贖いしカイオディウム 第五話① 手を貸していただけますか
フロルは総司から、ティタニエラでの冒険譚や、総司自身がベルから聞いた話の一部始終を聞いて、ある程度把握している。もしベルが継承者であったなら、ミスティルはベルに騙されたということになると思ったのだ。
それを意にも介さない淡々とした態度を示したミスティルには、ベルを妹のように想うフロルとしても頭の下がる思いだ。
「最後にとても良い出会いをしました。いけませんね……女神教を崇拝することは、私にとってもカイオディウムにとっても呼吸をするのと同じぐらいに当たり前だったけれど……他国ともっと……自分の知らない世界ともっと触れ合うべきだったと、今更後悔している」
本人が言った通り、死を前にして、フロルの口はよく滑るようになってしまったようだ。信徒の誰にも見せたことのない弱みを、初めて出会ったミスティルに見せている。ミスティルとオーランドの陣営以外とは、もう会う予定もないからだ。
「ソウシには少し酷なことをしました。あれほど憤激してしまうとは思わず……きっと彼にも話すべきではなかった。事のついでです、後で謝っておいてくれますか」
「……なるほど。彼にも話したのですね」
ミスティルはふと、何かを探るように感覚を研ぎ澄まして、一瞬だけ目を閉じ、やがて薄目を開けて言った。
「外の世界を知りたいと願うなら、今からでも遅くはないと思います」
「そう言ってくれますか。救われる思いです」
「正直、私は“フロル”の生死にはあまり興味がありませんでしたし、今も関心が高いわけではありません」
「おや、手厳しい。でも好ましい」
フロルがくすりと笑った。
「しかし――――私と違って」
ミスティルより少し遅れて、フロルもさすがに気付いた。
魔力の流れが変わっている。女神の魔力が充満する大聖堂の中枢近くにあって、“何か”が変わったのを感じ取れる。
大聖堂デミエル・ダリアは遂にラーゼアディウムの威容を捕らえ、間近に迫るほどに上昇し。
終わりを告げる日の空が、わずかに白み始めた。フロルに終わりを告げに来たはずの朝焼けは、彼女の意に反して、別の何かを連れてきてしまった。
二人のいる空間全体を衝撃が襲う。「誰か」が、何もないはずの空間の“薄皮一枚隔てた”向こう側から、「ここ」を隔てる“次元の壁”を蹴っている。
やがて空間に黒いヒビが入り、かっと蒼銀の光が漏れ出した。ミスティルにとっては見慣れた光。フロルにとっては“覚えのある”魔力。
「彼があなたの事情を知っているのなら、大人しく引き下がるとはとても思えません」
バギン、と派手な音を立てて、次元の壁が遂に蹴り砕かれた。蹴り抜いた足がぬっと、ここではないどこかから伸び出してくる。
「度し難いほどお人よしな二人が、間に合ってしまったようですから。フロルはきっと明日も生きていますよ」
残る壁を派手に弾き飛ばして、総司とリシアが、二人の元へと飛び込んできた。
「よぉしまだ生きてんな! これに関しちゃあ感謝しとくぜ、レヴァンチェスカ!!」
「こら、お前は次元酔いに弱いんだ。出て早々興奮しすぎるな」
大聖堂の“核”から見事に脱出を果たした二人を見て、フロルは呆気に取られて、しばし茫然と固まってしまった。
フロルは、総司が感じていたのと同じように、逃れようのない運命の流れ、女神が定めた自分の死の“予定”を理解していた。続けざまに起きる全ての事象がフロルにとって不利に働き、フロルでは止めようのない運命の激流を前にして逆らうことを諦め、女神教の信仰者の頂点として、大人しく全てを受け入れるつもりでいた。しかし大いなる運命のうねりが本当にフロルを追い詰めているなら、ここで総司を「間に合わせた」のには、一体どんな理由があるというのか。
フロルを救うため以外の理由が、フロル自身にも思いつかない。
「おうミスティル、元気そうだな! 久しぶりだなァオイ!」
無事でよかった、などとは言わない。ミスティルの強さを身に染みて知っていればこそ、そんな気遣いは無用と言うものだ。
「いえ、たかが二日三日なんですけどね。確かに、私も同じ気持ちではあります」
ミスティルは呆れたようにため息をついて、特に感慨にふけることもなく、淡々と言った。
「ソウシさんのこれまでの苦労については、話せば長くなりますか?」
「ああ、リラウフでの別れから話すとなると昼になる」
「こちらもそれなりに長くなるので、重要なところだけ端的に言っておきましょう。ベルさんが攫われてしまいました。私の落ち度です。相手はライゼス・ウェルゼミット」
「一人足りねえのはそう言う理由か。落ち度って言うなら俺にもあるさ、傍を離れ過ぎたからな。俺達はとりあえず、敵はリシアのじいさんだと思ってるところだ。それを確かめて止めるために出てきた」
「ライゼスさん――――ライゼスとおじい様が“敵”と、そういうことで」
持っている情報が違うため、互いに何があったのかと問い詰め合うのが本来の姿なのかもしれないが、総司はともかくミスティルは極めて冷静だった。
フロルに聞いたベルとフロルの過去と、それを総司が知っているという事実さえわかっていれば、総司の行動理由の根底にあるものはミスティルにも簡単に理解できる。
その理解さえあれば、総司の今の感情も、これから何をしようとしているのかも、詳しい事情は知らないなりに大枠は掴めるというもの。総司のことを「底抜けのお人よし」だと評し、自身もまた彼のお人よしっぷりの被害者である彼女だからこその冷静さだ。
「とりあえずオーランド・アリンティアスの真意を確かめてからだが、多分荒事になる。手を貸せ、ミスティル」
「ええ。大老さまの言いつけでもありますので、あなた達にであれば最後までお付き合いしますよ」
ミスティルの口元に笑みが浮かぶ。それは決して優しいものではなく、ティタニエラで相対した時に見せたような、どこか嗜虐的に見える不吉さを醸し出していた。
「ベルさんの望み通りには動いたつもりですが……もともと“あちら”に肩入れするのは、気が乗らなかったもので」
リシアは、未だ呆気に取られたままのフロルに歩み寄り、丁寧に会釈した。
「お久しぶりです、猊下……事情はおおよそ、我らも知るところとなりました。ここに至るまで、あなたと敵対する陣営に加担していた私に、その資格があるのかは疑問ですが……どうか私とソウシに、あなたの盾となり剣となる役目を背負わせていただきたい。死力を尽くします」
「……いいえ」
目の前で起きていることの処理に、フロルの脳がようやく追いついてきたらしい。
フロルは声を絞り出して、彼女らしからぬ必死さで首を振った。
「いいえ、アリンティアス団長……! それはなりません、それだけは……! 許すわけにはいきません、それを許してしまっては――――あなた達が私のために命を賭けることになってしまう!」
運命の流れは既にその行き先を変えているかもしれない。フロル自身もそれは感じている。自身を捕まえた死の運命の歯車が狂い、覚悟を決めたものとは違う未来へと進み始めているような、そんな予兆を、希望を見てしまっている。だが、リスティリアに生きる権力者として、国はもちろん世界をも憂うべき立場にある者として、その希望にすがることがどうしてもできない。
何故なら――――
「本当にオーランドと激突することになってしまったら、あなた達にとっては“無意味な戦い”です! 命を賭けるというのに、戦った先にあなた達が得られるものは何もない……! “レヴァンフェルメス”はもう、すぐそばであなた達を待っているのです!」
フロルがその希望にすがってしまったら、世界の命運を背負う救世主とその相棒を、リスクしかない戦いへと投げ込んでしまう最悪の事態に繋がってしまうからだ。
「私がそんな……! 世界の希望を、私が……! いいえ、絶対にさせない! もう一度あなた達を縛り上げてでも、決して――――!」
「この期に及んでそんなこと言われても」
総司が肩を竦めて笑いながら言った。フロルにとっては笑いごとではないのだが。
「じゃあこうしよう。俺達は勝手にフロルを護るから、黙ってみててくれればいいよ」
「ふざけないで! くだらない冗談に付き合う暇も余裕もありません!」
「誰もふざけてなんかない。俺は“自分がそうしたい”からやるんだ。まあいっつもそれだけだと流石にわがままが過ぎるんで、他人の事情だって考えるべき時は考えるけどさ」
総司は腕を組んで、すっぱりと言い切った。
「フロルの言う事情は俺が止まる理由としては足りない。これ以上喚くなら全部終わるまで寝ててもらう。大聖堂の権能の発動と俺の当身、どっちが早いか試してみるか」
「そんな……そんな勝手を許せるはずない!」
フロルはまだ抵抗する。総司に詰め寄り睨みつけて、なおも言葉をぶつけた。
「自分の役目を思い出して! あなたが挑むのは“オリジン”を手に入れるための試練で、戦いであるべきです! そしてカイオディウムにおいてはその戦いが起こらないの!」
総司の上着の襟元を掴んで、フロルは必死で訴えた。
「これから先もそうやって行く先々で、困っている誰かを一人残らず救い続けるつもりですか!? そんなやり方がどれだけ持つというのですか! 私の命一つであなたの旅路が一歩前へと進むなら、それはリスティリアにとって――――」
「言ったな、今」
フロルの手をパシッと取って、自分から引き剥がしながら、総司が笑った。
「何をっ――――」
「誰も『一人残らず救う』なんて言ってねえよ。そんな器じゃねえことは自分が一番よくわかってる。困っている誰かを前にした時に、俺が助けたいと思ったら助ける。可能不可能まではわからねえけどな。で、フロルは今まさに困っていて、俺はフロルを助けたいんだ」
フロルが固まった。
ここに至ってよく口が滑るようになってしまったフロルがまた一つ、口を滑らせてしまった。
そうやって困っている誰かを救い続けるつもりなのか――――“そうやって”。
自分が今まさに「困っている」のだということを、その自覚があることを、無意識に口にした。
覚悟を決めたつもりで、心の底では現状を嘆いていた。当然だ、誰が、差し迫った死の危機を前にして「それも運命」などと素直に受け入れられるものか。それが出来るのはもっと達観した者か、或いはもっと後悔のないよう死力を尽くした者だけだ。フロルはそのどちらでもなかった。行動しなければならないと気付いた時には全てが手遅れで、諦めるしかなかっただけなのだから。せめて妹のように想うベルにとって――――自分の死が、彼女の重荷をいくらかでも軽くしてやれることに繋がるのならそれも悪くないと、自分に言い聞かせて。
フロルが死んだあと、きっとベルも後悔することになるだろうという確信からは目を背けて。互いに後悔を抱えたまま別れることになるだろうという当然の未来を、見えていないふりをして。
固まってしまったフロルの横を通り過ぎて、総司はテラスの手すりに手を付き、遂に眼前に迫ったラーゼアディウムを見上げた。
「そういや、迎え撃つか乗り込むか決めてなかったな。どうするリシア」
「最後の確認が終わったら決めればいい」
「私は乗り込みますよ。さらわれてしまったベルさんを取り戻したいので」
「あ! そうだやべえな、ベルを人質にされたら終わりか俺達!」
「フロルの話では、リシアさんのおじい様は大聖堂の権能も欲しているとのことです。もしベルさんに何かあれば大聖堂を全力で破壊する、とこちらも脅しましょう」
「それだ」
圧倒的な存在感を誇るラーゼアディウムを前に、この後の動きを話し合う三人の背に、フロルのささやくような声が届いた。
「私は、どうすればいいですか……?」
声が震えていた。リシアとミスティルはぱっと振り向いたが、フロルは三人に背を向けたままだった。そして総司も振り返ってはいなかった。
「……どうすればいいのかはわからねえが、少なくとも“俺がフロルにどうしてほしいか”ってのは、前に言ったはずだ」
「……そうでしたね」
消え入るような声。フロルはわずかにふるふると頭を振った。
「ちゃんと覚えていますよ……それを言う機会は来ないと、思っていました」
フロルの声がわずかに、普段の毅然さを取り戻したものの、やはりその声は震えていた。
「オーランドを止めてもベルの心は解放されませんし、エルテミナの意思と魂を滅ぼすことにもつながりません」
「それも前に言った。全部やるって。でも全部一気にやるとは言ってない。一つずつ潰す。まずはオーランド、他はその後だ」
「……行き当たりばったりというやつですか」
「何もせず諦めるよりはマシだろ」
「ずっとそうですもんねあなたは」
「うるせえ今は黙ってろミスティル!」
“ひとこと言ってくれた方が良いんだけどな。手を貸せって”
かつて、大聖堂デミエル・ダリアの中枢で、二人きりで会話した時に、総司は確かに言った。頼ってくれた方が良いと。その言葉に縋る時が来るとは全く予想していなかった。
だが間違いなく、今がその時だと、フロルも確信した。
「私に手を貸していただけますか。やることが山積みで……追いつかなくて」
顔を見ずとも、フロルが泣いているのがわかった。気づかわしげなリシアと、冷静な表情のままのミスティルとは対照的に――――総司はにやりと笑っていた。
「タダ働きはごめんだ。報酬は“レヴァンフェルメス”、文句はねえな」
「……ミスティルの言う通り、度し難いお人よしですこと……お好きになさい」
背を向けたままぐいっと涙をぬぐい、フロルがようやく振り返る。
その表情は決然としていて、笑みはなかったが、どこか晴れやかでもあった。
「王家があちら側についているようですが、カイオディウムの為政者は今なおこの私です。オーランドが本当に私への害意を持っているならばそれは為政者への反乱となります」
「……いるか? その建前」
「重要なことだ。聞け」
リシアがパシン、と総司の頭を軽く叩いた。
隣国レブレーベントの騎士である総司と、とりわけその地位が明確に知られているリシアが戦線に加わるための方便であり、フロルなりの二人への心遣いだ。当然意味はさほどない。もしもフロルの陣営が敗北したとなれば、その後の動きは勝者の手に委ねられることになる。レブレーベントとの、国同士の問題に発展してしまう可能性は大いにあり、結局のところ勝たなければならないことに変わりはない。
「しかしながら現カイオディウムの有する戦力では、オーランドとライゼスには対抗できませんので……どうか三人とも、力を貸してください」
「任せろ!」
「もちろんです、猊下」
意気揚々と答える総司とリシアだったが、ミスティルは少しだけ沈黙し、やがて言った。
「水を差すようですが、“オリジン”は私への報酬とはなり得ませんので、別のものをいただけますか」
「よぉしまずお前だな、ぶっ飛ばしてやろう! ティタニエラまででいいな!」
「待て待て落ち着け」
ようやく至った団結ムードに水を差す“よう”どころか思いっきり水を差したミスティルに、総司が本気で殴りかかろうとしたので、リシアが慌てて羽交い絞めにした。
「やっぱもう一回やるかコラテメェコラ」
「ええ、ミスティル。私に用意できるものであればなんでも言ってください」
「ベルさんはまたいずれ必ず、ティタニエラに遊びに来ると約束されています。ですから大聖堂の転移魔法、でしたか? ベルさんがティタニエラに来るときには、その使用を許可すると約束していただきたいのですが。ベルさんの口ぶりですと、私的に使うのはとても許されそうにないものみたいなので」
「……ふふっ」
フロルは思わず笑った。ミスティルが不機嫌そうに顔をしかめた。
「何ですか」
「よくそれで、ソウシのことを『お人よし』だなんて言えたものですね、ミスティル」
ミスティルはぷいっとフロルからも総司たちからも顔をそむけた。
「約束しましょう。またその時には、ティタニエラの座標が他の者に漏れぬよう、細心の注意を払うと誓います。……ありがとう」
「ややこしい切り出し方すんなよお前……」
「これも重要なことだ、けじめとしてな。さあ、そろそろ気を引き締めろ、二人とも」
リシアも笑ってはいたが、すぐにビシッと厳しい顔つきに変わった。
「いよいよラーゼアディウムと合流する。万が一にも和解の道があればそれに越したことはないが、恐らくあり得ない。今のうちに覚悟を決めておけ」