贖いしカイオディウム 第三話⑤ 合流
「聖騎士団の姿は既になく、大聖堂はほとんどもぬけの殻です」
「しかも枢機卿は、我々が姿を見せないことになんの疑念も抱いておられない。悟られましたな」
時は、総司が大聖堂デミエル・ダリアの“核”へと落ちる少し前に遡る。作戦決行まで十五時間を切った、結構前日の午後四時。
総司が大聖堂の中で悪あがきをしている間に、時計の針はどんどん進んでいた。
王女ルテアの私室にて、オーランドとライゼスが現状を報告した時、王女は微笑んだ。
大聖堂デミエル・ダリアは、聖騎士団はもちろん、高位の聖職者たちの居住区をも内包する巨大な建造物だ。しかし、数日前から徐々に、徐々に大聖堂から人気が消え始めていた。そして今日、大聖堂からは完全にヒトがいなくなった。フロル枢機卿を除いて、もう誰もいなくなっていたのである。
「……さすがに」
自室の窓から大聖堂の方角を見やり、ルテアが心から感服したように言った。
「そこまでとは思っておりませんでした……なんと誇り高い」
震える声には、歪んだ愛情表現が混じる。ルテアの感嘆にはもちろん、有り余るほどの敬愛の念が込められてはいるものの、それは穢れなき純真とはとても呼べない。
自分の死期を悟り、死にざまを美しく飾ろうとしている――――ように見えるフロルの行いを、尊いものだと賛美しながらも、手は緩めない。
そもそもここまでフロルを追い込んだのは他ならぬ王女ルテアの手腕である。真綿で首を絞めるように、フロルの周囲の最も力あるものを懐柔し、手札を揃え、どうにもならない状況を直前まで悟られずに創り上げた。
ライゼスは、窓辺に立つルテアがふと振り返り、妖艶に微笑む姿を見て、悪寒を覚える。
カイオディウムきっての使い手であるライゼスが、気圧される。
時代の傑物、少女の皮を被った化け物。例えばレブレーベントの王女アレインやリシア、或いは早熟なる天才ベルのような“わかりやすい”ものではない。
だからこそ底知れず、そして恐ろしいのである。
人心を弄ぶこの少女が予期していなかったはずもない。そこまでとは思っていなかった、という呟きは、あくまでも「想定はしていたが可能性の低い選択だろうと思っていた」程度の意味合いだ。フロルの性格を思えば、人払いを済ませ、たった一人で裏切り者たちを迎え撃とうとするこの展開も視野には入っていたはずである。
わずか十三歳の少女とはとても思えない。王女ルテアには、これからカイオディウムで起きる一連の事件の顛末全てが見えているかのようだ。目の奥に宿る不気味で妖しい輝きは、本当に王女生来のものなのかと、彼女を知れば知るほど疑ってしまう。
「枢機卿猊下は明確なる決着を望んでおられます。結末を先延ばしにする術はいくらでもありましたし、猊下にはそれを選択する自由があったにもかかわらず……この道を選び取られました」
王女ルテアの眼光が、言い知れぬ妖しい気配を帯びる。
「予定通り決行は明日の朝。ベルちゃんとミスティルさんによる先制攻撃を合図に、大聖堂を掌握し、猊下を捕らえます。オーランド」
「ハッ」
オーランドが大仰に臣下の礼を取る。白々しさを感じる所作ではあるが、王女ルテアにわかりやすい媚売りが通じないことはオーランドも承知の上だ。オーランド自身の立場を明確にするためのポーズというやつである。
「夜の内に“ラーゼアディウム”へ。私の合図はお待ちにならずとも結構。先に申し上げた通り、ミスティルさんによる大聖堂の護りの突破を確認したら、すぐに」
「承知いたしました。ライゼスは念のため、あなたのお傍に残しておきましょう」
「それには及びません」
オーランドの言葉にライゼスが頷きかけたところで、王女ルテアが微笑みながら遮った。
「ライゼス、あなたもオーランドと共に行ってくださいな。私の護衛は無用です」
「……どのような危険が降って湧いて出るか、わかったものではありませんぞ」
ライゼスは少しだけ顔をしかめて言った。
「お気遣いなく。全て、承知の上です」
ルテアの断固たる物言いに、ライゼスは引き下がろうとはしなかった。ぺこりと頭を下げて、オーランドと共に王女の私室を後にする。
二人が出て行ったのを確認し、そろそろ夕暮れの朱に染まる空を背景に、王女の笑みが殊更に深まった。
「リンクル」
王女のペット、紫の体毛を持つリスに似た獣・リンクルが、窓の外に音もなく現れた。王女はリンクルを部屋に招き入れると、餌を入れた器を差し出した。
「腹ごしらえが済んだら、ベルちゃんのところへ。気づかれないように張り付いておいてね。声は聞こえなくていいわ。行動さえ見れていればそれでいい」
リンクルはまさしくリスのように頬袋を膨らませ、皿に盛られた餌をありったけくわえこむと、そのまま目にもとまらぬ速さで窓から飛び出していった。
部屋の壁掛け時計をちらりと見る。
「あと八時間と言ったところでしょうか……お手並み拝見といきましょう」
誰もいなくなった夜の大聖堂は、あまりにも物寂しく、たった一日で廃墟の如くさびれてしまったように見えた。
時刻は、あと一時間もしないうちに日付が変わろうという頃合い。夜でも淡い光で満たされていたはずの礼拝の間は灯りを失い、巨大なステンドグラスから降り注ぐ月光でのみ内部を照らされている。魔法の光も人工的な光も存在しない空間は物寂しく不気味だったが、同時に言葉で言い表せないほど神秘的でもあった。
その中を、コツン、コツンと、出来るだけ足音を立てないよう気遣いながら歩く人影があった。その人影を捕らえて、礼拝の間で籠に入れられたまま、気まぐれに運試しを仕掛ける猿のような獣・ティムが、遠慮がちにきーっと鳴いた。
「しっ」
ティムに警告するように人差し指を立てたのは、リシアだった。リシアはそっとティムの傍に跪くと、懇願するように言った。
「頼む、しばし見逃してくれ。私にもどうにもならなくてな……」
ティムはリシアの言葉を聞いて頷く所作を見せ、押し黙った。
リシアがここにやってきたのは、“オリジン”によって導かれたためだ。リシアはついさっき、ベル、ミスティルと共に王女の私室に招かれて、明日の朝から開始されるクーデターの手はずに関して最後の確認を行った。
ベルはオーランドとライゼスがその場にいないことに訝ったが、しかしすでに作戦は最終段階に入っており、今更異を唱えたところで何かが変わるわけではないと、半ばあきらめているようだった。ミスティルの言っていた通り、ベルがミスティルを連れ帰り、古代魔法を手中に収めている時点で、このクーデターはもう引き返せないところまで進んでしまっていた。同時に、ベルは今回の事件の中心的な存在ではなく、駒の一つでしかないことも、ベル自身が自覚していた。あくまでも自分の目的を達成するため、最早王女の作戦に従うしかなかったのだ。
ベルの想いを汲み、せめて自分だけは彼女の望みをかなえようと、ベルの意向に従うミスティルとは違って、リシアは既に傍観的な立場となっていた。ベルの助力を決意してカイオディウムまで来たものの、事情が大きく変わった。当初の予定通り、“レヴァンフェルメス”の獲得を最優先事項とし、混乱の最中でいかに立ち回るかを考えていた。
だが、その目論見は思わぬ形で頓挫することになる。
王女ルテアとの打ち合わせを終えて、国王にあてがわれた部屋に戻った時、ベルとミスティルとは一旦別れていた。何やらベルはミスティルに話があるようで、リシアが気を遣ってその場を外したのだ。
そして部屋で一人となったついさっき、ルディラントで得た“オリジン”、海風の結晶たる“レヴァンシェザリア”が突如としてひとりでに動き出した。
手に入れた時と同じように、深い緑色の結晶がパキン、と四つの破片を浮かせて、一様に大聖堂の方角を指し示したのだ。
更に続いて、これまで目立ったアクションを示したことのなかったティタニエラの秘宝、腕輪の形をした“レヴァンディオール”が異様な魔力を放った。リシアはその反応を見て直感的に「付けてみろ」と言われたような気がして、リシアの腕につけるには少しだけサイズの大きいそれに、自分の腕を通してみた。
その途端、“レヴァンディオール”を装着した腕がぐいぐいとリシアの体を引っ張りだして、導かれるまま辿り着いたのが大聖堂デミエル・ダリアだったのである。
礼拝の間もそうだが、大聖堂全体から全くヒトの気配を感じないという異様な状況には驚いた。“レヴァンディオール”がリシアを引っ張る力は、大聖堂に到着すると同時に弱くなった。
女神が齎した恵み、女神の力の結晶。それらの一連の反応と導きの意味を、もちろんリシアは悟っている。
大聖堂デミエル・ダリアのどこかに女神の騎士がいるのだ。そうでなければあり得ない反応だ。
しかし問題がある。大聖堂は巨大過ぎる。最初にここを訪れた時に確かベルが言っていたのだったか。案内もなしに礼拝の間以外のところへ迷い込んでしまったら、出口もわからなくなること間違いなし、と。外から見るだけでも頂上が見えないほどの巨大さだ。ベルの言葉に偽りはないだろう。大聖堂内部では反応が薄れた“レヴァンディオール”をもう頼れない今、手がかりがなくなってしまった。いくら人気がないとはいえ、総司を探し出すにはどうすればいいのか見当もつかない。
しかし、だからと言ってさっさと王家の屋敷へ引き返すリシアではない。
「行くか」
あてもなく、これが今「正しい」行動なのかは定かではないが、リシアに迷いはなかった。彼女は聡明であり、同時に直情的でもあり、思考能力と同じぐらいに行動力もある。女神の騎士たる総司の幸運、その最たるものが彼女の存在だ。カイオディウムに来てからこちら、霧の中にいるように、与えられた情報の整理が難しく、今何をするのが「正しい」のか明確に答えのない状態が続いてはいるのだが、それはリシアから行動力を奪う一因とはならなかった。まずは、初めて礼拝の間を訪れ、そのままティタニエラへと飛ばされてしまった直前、フロルが降りてきた階段。そこを登ってみて、適当に内部に入って探索をする。レヴァンクロスで傷でもつけられればいいのだが、魔法的な護りが大聖堂全域に行き渡っているため、剣による傷も残らないだろう。出来る限り帰り道を覚えながら進まなければ――――
「ッ……何っ……!」
ズン、と大聖堂に奇妙な衝撃が走った。加えて、衝撃と共に大聖堂全体に走った強烈な魔法の気配を感じ取り、リシアは驚愕に目を見張る。
この魔法には、この魔力には覚えがある。ティタニエラで嫌と言うほど叩きつけられた別格の魔力。強烈な一撃に込められた魔力の質を、間違えるはずもない。
「ミスティル!?」
ミスティルの“次元”の魔法が大聖堂に襲い掛かって、何らかの影響を与えたのだ。礼拝の間の柱が不思議な輝きを一瞬放って、しかしすぐにその輝きも消え失せる。何かが起こったのは確かだし、予想もつくのだが、“これ”が起きるのがリシアの知る「作戦」の段取りよりもずっと早い。
「何故、今……? いくらなんでもまだ――――おぉっ!?」
続いて体が吹き飛ばされそうなほどの強烈な振動。先ほどの奇妙な衝撃とは比較にならない、大聖堂全体が縦に横に強烈に揺さぶられる大地震のような振動だ。リシアは大きくバランスを崩されて膝をついた。
「こ、今度は何が……はっ!?」
ミスティルの魔法の発動と、大聖堂を襲う謎の振動。これだけでもリシアの頭は大混乱だというのに、今度は礼拝の間の床全体が光り出した。
この輝きを覚えている。リシアも見たことのある魔法の光。それは、礼拝の間が持つ転移魔法の権能だ。ティタニエラに飛ばされた時と同じく、今まさに、そこにいる者をどこかへ飛ばしてしまう魔法が発動している。
“ジラルディウス”の発動が間に合わなかった。数秒の間に発生したイレギュラーが多すぎて、流石のリシアも思考が追いついていなかった。それに加えてまさかこの状況で転移の魔法が発動するとは全く考えておらず、想定外の事態の連続の中で対応しきれなかった。リシアが本来の反応速度で以て“ジラルディウス”を発動していれば、転移魔法の達成の直前に大聖堂の外へと飛び出すことが出来ていたかもしれないが、最早手遅れだった。
「くっ――――!」
リシアの体は転移魔法の光に飲み込まれ、飛ばされる。
目の回るような魔力の奔流にさらわれて、意識を保つことに集中するだけで精一杯な状態が数十秒続いた。
そして不意に魔力の奔流が途切れ、リシアの体がぽーんと投げ出される。
リシアは紅蓮に染まる天空の只中にいた。日の落ちる直前の美しい空。そろそろ夜になろうかという濃紺の闇と夕焼けの紅蓮が織りなす、自然のグラデーションの中に、カイオディウム首都ディフェーレスが鎮座しているという何とも鮮やかで幻想的な光景。夕焼けの光に照らし出された大聖堂デミエル・ダリアが、心洗われるほどに美しい。そろそろ日付も変わろうかと言うリシアの知る時刻と矛盾する世界。しかし、天空に投げ出されて落ちていく自分自身の何とも言えない浮遊感と、バタバタとはためく自分の服が、これが現実であることを証明している。
しかし、リシアは――――光機の天翼によって「自分は飛べる」という安心があるからだろうか。急激な場面の変化と、とんでもない高さから自由落下しているのだという現実の中にあって、自分ではないものに目を奪われていた。
「ああああああ落ちるぅぅ!!」
「何をしてるんだお前はァ!!」
数十メートルほど離れた場所、自分よりも少し高い位置に、救世主が悲鳴を上げながら落ちてきていたのである。