贖いしカイオディウム 第二話⑥ あなたの勝利を、心から
フロルが何故ここまで淡々と語れるのか、その心境を推し量ることは出来ない。
フロルが言う総司の「買いかぶり」とはつまり、ティタニエラでの冒険の功績で以て、ベルの目的、彼女自身が語った全てを手放しで信じている点を指しているのだろう。
総司もリシアも、カイオディウムの世情にも、その中枢にある様々な思惑の交錯にも疎い。もとよりリスティリアという世界は、それぞれの国のつながりが希薄だ。まさしく完全な異邦人である総司のみならず、他国の多くの者はカイオディウムの支配構造の全てを知る由もない。
己の目的を達成するための駒として総司とリシアを使いたいなら、ベルはいくらでも嘘をつける。と言っても現状、彼女はそこまで多くの嘘をついているわけではないが。
ベルの目的は最初からフロル・ウェルゼミットを殺すことだと聞いていたし、そこからエルテミナの話とつなげて、ベルの行動の果てにある最終的なゴールはエルテミナを滅することだと総司が推測していたに過ぎない。ティタニエラで語ったベルの話と彼女の口調からすれば、エルテミナを滅ぼすことも大きな目的の一つだろうが――――
それとフロルの殺害とが、ある意味では「切り離されている」目的なのだとまでは、総司もリシアも予想だにしていなかった。
「事は既に私がどうにかできる段階を超えています。そもそも想定外が多すぎます。継承者候補が複数いたことも、祖母の代で打ち込まれた楔が、私への継承の後も変わらず残り続けるということも……私の代で全てを終わらせるつもりだったのですが、完全に破綻しました。これでは、今現在の継承者を特定して殺したところでいたちごっこ……」
まだ事件は始まったばかり、いや、始まろうとしている段階でしかないのに、フロルの口調は全てを諦めきっているようだった。
「オーランドの最終的な……つまり、彼の利となるのはどのような結末なのかも読み切れていません。予想はあるものの今やあてになるとは思えない。しかも、これから起こる騒乱を万一鎮められても、エルテミナの意思と魂は恐らく生き残る……千年来、千載一遇の好機と思ったのですがね」
ベルとフロルの思惑がすれ違ってしまったことが、まさかこれほどの大事に繋がっていくとは、総司も思ってもみなかった。
総司自身も完全に混乱していた。ティタニエラを出てカイオディウムに入ってから、あまりにも考えることが多すぎて、総司は思考を整理しきれないでいた。
それでも何とかして情報を整理してみれば、総司に出来ることは一つだけだ。
「なら、ベルを説得するしかねえな」
とにかくベルを止める。生まれながらにして背負った血の呪縛が、彼女にとっては姉のように慕うフロルを殺す動機になるほど重いなら、総司の説得にどれだけ意味があるのかはわからないが、この国で総司に出来ることはそれしかない。
誰を信じればいいか、何を信じればいいかもわからない。総司はひとまず、ベルもフロルも信じている。だが、もしもこれまで見聞きした情報のどこかに嘘が混じっていたら、総司の行動一つがカイオディウムと言う国を崩壊させかねない。ベルとフロルがすれ違ったまま永遠に別れてしまう可能性がある。ベルを説得するのはもちろんだが、まずは彼女の真意を、彼女の殺意が継承者でなくなったフロルに対しても、これまで通りに湧き上がるのかを見定めなければならない。
「……私があなたにこの話を聞かせたのは、別に助けてもらうためではありません」
フロルはそっけなく言った。
「はあ? どういう意味だ。っていうかそれならひとこと言ってくれた方が良いんだけどな。手を貸せって」
「馬鹿なことを……所詮は一国の内側で起きている問題ですよ。世界を背負うべきあなたが、そこまで心を砕く必要もないのです」
フロルはぴしゃりと言って、総司を真剣な表情で見つめた。
「正しい歴史を知っていてほしかったのです。千年前のことがいい例ですが……これから起きる事件の後、私以外の誰かが大聖堂の主となった時、真実はきっとかつてと同じように覆い隠されてしまうでしょう。だからこそ、あなたが知っていることに意味がある。ですからあなたには、下手に首を突っ込んで死んでもらっては困るのです」
フロルは既に、この先の「敗北」と自らの死を覚悟しているようだった。
ベルとオーランドを旗頭として起こる騒乱に対し、フロルは大聖堂の権能で以て迎え撃つことになるだろう。しかし、少なくともフロルに与えられた大聖堂の護りは、このままいけばミスティルによって破られる。
大聖堂の権能に対し、力のある魔法使いであればわずかにでも介入が出来るのだとすれば、女神の所業を再現する奇跡の体得者、古代魔法の使い手たるミスティルであれば。
大聖堂の権能の内、たった一つだけ――――枢機卿に与えられる護りだけと言うなら、突破することも不可能ではない。
しかもなんの偶然か、フロルに与えられた無敵性とミスティルの“次元”の魔法は、フロルからしてみれば相性は最悪だ。フロルが大聖堂において決して傷つかないのは、大聖堂の中にいる間は「ほんの少しだけ高次元」の領域に、薄皮一枚隔てた「そこではないどこか」にフロルを押し上げるというものだからだ。フロルは目の前に確かに存在しているように見えて実は、総司と同じ領域には今いないのである。そういう護りを突破するためというなら、ミスティルをおいてほかに適任はいないだろう。
まるで全てが仕組まれているかのようだ。“こうなることが最初から決まっていた”かのようだ。
フロルの命が刻一刻と、世界によって消し去られようとしている。あらゆる要素が、フロルにとってはあまりにもかみ合わず、しかしフロルを殺そうとする者にとっては完璧にかみ合っている。
初めて肌で実感する、逃れられない運命の大きなうねり。世界が最初から決められた方向にしか進もうとしない、どうにもならない大きな流れ。かつてレブレーベント女王は総司に語った。大いなる運命の中で、ただ翻弄される一人に過ぎないのだと。
世界が定めた運命が、ひいては女神が定めたフロルの運命が、たかだかヒト一人が多少あがいたところで変えられることはなく。
フロル・ウェルゼミットはどうあがこうともこれから数日の内に死ぬのだと、フロルにも総司にも無情に叩きつけている――――
「お断りだ。大体なァ、ここまで知って見て見ぬフリなんてできやしねえんだ、どうせ」
知れず、総司の左目には虹の光が宿っていた。魔法の発動にまでは至っていなかったが、誇り高き伝説の国が彼に与えた反逆の煌めきが、総司の内に渦巻く決意と反逆の心意気に呼応している。
王ランセムより預けられた、運命に抗った者たちの誇りを、総司は万感の思いで受け取った。かの国の誇りを預けられたという事実に、心から喜んだ。
女神が定めた運命がなんだ。それを仕方のないことだと受け入れられず、千年悪あがきした彼に、“彼ら”に、心の底から憧れたから、総司は今、自分の意思で女神救済の旅路を歩んでいるのではないのか。
「だから俺は、“俺がどうしたいか”で動くと決めた。俺はフロルの言ったことを全部信じるぞ。お前がもし俺を騙そうとしていたらその時は、俺はその程度だったってことで良い。あれこれ考えるのはやめだ!」
得られた情報はあまりに多く、しかも整然とは与えられていない。雑多に詰め込まれたカイオディウムの情報の中で何が正しいのか、何が真実で何が嘘なのか、考えだして疑ってしまえばそれこそきりがない。
こういう時にどうするべきか。それも教わった。思えば総司は、彼にとって最も大事なことを全て、ルディラントから教わったのだ。
どうしてもそうしたいと思って初めて、総司は真に救世主としての価値を持つのだと。
「ベルを止めて、オーランドとライゼスってやつを止めて、エルテミナの意思と魂を何とかして滅ぼす! 全部やるぞ、フロル!」
「ッ……愚かな……できもしないことを口にするものではありません」
フロルが冷たく厳しい声で、総司の決意表明を切り捨てて立ち上がった。
もともと大柄な総司と並び立てば二人の身長差は際立つが、その差を感じさせないぐらいに、フロルの迫力は、決意を固めた総司を上回るものがあった。
自身を凡人だと評したフロルだが、それでもやはり幼い頃から為政者として、一国の頂点に君臨してきただけのことはある。
「“レヴァンフェルメス”はこの上にあります。それを持ってこの国を出なさい。アリンティアス団長と共に。カイオディウムで起きることには目をつむるのです。あなたの旅路にとって、それが最も――――」
「断る!」
「自分の立場と今の状況がわかっていないのですか、あなたは!」
国の秘宝を渡すという、かつてのフロルにはなかった選択肢を、フロルは容易く口にした。それだけ状況は変わり、切羽詰まっている。
初めて出会ったときとは、カイオディウムの状況が違い過ぎる。既に総司をある程度認めているフロルにとっては、今この瞬間を逃せば、“レヴァンフェルメス”を救世主の手に預けられるタイミングがない。
だが、総司は断固としてその申し出を拒否した。
「全部諦めてるっていうなら、俺がお前の言う通りにすることも諦めろ。俺はこのままベルのところへ走る。まずはアイツらと合流して、話をするところからだ」
「……全く……」
フロルは呆れたように笑った。
見目麗しく気品ある女性の、暖かみのある大人びた苦笑だった。
しかしその後に続く言葉は、総司が望んだものではなかった。
「世界を背負う男が一時の情に絆されてどうしますか。ここで大人しくしていなさい」
身を翻す暇もなかった。
周囲に浮かび上がる謎めいた文字が輝きを増して、総司の体を取り囲んだかと思えば、彼をその場に封じ込め、縛り上げた。
「うおっ!」
女神の騎士の膂力でも、振り払うことが出来ない。腕力だけでなく魔力も同時に、襲い掛かる不可思議な文字が創り出す鎖によって封じ込められている。
続いて、総司の足が沼のぬかるみに引き込まれるように、“断罪の聖域”の床に少しずつ沈んでいく。力を入れようと踏ん張っても、支えてくれる足場がない。
「おいふざけんな! フロル!!」
「“事が終われば”、“レヴァンフェルメス”の元へ出られるようにしておきましょう」
総司の叫び声にも耳を貸さず、フロルは淡々と言った。
「なんで……! 何を意地になってんだよ!」
ずぶずぶと、総司の体はゆっくり、しかし確実に、床へと沈み込んでいく。
左目に宿る第二の魔法、全ての魔法を消し去る力は、その範囲を制御することが出来ない。空に浮かぶ首都ディフェーレスの特徴を思えば簡単には発動できないものだと、リシアにかつて警告された。大聖堂デミエル・ダリアという巨大な建造物が『下』に落ちてしまえばとんでもない被害になってしまうために、左目で拘束を解くわけにはいかなかった。
「逆らうべきではないからです。これが――――女神様が私にお与えになった、私の運命だというのならば、私に出来るのは祈りを捧げることだけ……きっとこの運命は、私の死は」
既に半身が飲み込まれた総司に、フロルは笑いかけた。
悲しく、それでいて確固たる決意と覚悟が刻まれた、彼女にしては情けない笑顔だった。
「世界にとってもあなたにとっても、必要だから齎されるのですよ」
失念していた。たまたま神獣アニムソルステリオスによってフロルの執務室へと飛ばされた先で、予想外に親しげに、フロルと接してしまったものだから。
フロルは女神教の最も敬虔なる信徒であるということを、総司はすっかり忘れていた。リシアに聞いた女神教の鉄の掟、その六番目には――――
『死とは女神が与えたもうた絶対の終わり。逆らってはならず、恨みを持ってはならない。苦しみのない死と輝ける旅路のため、祈りを捧げよ』
「俺の旅路にフロルの死が必要だってんなら尚のこと、受け入れられるわけがない!」
文字の鎖の拘束がわずかに揺らいだ。
総司の本気の抵抗をも、かつて聖域だったこの場所の力は抑え込んでいるが、しかしやはり、完全に彼を封じ込めるのは一苦労のようだ。
「それが運命だって言うなら俺が否定してやる! ベルを止めて、世界を救って、そんなもん必要なかったって証明してみせる! だからやめろ、このままじゃお前本当に――――!」
フロルの悲しい笑みは、ベルを思えばこそだ。首を振り、相変わらず悲しげに笑うフロルを見て、総司は確信した。
フロルは、ベルのために死のうとしているのだと。
この先の騒乱を止めたければ、総司の言う通り、ベルとフロルが話をすればいいだけのことなのかもしれない。しかしそれでは、結局のところ、ベルを縛る呪縛がなくならない。
血の呪縛から彼女を自由にするためには、それしかないと。この場でベルを止めたところで、ウェルゼミットの血を引き枢機卿の地位にあるフロルが生き残る限り、ベルが真に解放されることはない。枢機卿の地位をスティンゴルドの家系に譲ったところで結果は同じだ。
葛藤の末に行動に出たベルが抱える確固たる覚悟は、くすぶったまま燃え残るだろう。これから先の彼女の人生でもずっと、彼女の根底に横たわるわだかまりとして残り続けるだろう。
総司からすれば、そんなものはベルが飲み込んで何とかするものだ、と言ってしまいたいが、フロルにとってそれは許せないことだった。ベルを妹のように想うフロルにとっては。
客観的な立場の総司と、様々なしがらみと因縁の只中にいるフロルとでは、今カイオディウムで起きようとしていることに対する認識と覚悟があまりにも違う。
その違いは、言葉で埋められるレベルを超えている。
「これから死にゆく私の言葉に、為政者からという価値はもうないのでしょうけど」
沈み込んで消えていく総司に、フロルは優しく声を掛けた。
「リスティリアの命運を託しましたよ、ソウシ。どうか必ず女神様を救ってください。短い付き合いでしたが、エイレーン女王があなたを信じた理由、私にも何となくわかりました」
総司の体が完全に飲み込まれる。フロルはつぶやくように言った。
「あなたの勝利を、心から祈っています」