罪裁くカイオディウム 第八話① 神域に至った者
総司の元いた世界とリスティリアでは、様々な概念が似通っている。
特にレブレーベントからカイオディウムまでの四か国において、総司の常識が通じないことはあっても、どうしても受け入れられない文化や思想の違いがあったわけではなかった。俗世から離れたところで暮らすエルフたちの国であっても、その長であるクローディアがかつて外界と触れたからか、あまりにもかけ離れた思想を持っていたわけではない。強引にティタニエラだけを世界から切り離そうとした野望自体は独善的なところがないわけではないが、それはどの国も同じこと。繋がることを拒むリスティリアではむしろ当たり前であり、それが唯一の共通認識と言っても良い。
二つの異なる世界でも共有する「悪魔」という概念がもしも具現化したのなら、恐らくこのような姿になるのかもしれない。
その化け物の威容は、それほど不吉さを纏っていた。
いや、それはある意味では不敬にあたるだろう。“星拾う展望台”の透き通る天蓋を吹き飛ばし、大聖堂の頂に姿を現した巨大な半身は、骸骨に近いその顔つきや細身の体躯こそ悪魔を思わせる不吉で歪なものではあったが、赤と黒の魔力で構成された数えきれない腕を見れば「千手観音」を連想させる。観音を悪魔と形容するのは相応しくはないだろう。
伝承魔法“ネガゼノス”の根源、破滅を齎す異形。
リベラゼリアは、その身に纏う莫大な魔力と共に大聖堂の頂点に君臨し、咆哮する。
ベル・スティンゴルドは確かに天才ではあるが、この領域にまで彼女が至ったのは、エルテミナの力を手にしたという事実が大きく寄与している。長じれば近いうちにベルは「これ」に至っただろうが、まだ早いはずだった。“ネガゼノス”の真髄を極めたのは歴史を紐解いてもロアダークのみであり、ベルがその力を嫌う限り、二度とリスティリアに顕現しないはずの力でもあった。
“星拾う展望台”は、外部からは単なる大聖堂の尖塔にしか見えない場所の「内側」にあった。すなわち「異空間」であり、それが露出したことで、大聖堂の頂点はこれまで見えていた形とは違った姿になっていた。“星拾う展望台”を支えるように尖塔自体が太く、大きく、戦場を支えている。
ベルは間違いなく“ネガゼノス”の真髄に至ったが、「半身」の顕現はそれでもなお不完全であることの証左。完全なるリベラゼリアは更に巨大で強大だが、エルテミナの力を借り受けても今のベルにはここが限界だった。それほど、ロアダークが行使した力は大きかったのである。いずれはベルも至る一つの究極――――今はまだ、その時ではなかった。
それでも十分のはずだった。女神の騎士の強靭な器であったとして、流石にこの力を前にすれば決して無傷では済まされない。総司に「殺し」の選択肢がないのならば、リベラゼリアを突破するには足りない。
だから、ベルは対応が遅れた。その一手を予期していなかったから。
リベラゼリアの顕現と同時に、総司は飛び込んでいた。
切り札を晒すというベルの選択はリスクを内包する。均衡を自ら破る一種の賭け。
だが、ベルが動いてから動く、と決めていた総司もまた、決して安全策ばかりを選び続けるつもりはなかったのである。
ベルがリスクを取ったのと同時に、総司もまた賭けに出ていた。
“伝承魔法の使い手”が本気になった時に何が起こるのか、総司は二度、それを見ている。
総司が知る“真髄に至った使い手”はベルを除けば三人いる。アレイン・レブレーベントとルディラントの守護者サリア、そして相棒であるリシアである。
その三人の内二人に共通する特徴。
使い手が本気になるとは即ち、伝承魔法の力の源泉である「精霊」そのものが、魔力の器を借りて顕現するという魔法の行使に繋がる、という経験則。ベルの魔力の流れから、リシアのような自己強化型の魔法ではないと推測した総司は、発動と同時に「根元」に跳んでいた。
アレインの“ゾルゾディア”も、サリアの“レヴィアトール”も、真正面から突破できたのは、総司にとって究極の攻撃魔法である“シルヴェリア・リスティリオス”の力が勝ったから。その事実は「ベルを殺せない」状況下で、ベルがリベラゼリアと共にいる状態ではあまりにも不利に働く。
あの流星の如き一撃を放って、ベルを殺してしまわないという保証はどこにもない。かと言って間を置けば、ゾルゾディアやレヴィアトール級の化け物と正面からやり合うことになってしまい、総司にも余裕がなくなるのは必然。シルヴェリア・リスティリオスの圧倒的な攻撃力なくして、リベラゼリアを突破する術はない。フロルにラーゼアディウムの落下阻止を託した以上、制御の魔法作用すらも打ち消しかねない“ルディラント・リスティリオス”も選択肢から外れる。
総司の勝利条件と現在の状況を考えれば当然の帰結。
むしろ、総司には“これしかなかった”。最初から何が起ころうとこうすると決めていた。この突進の「あて」が外れれば、この戦いはどうあがいても負けで終わるのだと。
その覚悟を、凄まじい判断と行動の速度を以てしてもなお。
ベルの反応は、リベラゼリアの性能は、総司の突撃を捕らえられた。
ここでベルが「防御」を選んでいれば、或いは総司の方が勝っていた。迷いなく踏み切った総司、その勢いと膂力は、「後手」に回ってしまえばとても防ぎ切れなかった。
ベルの腕の動きに、リベラゼリアが凄まじい速度で呼応する。無数の腕が、ベルが見たこともない不思議な大太刀を構えて無謀な突撃をかます救世主を迎え撃たんと、目にもとまらぬ速さで動いた。防御ではなく攻撃、一瞬の決着を選んだベルの直感、その戦闘の才覚は総司に勝るとも劣らない。まさしく時代の傑物と呼ぶにふさわしい、早熟に過ぎる天才のそれ。魔法力、戦闘の才能、強すぎる意思。どれをとっても、ベルはこの瞬間、確かに救世主を上回った。
「――――どうして、そこまで」
罪裁く大太刀が、ベルの胸をまっすぐに貫く。
完璧に上回っていた。迷いなく腕を振るえばベルの勝ちだった。流石の総司であれ、一撃で致命傷になっていた可能性も全く否定できる状況ではなかった。それほど、リベラゼリアの力は強大だった。たとえ一撃で決められなかったところで、少なくとも「総司にとっての勝利条件」を満たす状況にはもう二度となり得なかった。
だが、終わってみれば。
刹那の攻防を制したのは、救世主の方だった。
「あたしのことを……信じられたの……?」
ベルがそうできないことを。彼女の善性が必ずその手を止めることになるだろうと、彼が信じ抜いたから。
「下手したら死んでたよ……あたしが、止めなきゃ……」
「かもな」
「……ギリギリまで、本気の本気だった」
「だろうな。知ってる」
ベルの目を見れば、ハッタリでなかったことぐらい十分わかっていた。
それでも総司は信じた。
というよりは確信していたし、もう既に「知っていた」。
ベルが総司に語った通り、意志ある生命の多くは自己中心的であり、それが当然。特に「命」にかかわるとすれば、誰もがむしろ自己中心的であるべきだ。他者のために自らの命を投げ出す物好きの物語が「美談」や「英雄譚」として語り継がれるのは、その例となり得る数が少ないからこそであり、おとぎ話に近いからこそ人気を博すのだ。そうでなければならないのだ。
それでもベルは、最後の最後で自己中心的であり続けられない、彼女が総司に言い続けてきた「お人よし」の側なのだと。数少ないそちら側の存在なのだと、信じた。
その逡巡は、ベルの壮大な計画の全てを台無しにするものだ。ベルの確固たる意志の力を鑑みれば、一縷の望みに過ぎない。総司にとっての希望的観測、憶測の域を決して出ない、甘えた願望。それを最後まで抱き続けた総司の「勝ち」だ。短い付き合いとはいえ、共に死線をくぐった彼女のことを、最後まで信じたが故に。
互いに度し難く、度が過ぎたお人よし。常人からかけ離れた善性を捨てられない二人。全く同じ性質によってベルは迷い、総司は迷わなかった。
突き刺した大太刀を引き抜く。その瞬間、ベルの胸元から虹色の光があふれ――――総司の意識は、光と共に攫われていった。
「やるじゃん」
星空と地面が逆転した世界。
何もない地平を見上げ、星空を足蹴にする異空間。
総司は立ち、彼女は赤黒い惑星のような球体の上に座っていた。小さなソフトボールぐらいの、青々とした惑星を手元でポンポンと投げては掴み、弄びながら、彼女は笑った。
質のいい生地で作られた、ワンピース型の修道女の服。その太ももから裾までの部分までを一部、手で引きちぎって切れ込みを入れ、動きやすい形に改造している。口元に浮かぶ笑みはベルのように「ギャルっぽい」――――というよりは、「不良っぽい」と形容した方が近そうだ。
「これで晴れてあたしもあの世行きか。まあ、流石にちょっと疲れたし、死にざまとしては悪くない。どこぞの賊にやられるよりはマシってとこかなぁ」
「……エルテミナ……」
名乗られずとも、即座にわかった。修道女エルテミナは笑みを深め、楽しそうに、自分を睨みつけてくる総司を見つめ返した。
ベルの面影、レスディールの面影が確かに在る。いや、むしろ二人が彼女に似ているのだ。
リスティリア史上最大級の咎人。今日まで生きながらえて虎視眈々と復活の機会をうかがっていた事実も併せてみれば、その罪はロアダークよりも上。一切の酌量の余地はない、悪そのものの思想の持ち主。意外にも、その笑みに醜悪なところは見えなかった。
「そう邪険にしないでよ。今しがたあなたに殺されたってのに、まだあたしに敵意があるわけ?」
「どこが死んでんだ。確かに手ごたえはあったはずなんだが……」
「だーから、ちゃんと届いてるよ。なんていうかこれは――――そう、あたしの走馬灯にあなたが巻き込まれてる、みたいなもんだね」
罪裁く大太刀は確かに、ベルが取り込んだエルテミナを貫いた。だが、修道女エルテミナの生命力は、女神の騎士の力を以てして、一瞬で消し飛ばせるものではなかったらしい。
忌々しいほどの執着、千年もの間、世界にしがみついた生き汚さ。リスティリアにこびりついたしつこい汚れ。修道女エルテミナはそれが故に生き残ってきた。
「あの子も甘いよね。最後の最後で本音を漏らした。だからあなたに負けた。ヒトのことをとやかく言えたもんじゃない」
“あなたがそんなんだから、行かせるわけにはいかない”。
総司の脳裏に刷り込まれたベルの一言は、最後の総司の判断に間違いなく影響を与えた。
エルテミナはあの言葉の意味を知っている。
「……フロルを自分の手で殺したかったのは本音だった。多分ベルは躊躇ってはいただろうが――――」
「あなたを殺せていれば、きっとその躊躇いもなくなっただろうね。まあ、あなたにも呆れたもんさ。救世主の意地ってやつ? 眩しいねぇ、苦手だよ、あなたみたいなのは」
「いいや」
エルテミナのからかうような物言いに、総司は首を振った。
「男の意地だ」
「……あんなダ女神がどうして毎度毎度、イイ男をひっかけられるんだか。コツを教えてほしいもんだ」
その思想は間違いなく悪辣であったとしても、今のエルテミナに総司への敵意はなく。
惜しみない賞賛は、死にゆく自分から救世主への手向け。
いや――――“同じく死にゆく救世主”への、手向けか。
「“ハルヴァンベント”への道は一方通行だ」
エルテミナの鋭い声が、総司の心に突き刺さる。
しかし不思議と動揺はなかった。
ベルの言葉の意味。どうしてもベルが総司から「役目」を奪い取ろうとした理由の一つ。
修道女エルテミナを取り込みその知識を得たことで、ベルは知った。
女神の領域へ至った者は、“帰って来れない”ということを。
何のことはない――――ベルは確かに、総司へ本音を語っていたかもしれない。スティンゴルドの系譜をなかったことにする目的も、フロルと殺すという悲願も全て本音ではあったかもしれないが。
だからと言って、心の内を何もかも総司に吐き出したわけではなかった。彼女の善性は、総司の希望的観測をも上回る次元にあったということだ。
「そこに例外はない。女神の領域へ至った者は過去から現在までたった二人。いずれも――――化け物じみているとはいえ間違いなく“ヒト”に属する二人だが、あたしの知る限り“こっち”に戻ってきてはいない」
「……どうして俺に教えてくれるんだ?」
「意趣返しだよ、あのダ女神への」
エルテミナは笑った。初めてその笑顔が、悪役らしい醜悪なものに見えた。
「テメェの飼い犬がこの真実を知れば、憎たらしい計算も少しは狂うんじゃないかと思ってね」
リスティリアに二度と戻ることが出来ない事実を総司が知れば、その歩みが少しは止まるかもしれない。エルテミナはそんな風に――――嘯いた。
「……その二人ってのは……」
「一人は予想がついてんでしょ」
エルテミナは、手で弄んでいた小さな青い惑星をブン、と総司に投げつけた。
総司がそれをキャッチした瞬間、紫電の稲妻がばちっと迸って、総司の手のひらにわずかな痛みを与える。総司は惑星を手放さなかった。
「“ゼルレイン・シルヴェリア”。あたしと夫にとって不倶戴天の敵は、世界を救った直後に“ハルヴァンベント”へ渡った。消息不明は当然さ。ヤツは女神の元へ行ったんだからな」
「もう一人は?」
「教えない」
エルテミナは笑う。
「なーんて、実は言えないんだよね。いや、それは事情があるとかじゃなくてさ」
エルテミナが「何か」を言った。
だが、その瞬間、あらゆる音が一瞬だけ聞こえなくなった。総司の視界にも影響が及んだ。エルテミナの顔に霞がかかったように見えなくなって、口元の動きすら読めなかった。
それは本当に一瞬のことで、総司は直感的に、「エルテミナがもう一人の名を言って、それが妨害された」と理解した。
「ほらね?」
「ッ……けど、これでむしろはっきりした……!」
ゼルレインの名を総司が聞く機会はいくつかあったが、そのいずれも、これほどわかりやすい妨害はなかった。
その名が残り、もう一つの名は消されている。答えは一つだ。
「レヴァンチェスカを脅かしているのは、“もう一人”の方……“ハルヴァンベント”に渡ったゼルレインじゃない誰かってことだ……!」
エルテミナの笑みが深まる。赤い惑星からひょいっと降りて、ぐーっと伸びをしながら、エルテミナが告げる。
「あなたと女神を秤にかけるとね、女神の方がほんのちょっと嫌いなんだよね」
道化のような所作で、おどけた口調でそう言って、エルテミナは振り返りもせず、総司に背を向けて歩み始める。
時間が来たのだ。彼女の生き汚さを以てしても逃れられない終わりの時。エルテミナは死を恐れることなく、その方角へと自らの足で歩み始めた。
「だからちょっとだけ。あなたが“これまで知った名前”、あなたが“これから知り得る名前”――――そのどこかに必ず、“もう一人”がいる」
「“これまで”はともかく、なんでお前に“これから”がわかる」
「そりゃわかるさ。あなたがこれからもあのダ女神を救うために旅を続けるなら、“これまで”に知ってなきゃ必ず“これから”知る。そういう風に出来てるんだよ、もうわかってるだろ? “知らないまま挑む”なんてことには、絶対にならない」
大いなる運命の流れの中で、翻弄される一人に過ぎない。
総司は拳を握り固めて、エルテミナの背を見送る。
「せいぜいがんばれ、救世主。あの子の記憶を辿る限り、あなたはこれで“四つ”の鍵を手に入れたわけだけど……『半分以上終わった』なんて油断してたら、さくっと逝っちまうよ。しかも……あのダ女神にこだわってしまった男は、ロクな死に方も出来やしない」
「忠告どうも……俺も、お前のことは別に好きじゃねえが」
総司は少しだけ微笑んだ。
悪辣の化身とは言えども、もう出会うことのない相手だからこそ贈れる言葉かもしれない。
「ロアダークと会えるといいな?」
「勘弁してよマジで。別に愛があったわけじゃないっつの。ま、一杯ぐらい付き合うのはやぶさかでもないけどね。んじゃまあ、あたしの子孫とウェルゼミットの末裔によろしく言っといて。千年ぶりに、割と楽しかったってさ」