくりと頷いて、
「ここにはもう、見るべきものはない……と、思う。せっかくだ、お言葉に甘えるとしよう」
「決まりだ。ヴィスーク、道中ちょっとゆっくり行ってくれよ。もう少し話がしたい」