贖いしカイオディウム 第二話④ 断罪の聖域にて
大聖堂デミエル・ダリアにおいて、フロル・ウェルゼミット枢機卿は絶大な権能を有する。それは大聖堂を代々護り抜いてきたウェルゼミット教団が、実に千年の時を掛けて創り上げた「力」だ。千年前の大事件をきっかけとして、非常に内向きな性質を持つに至ったカイオディウムの中枢。その深奥に触れることが出来るのは、枢機卿の地位にある者だけだ。
枢機卿の地位こそが、真なるカイオディウムの支配者である修道女エルテミナの魂を受け継ぐ器であり、大聖堂デミエル・ダリアはエルテミナの魂と意思を確実に、「その時」が訪れるまで脈々と受け継ぐために、大いなる権能を蓄えてきた。
フロルには、生まれ持った「戦闘」の才覚はさほどない。一般の荒事とは無縁の民に比べれば多少は秀でたものがあるだろうが、例えばレブレーベント王女のような、千年来の天才と謳われるほどの稀有な才能には恵まれていない。
彼女が抜きんでているのは、大聖堂デミエル・ダリアが蓄えた権能との親和性だ。教団を支配するウェルゼミットの系譜に生まれた彼女は、まさしく女神教の申し子として相応しい、圧倒的な適性を有していた。
それこそ、エルテミナの直系であるベル・スティンゴルドを容易く上回るほどに、だ。
魂と意思の継承を続けるウェルゼミットの系譜は、千年の時を経て遂に、エルテミナとの「相性」という点で、彼女自身の直系を上回った。フロルが枢機卿に選ばれたのは、生まれながらにして持ち合わせたその才覚に依るところが大きい。
だが、その候補が“フロル一人”であったというわけではない。フロルは最終的に選ばれた一人であり、何人かの「器」の候補が存在した。
フロル自身は、彼女がエルテミナの魂を継承してから、後継者となり得る存在を創り出してはいなくても。
その先代はフロルだけでなく、複数の「楔」を打っていた。
「想定していなかったわけではありませんが、可能性としては薄いと考えていました」
大聖堂デミエル・ダリアの巨大さは、その内部に入ってみれば、外から見るよりも更に際立っていた。フロルは総司を連れて、人目を避け、大聖堂の上へと続く外壁伝いの荘厳な階段を登っていた。
何百という柱が壁の役割を果たす巨大な階段は、大聖堂の尖塔の一つに沿って延々と続いていた。とんでもない数の柱が支える天井は高く、二人しか歩いていないのがあまりにも不自然に映る巨大な通路。柱の隙間から見える眼下の景色は圧巻のそれで、しかも柱があるものの魔法的な障壁もない。景色に興味を持った総司の背中をフロルが小突けば、途端に真っ逆さまである。
この場所では誰と出会う心配をする必要もないのが、フロルがこの通路を選んだ理由だ。枢機卿しか通れない、という単なる規則ではなく、これもまた大聖堂の権能の一つ。規則としてではなく物理的・魔法的に、この場所にはフロルと、フロルが許した者しか踏み入ることが出来ないのである。
巨大で複雑な内部構造をしている大聖堂、その端から端まで把握しているフロルからはぐれてしまえば、総司はいろんな意味で終わりだ。ヒトに見つかってしまうというのはまだマシな方で、下手をすれば彷徨った挙句飢えかねない。流石にそこに至るまでには、どこか壁の一つでも破壊する強硬策に出るだろうが、いかに総司の力が強大とは言え、大聖堂の強固な護りに対してどれほどの効力があるだろうか。
「先代の枢機卿――――私の祖母ですが、祖母が私を後継と定めるまで、いろいろと手を打ったつもりではいました。その信頼も厚いものと思っていましたが……勘違いだったようです。祖母は私の真意をいくらか察していたのでしょうね」
フロルは幼い頃、両親を失っており、祖父母と共に幼少期を過ごしたという。枢機卿としてカイオディウムに君臨した祖母よりも数段上の適性を有していたフロルは、“彼女の狙い通りに”、当然のようにエルテミナの魂と意思を継承した。
だが、フロルの祖母は、恐らくは確信までしていなかったにせよ――――大聖堂デミエル・ダリアの権能に対する圧倒的な適性と、女神教の聖職者としての完成された人格、その裏にある“何か”に気づきかけていた。
やがて、無限に続くかに思えた長い階段の終わりへとたどり着く。
十メートルを超える巨大な扉の前に立ったフロルは、両手を上へと翳し、何事か総司に聞き取れない言葉を唱えた。
扉の紋様に光が走り、開くというよりは霞のように消え去って、二人を内部へと招き入れる。
大聖堂の中枢も中枢、まさに枢機卿のみがその意味と存在を受け継ぎ続けた、大聖堂デミエル・ダリアの護りの要。この上にはもう一つしか部屋が存在しない、頂点にほど近いこの場所こそが、大聖堂デミエル・ダリアを絶対たらしめる空間だ。
「枢機卿の地位にない者がこの部屋に踏み入るのは初めてのことですよ。幸運でしたね、ソウシ」
フロルが静かに声を掛けるが、総司の返答はない。その部屋の神秘性を何と表現していいのかわからず、ただ圧倒されて、総司は言葉を失っていた。
広々とした半球形の部屋だが、そこかしこに階段ともスロープともつかない入り組んだ通路が走っていて、部屋の中を複雑にしている。半球形の空間を、総司には読めない文字、ルディラントの真実の聖域で、神殿の残骸の壁に刻まれていたものと似た文字が虚空に浮かび、周囲を気まぐれに旋回しては消えていく。文字たちとの遠近感は奇妙に掴むことが出来ず、触れられそうで触れられない。
部屋の中央には少し浮いた状態で、蒼銀に輝く鳥かごのような――――見ようによっては牢にも見える場所があり、その中に、金色の光が囚われるように鎮座していた。
蒼銀の輝きには覚えがあり、肌で感じる魔力の性質はなじみ深いものだ。総司と同質の魔力。それはすなわち、女神レヴァンチェスカに通ずる力である。
「“オリジン”じゃないな……これは――――」
「古くは“断罪の聖域”と呼ばれていた場所の最も重要な部分を、大聖堂へと取り込んだ場所です」
カイオディウムにおいて、かつて女神の領域と接続することのできた場所。大聖堂デミエル・ダリアが、“場所”として強大なる力を誇るのは、六つの大国に一つずつ存在した聖域を取り込んでいるからだ。
しかも、その範囲を驚くほど凝縮している。フロルの力で扉を開き、この部屋に入るまで、総司は女神の力を微塵も感じていなかった。ルディラントでもティタニエラでも、女神の領域と接続できたかつての聖域は、莫大な魔力が漂う神秘の空間で、面積と言う意味でも相当なものだったが、カイオディウムの聖域は違う。
巨大ではあるが、島一つというほどではない。女神の魔力を押しとどめるにはあまりにもこじんまりとした空間に、その力の全てを圧縮している。
「と、偉そうに語りはしましたが」
フロルは急に、少しだけ口調を崩して――――堅苦しく気難しそうな表情は崩さず、声だけちょっとおどけて見せるという器用な真似をしながら、言った。
「実は私も入るのは二度目。一度目もごく最近。やはりいいものですね、ここは。ちょっと毒になりそうなほど強い魔力ですが、たまに入る分にはイイ感じです。紅茶でも持ってくるべきでしたね」
「ティタニエラの“水飴”ならあるぞ。いるか?」
「ほう、良いですね。興味深い。一ついただきましょうか」
フロルが柔らかく腕を振るうと、光り輝く魔力がすうっと二人の元に集まって、二つの椅子を形成した。この部屋の中では、フロルは部屋に充満する魔力を意のままに操れるらしい。
総司が手渡したティタニエラの“固形化された水”を一粒口に含んで、フロルは途端に顔をしかめた。
「……飴と言うからには甘いのかと……ただの水じゃないですか……」
「これ一粒で半日分の水分が摂取できるらしい。凄いよな」
「ただの野営道具ですか。期待して損しました」
千年来、ヒトが踏み入ることのなかった秘境の甘味を楽しめるとでも思っていたのだろうか。わずかにクスリと笑う顔は見たことがあるものの、彼女の表情がここまで変わるのを初めて見た総司は、たとえそれが露骨に不機嫌そうなものであったとしても少し癒される気分になった。
光り輝く椅子に腰かけて、フロルは小さく息をつく。
誰にも邪魔されることのないこの場所は、フロルにとっては数少ない、気を緩めることのできる空間なのだろう。と言っても入るのは二度目らしいが。
「……あなたは意外とわきまえているのですね。もっと粗暴な印象でしたが」
「何だ急に。しかも失礼な」
「あなたの立場であれば私をもっと問い詰めたいはずですが、私の言葉を待っている」
かつてルディラント王に言われた人物評が思い起こされる。
わきまえるべき時をわかっている、と。それは嬉しい評価でもあった。総司自身がそう意識していたわけではないにせよ、総司が各国の為政者にそれなりに気に入られてきた理由の一つなのかもしれない。
「もったいぶっているつもりはないのですがね。何から話せばいいのやら」
「質問した方が話しやすいか?」
「……そうですね。試しにやってみましょうか」
総司は茶化すつもりで言ったのだが、フロルがすんなりと受け入れたので面食らってしまった。フロルは目を閉じ、椅子の背もたれに体を預けながら、もう総司を待つ態勢でいる。
「それじゃあ、まずは……エルテミナが既にフロルと共にはいない、というところだな」
「いきなり核心ですね」
「そりゃ一番聞きたいところだしな。さっき言ってたフロルの“真意”の部分だろう。教えてくれ。お前は一体何のために今日まで動いてきたのかを」
フロルはすうっと薄目を開けて、体を起こした。部屋の中央に鎮座する金色の光を見つめて、言葉を紡ぐ。
「そのものずばりを言いますが、私の目的はあなたが聞いた“ベルの目的”とほぼ同じです」
「……つまり――――」
「エルテミナの魂と意思を滅ぼすこと。女神様を害しようなどという考えは、私には微塵もありません」