贖いしカイオディウム 第四話⑤ フロルとミスティル
「初めまして。一目会ってみたいと思っていました。お礼も言わなければ。ベルが随分と世話になったと聞き及んでいます」
大聖堂デミエル・ダリアは、ゆっくりと、しかし着実に上昇を続け、ラーゼアディウムとの合流を着実に目指している。
真夜中に始まった突然の大移動が終わりを告げる頃には、朝日が顔を覗かせているかもしれない。遅々とした歩みであっても、今の大聖堂の主にはそれを止める術がなかった。
「ティタニエラのエルフをこの大聖堂に迎える日が来ようとは。お名前は何と仰いましたか」
「……何故、止めたのですか」
フロルの気楽な問いかけに答えず、ミスティルは鋭い声で詰問した。
大聖堂デミエル・ダリアの中枢からテラスのような場所に出ることが出来る。大聖堂の外部に出られる場所としては、最も高い空間だ。
ティタニエラのエルフであるミスティルにとって、この場所の魔力と空気は本来であれば好ましい。ヒトの世から隔絶されたこの場所は、大聖堂が天に昇り始めたことで更に浄化され、闇夜のひんやりとした外気と合わせて清涼感に満ち溢れている。
しかしそれは感情を別にした場合の話だ。
ミスティルと女神の間に何があったのかは、ミスティルしか知らない。クローディアだけがわずかに見抜いたものの、ミスティルが語ることはなかった。総司がティタニエラに訪れる前の出来事が、ミスティルに女神の気配を嫌わせる。すぐにでも逃げ出したいほどの嫌悪ではないが、気分のいいものではなかった。ミスティルもまた、ルディラントでの冒険を終えた後から現在までの総司と同じく、女神に対しては疑念を抱いているのだ。
「私であれば追えました」
「追うことは可能だったでしょう。しかし恐らく、結果は同じでした」
「……私が、あの男に負けていたと?」
ミスティルは眉根をひそめ、忌々しげにフロルを睨みつける。しかしフロルは涼しい顔で、ミスティルの眼差しを受け流した。
「ええ。未知なる魔法に無知なまま挑んでは、流石のあなた達でも分が悪かったでしょう」
ベルの後を追って、天に浮かび上がる大聖堂に飛び込んだミスティルは、大聖堂の礼拝の間にてライゼス・ウェルゼミットと行き会うこととなった。ライゼスは、ベルとミスティルが大聖堂に入った直後に、堂々と追いかけてきたのだ。
二人は虚を突かれたが、ライゼスが二人に向けた凄まじい殺意を受けてすぐさま臨戦態勢を取り、彼を迎え撃つはずだった。
誤算だったのは、ミスティルはもとよりベルすら把握していなかった、ライゼスの魔法だ。
「“ゲルセム・レゼリアス”と言う詠唱が聞こえました。あの魔法は何ですか?」
共に聖騎士団の両翼を張っていたベルも想定外だった、ライゼスの魔法。
“ゲルセム・レゼリアス”。ライゼスが唱えた魔法は、黒と紫が入り混じる不吉な輝きを放つ、ゆるやかに渦を巻く穴を空間に開けた。
渦巻く穴から飛び出してくる、蛇のような無数の手がベルの体を捕らえて、一瞬で穴の中へと引きずり込んでしまった。ライゼスもまたすぐさま、黒と紫の光に飲まれて消え失せたが、ミスティルならばその後を追うことは不可能ではなかった。“次元”を掌握する彼女にとって、「そこでないどこか」へ繋がる魔法の痕跡を追いかけることは難しくない。たとえ他の魔法使いが生涯をかけても不可能な所業であったとしても、ミスティルならばむしろ容易かったはずだ。
だが、ミスティルがベルの後を追うことは叶わなかった。未知の魔法を追跡する前に、礼拝の間の床から光り輝く文字が躍り出て、ミスティルの体を捕らえ、一瞬で引きずり込んでしまったからだ。
そしてミスティルは、どれぐらいの時間、大聖堂の内部に囚われていたのかはわからないが、やがてフロルの元へと吐き出された。ミスティルの追撃を止めたのはフロルだった。
大聖堂デミエル・ダリアの権能を御する力は弱まっているが、それでもフロルはまだ大聖堂の主だ。ミスティルの力を以てしても、囚われた大聖堂内部の異空間から抜け出すことはかなわなかった。まだしもライゼスの後を追いかける方が難易度としては格段に低い部類だ。内部で起こっていることを把握し、フロルはベルも護ろうとしたのだが、一歩遅かった。ライゼスはフロルの行動も予見して、一切の猶予を与えないまま的確にベルだけを狙いすまし、連れ去ったのだ。
「伝承魔法です。と言っても、ウェルゼミット家に伝わるものでもありませんし、ライゼスが生まれ持った魔法でもありませんが」
「……それは伝承魔法とは呼ばないのでは?」
血統で以て受け継がれる魔法を「伝承魔法」と呼びならわす。その定義からすれば、フロルの言葉は矛盾している。
「“かつてカイオディウムに存在していた力の再現”であり、オーランドの研究の成果です。それについては話せば長くなりますし、できれば『彼』に伝えるべきことなのですが……まあ、伝言には残しましたし、良しとしておきましょう。ところで、お名前は?」
「……ミスティルと申します。初めまして、枢機卿猊下」
「フロルで結構。敬称を付けられる筋合いもない。ではミスティル、お願いがあるのですが」
「私があなたのお願いを聞く筋合いもありませんが」
「そう難しいことではありません、後生ですから」
「……聞くだけなら」
「“偽りの伝承魔法”の秘密も含めて、私からソウシへ向けた遺言を我が騎士に持たせてあります。首尾よく彼と出会えればよいのですが、あなたにも協力してほしいのです。私の遺言が彼に渡されるように」
フロルがミスティルの目を見つめた。ミスティルの脳裏に、一人の女性の顔が、姿が浮かんだ。クレア・ウェルゼミットの見た目が伝えられたのである。
「彼女とソウシが出会えるよう、助力を願います。全てが終わった時、現れてくれるはずですので」
「その程度なら構いませんが、しかし解せません」
「解せない?」
「私も興味はありますが、“偽りの伝承魔法”の秘密を彼に伝えることに、なんの意味があるのでしょう? あなたが殺された後では、彼がリシアさんのおじい様や、先ほどのライゼスさんと戦う理由もないはずです。未知の魔法は未知のままでも問題ないのでは?」
「“この国で”必要になる知識、というだけでは済まないかもしれないから、と言ったら?」
フロルの言葉に、ミスティルは目を見張った。
「この情報は、彼の“敵”に繋がっている可能性がある。先ほど申し上げた通り、レゼリアスの魔法は“かつてカイオディウムが有していた”伝承魔法。それが失われた理由が、彼の最後の目的と繋がっている……と、思います。確証はありませんが」
“王ランセムに助言を受けたのです。俺達の旅路はそのまま、千年前を辿る旅路なのではないか、と”
ティタニエラでの最初の夜。
ミスティルは、彼女も同席した、クローディア主催のささやかな歓迎の宴にて、総司が語った言葉を思い出した。
「……千年前の……」
「失礼。あなたには語り過ぎるべきではなかった」
フロルはミスティルから視線を外し、夜空に浮かぶ月を見上げた。異世界リスティリアにおいても何故か変わらぬ、穏やかな月夜。雲一つない空、きっと明日も晴天だろう。
人生最後の日としては悪くない――――フロルの寂しげな横顔から、そんな感情が見て取れた。
「ベルさんに危険が迫っています」
「殺されはしません。私の予想が正しければ、ベルは重要な存在ですから」
「……何故です?」
「あの子がエルテミナの意思と魂を継承している可能性があるからです」
フロルがさらりと言ってのけた言葉の意味を反芻し、ミスティルはまた驚きを隠せなかった。
「それ、は……」
ベルの事情を知るミスティルにとって、フロルが告げた可能性は受け入れがたい。ベルを捕らえて離さない血の呪縛を知らないミスティルにとって、フロルの言葉が真実であれば、ベルにはフロルを殺そうとする理由がそもそもないことになる。
それにもしも、あれほど“エルテミナを滅ぼす”ことに執念を燃やしていたベル本人が継承者だとすれば――――ミスティルにとっては考えたくないことだが、ベルは自死の道すら選びかねない。その選択肢がない理由がわからないのだ。
「あぁ、なるほど……そうですね、時間もあることですし、あなたにも伝えておきましょう。ベルの大切な友人であるあなたにもね」
フロルは穏やかに笑って、ミスティルに話して聞かせた。
スティンゴルドが背負う血の宿命。ウェルゼミットの不倶戴天の敵であり、ベルがその呪縛から解放される唯一の方法は、ウェルゼミット家の最高権力者であるフロルを討つことであるということを。
そしてフロル自身は少し前にエルテミナと決別しており、その次なる継承先がベルであろうと予想しているということを。
「……破綻しています。それでは矛盾する。修道女エルテミナとやらの魂をベルさんが継承しているなら、ベルさんは――――」
「私を殺した後は自分も死ぬつもりだったのかもしれませんね。しかしそうだったとしても、幸いそれは叶いません。オーランドは恐らくエルテミナの知識を欲しています。私も長らく彼の目的を掴めませんでしたが、“オーランドの狙いの一つにエルテミナがあれば”全てが繋がる」
カイオディウムで今起きていること、これから起ころうとしていることに対する、最低限の知識を付けたミスティルに対して、フロルは淡々と語った。
「オーランドが求めているのは二つ……一つには大聖堂デミエル・ダリアの権能の全て。そしてもう一つはエルテミナの外法、自分の魂を他者に落とし込む秘術の知識です。要は『転生』、『不死』の実現でしょう」
オーランド・アリンティアスは、軍事力と共に不死の可能性を求めてこのクーデターを画策した。ベルが継承者であるという可能性から、フロルはそのようにオーランドの企みを読んだ。
修道女エルテミナが魂を意思を現代まで残した魔法は、発動の精度としては「不完全」だ。レスディールが総司に語ったように、本来は「転生」を実現する外法だった。
エルテミナしか持ちえないその魔法は、意志ある生命の多くが古来より夢見続けた「不死」を達成する。卓越した魔法使いであるオーランドであれば、エルテミナの魔法を再現できるかもしれない。
「もう一つの可能性としては、王女ルテア。彼女が継承者である可能性も考えられます」
「教団の関係者ですらない王女がですか?」
ミスティルが意外そうに言うと、フロルはわずかに頷いて、
「私と決別した時点で、エルテミナにとって私は排除したい相手です。私を殺す策を弄するのに最も都合のいい地位にあり、尚且つ本人も稀有な才能を持つルテア様は、ベルと並んで継承者である可能性の高い存在です」
王女ルテアを気に入らないと称したのは、他ならぬミスティル自身だ。自分の直感はもしかしたら、王女ルテアが継承者であると無意識に感じ取ったからではないか。そんな疑念がミスティルの脳裏に浮かんだ。
「……ですが、継承は確か、“楔”を打つ必要があるのでしょう?」
「そうですね、私の祖母によってそれが為されていなければなりませんが……祖母が、“自分の意思でのみ”継承者候補を選んだという確証はない」
フロルの祖母、先代枢機卿が継承者を選定する時、エルテミナの意思が介在していたのだとすれば。
先代枢機卿と共に在ったエルテミナは、先代枢機卿自身も警戒したフロルの「真意」を悟り、教団の外に保険を掛けていた可能性がある。
「その場合は、やはりベルさんに危険が及びます」
「いえ、ルテア様が継承者であれば、ベルが殺されることはないでしょう。継承者であるルテア様が新たなる大聖堂の主となれば、あなたが壊した大聖堂の護りも復活するはずです。そうして身の安全が確保されたなら、ベルは稀有な才能と血筋を持ち、既に“楔”も打ち込まれた質のいい“保険”となる」
「たとえベルさんが、エルテミナに対して反抗心を持っていてもですか?」
「ええ。そういうのをね、楽しむ性格なんですよ、あの性悪は」
エルテミナ、ひいては代々の枢機卿は、あくまでも“偶然”、反逆の意志を持った「子」であるレスディールの血筋がカイオディウム国内に受け継がれている事実を知らなかっただけだ。フロルが知るエルテミナの性格なら、もしもそれをもっと早い段階で知っていたなら、好んで傍に置いた可能性すらある。
そういう性格の悪い、ある意味では合理的でない行動を好んだ結果がロアダークによる誅殺に繋がったわけだが、エルテミナにはどうやら反省の色がないらしい。
今のカイオディウムにおいても、継承の一連の流れには合理性を欠く部分が見受けられる。そもそもフロルが枢機卿として選ばれた段階からだ。先代枢機卿と共に多少なりとも、フロルの真意に対する疑念を抱いていたなら、そのリスクを回避することは容易かったはずだ。「大聖堂の主」としての資質がことさらに高かったのは間違いないし、力が弱まってなおも力を発揮できるだけの才能が確かにあるのだが、フロルがエルテミナに対する反逆の意志を秘めているのだとしたら、合理性だけで言えば継承者フロルの誕生を避けるべきだった。エルテミナの目的が「女神の器を乗っ取ること」を最終的なゴールとしているなら尚のこと、その過程にあるだけの「下界での継承」でリスクを取るメリットは薄い。フロルが「王女ルテア」が継承者である可能性もある、と読んでいるのも、そういう彼女の性格を知っていればこそだ。普通の思考であれば教団以外の者に継承させるという考えには至らないだろう。それでも、エルテミナならば「それも一興」と考えかねないのだ。
エルテミナは状況を楽しんでいる。フロルとの命の取り合いを。大聖堂デミエル・ダリア、ひいては今後のカイオディウムの命運を奪い合うこの展開を。そして遂にフロルを追い詰めるこのシナリオを、千年の時を生きながらえる長い旅路の途中にある、程よいスパイスであるかのように。
「……ふふっ」
「何ですか、突然」
フロルが不意に笑いを零したので、ミスティルが怪訝そうに眉を吊り上げた。
「いえ、全く……よく口が滑るものと思っただけです。あなたとは初めて出会ったのに、今語っても詮無き事をつらつらと……死を前にして、むしろ高揚してしまっているのかもしれませんね」
「……私には、わかりかねますが」
ミスティルは何と言葉を返していいかわからず、あいまいに呟いた。
「あの子を責めないであげてくださいね」
フロルは相変わらず、近々訪れる自分の死を予見しているとは思えないぐらいに穏やかな表情のままで、優しく語った。
「もしもあの子が継承者だったとすれば、あなたにはティタニエラからずっと嘘をつき続けていたことになるのかもしれません。けれどそうせざるを得ないほど、あの子は――――」
「それは別に。ヒトのことをとやかく言えませんので」
ミスティルはさらりと言った。フロルは少しだけ意外そうに目を丸くしたが、やがてほっとしたように言った。
「……あの子は、よい友人を得ましたね」