贖いしカイオディウム 第一話⑤ 意思を愛でる獣
総司はヘレネを見つめ、素朴な疑問を口にした。
「ヘレネさんは、帰りたいと思ったことはないんですか?」
「……お前は?」
「俺は……正直、ホームシックになる余裕もなかったし、今も必死だし……元いた世界じゃ、『最初からいなかったこと』になってるって聞かされてるもんで。考えても仕方ねえかな、って多少は割り切ってはいます。ただ――――」
唯一の肉親、総司の存在を消し去られているであろう父を想い、総司はわずかに目を閉じる。
「このままいけば多分二度と会えないのは、そうだな……改めて考えてみれば、寂しくはあります」
もともと、あちらの世界での総司は最愛のヒトを失って、生きる気力に欠けていた。感情の起伏が希薄になり、心動かされることが少なくなったのだと、かつて女神は評した。他人に持つ情も薄れて、まともな感性からは少しばかりかけ離れてしまっていた自覚もある。女神と過ごした不思議な時間のおかげで、失いかけていた感情を取り戻したのだ。
「……そうかい」
ヘレネは再び湯呑を置いた。
「私は思ったことはないね。もともと夫と死別したばかりで、後を追おうかどうか迷っていたところだった。どっちの世界にもあのヒトはいない……だったら別に、どっちでもいいか、ってね」
総司が目を丸くした。
総司と同じだ。元いた世界で「死んでしまいたい」と願っていたら、召喚の対象となっていた。
もしかして、それがリスティリアに召喚される者の条件なのだろうか。自分ではない誰かの不幸に起因して自らも死を望む者。誰が選ばれるかもわからないリスティリアの魔法使いの「召喚」に応じるには、その条件がクリアされなければならないのだろうか。
「幸い、この世界はそれなりに面白い。得難い経験というやつだ。今のところは、もう少し生きてみようとは思っている。近い将来、逃れようのない死が来ることだしね」
ふっと笑うヘレネの表情を見れば、既に自死の選択肢はないことが窺える。
「お前はこれからも、世界を救う旅路を歩み続けるのかい」
「はい。今のところ、それ以外に俺の道はない。使命でもあり、そして俺が今一番やりたいことでもある」
「そうか。レブレーベントがお前にとってのはじまりの地ならば、このローグタリアは最後の地となるだろうね。次に会うのは、お前の旅の最終盤だ」
家の外に魔法の気配を感じ、総司がぱっと振り向いた。
扉の向こうで、魔法が発動している。警戒を露わにした総司が立ち上がりかけたが、ヘレネが留めた。
「心配ない。時間が来た、というだけだ」
「時間……?」
「まあ、座りな」
ヘレネの言葉に従い、もう一度座りなおす。ヘレネは総司をまっすぐに見つめた。
「そろそろお前も戻る時間だということだ。その前に大事なことを伝えておく」
「……はい」
よくわからなかったが、総司は頷いた。
「私に与えられた異世界の民としての特権は、“限定的な未来予知”だ」
「未来予知!?」
「あぁ、そう驚かないでおくれ。それと期待もしないでほしいんだけどね」
総司が声を上げたが、ヘレネは笑いながら首を振った。
「自分で使おうと思っても使えないし、ほんのわずかな予感を得ることしか出来ない。未来予知というのもおこがましい程度のものなんだけどね……お前の来訪も全く見えていなかったし、どこまであてになるかわからん力だ」
「でも、その話を今されるということは……」
「ああ。お前に必要な情報なんだろうと思う。ローグタリアの皇帝には伝えてあるんだけどね」
ヘレネは真剣な顔で言った。
「“神獣の王の目覚めが近づいている”。リスティリアの滅びは、お前の敵が齎すよりも少しだけ早く訪れるかもしれない……そういう予知だ。その場所はここローグタリアになるだろう」
「神獣の王……ですか……?」
ルディラントの“真実の聖域”において、四体の神獣が祀られていた部屋を訪れた時のことを思い出した。
床に描かれた「五体目」、山々を遥か足元に見下す巨大な存在の示唆。
「私はその時が来たら世界が滅びるのだろうと、漠然と思っていたんだけどね……お前の存在によって、そうではないのだとわかった。恐らく、お前がローグタリアで挑むことになる“最後の試練”なんだろう。いや……お前は挑まれる側かな」
ヘレネは目を閉じ、自分が見た未来の光景を思い出しながら語る。
「一人の少女がかの王を呼び覚まし、世界にというよりは、お前に挑む。女神救済を望まない者による最後の妨害だ。その戦いの勝者が、この世界の行く末に対する決定権を持つことになるだろう」
ヘレネはそこまで言って、ゆっくりと立ち上がった。総司も立ち上がったところで、ヘレネがその肩を優しく叩いた。
「何が言いたいかと言えば、とりあえずそこまでは見えているから、お前はきっとカイオディウムもエメリフィムもうまいこと乗り切って、ローグタリアまで辿り着くだろうってことさ。私はそう確信している。さっ、時間だ。もっとゆっくり私たちの世界について語らいたかったけど、今はちょっと早過ぎた。この出会いはきっとイレギュラーだろうからね」
「……残念です」
「そんな顔をしないでおくれよ」
ヘレネは心底残念そうな総司の頬にそっと手を当てて、優しく言った。
「ローグタリアに来て落ち着いたら、誰かに『ソネイラ山の老婆に会いたい』と言えば、案内してもらえるだろう。その時は泊まっていくといい。お前がこの世界で得た友達と一緒にね。さあ、お前も起きるんだよ」
腕を組んで座った姿勢のままうとうととしていたスヴェンを、ヘレネが足で軽く蹴った。
「おうっ! おっ……話は終わったのか?」
「時間だよ。お前もおいで」
家の外に出ると、目の前には謎めいた渦巻き状の、明らかに何かの「入口」に見える青と白の魔法の光が出現していた。総司をカイオディウムへと返すための転移魔法のゲートだろう。総司はそれを見て、呟くように言った。
「都合が良すぎる。そうだよな、おかしいと思ってたんだ」
総司はヘレネと、それからスヴェンを振り向き、軽く頭を下げた。
「ヘレネさん、なんだかよくわからないままお会いすることになりましたけど、貴重なお話が聞けて良かった。必ずまた来ます。その時には、もっといろんなお話を聞かせてください」
「もちろんだ。楽しみにしているよ」
「それと、スヴェン」
「おう」
スヴェンが返事をした。
総司はにやりと笑って、
「いろいろと世話になったな。道案内だけじゃなくて……気付きときっかけを与えてくれて、感謝してる。おかげで随分と落ち着けたし、もうちょっとカイオディウムで頑張れそうだ。ありがとう、スヴェン……の姿を真似した誰かさん」
「……いつ気づいた?」
スヴェンが呆気に取られた様子で言った。総司はにやりとしたまま、
「俺が知るスヴェンはこんなに長い時間葉巻を吸わずにはいられないし……多分俺の記憶を覗き見る力があんたにはあって、その姿を模したんだろうが、ちょっと抜けてるぜ。割れてる方が逆だ、逆」
スヴェンは自分が掛けているサングラスにぱっと触れた。片目の割れたサングラスはスヴェンのトレードマークの一つでもあったが、総司の記憶にある彼のものとは、ひび割れている場所が違った。
「あっはっは!」
ヘレネが笑った。スヴェンはばつの悪そうな顔で頭を押さえていた。
「それにコレだ」
目の前にあるゲートを指し、総司が続ける。
「こっちに来るときは意識を失ってたけど、流石に目の前にすりゃわかる。っていうか誰より“お前ら”が知ってるはずだ。俺とお前らの魔力の気配はよく似てる、そうだろ?」
「……さっさと行けよ。女を待たせるもんじゃねえぞ」
「だーからそれもスヴェンが言うことじゃねえって……言ってやりたいもんだぜ全く。お前ともローグタリアでまた会えるかな」
「恐らくな」
「良かった」
総司はヘレネとスヴェンを交互に見て言った。
「旅を続ける楽しみがまた一つ増えた。いずれまた。お世話になりました!」
「気を抜かないようにね。私の予知が明るい未来を示すものだと証明しておくれよ」
「俺も楽しみにしてるぜ、救世主」
総司は再び頭を下げて、振り返ることなく魔法のゲートへと飛び込んでいく。
その姿を見送って――――ヘレネがくすくすと笑いながら、隣に立つスヴェンに声を掛けた。
「手の込んだことをした割には締まりのない最後だったね。あの子のためだったんだろうに」
『……少しばかり考えの足りない子なのだろうと、勝手に見くびっていたけど』
奇妙に反響する、スヴェンのものとはかけ離れた「女性」の声が、スヴェンの口から出た。
ぐにゃりと、緑色の外套を羽織るスヴェンの姿が湾曲する。
『抜けてはいない』
「お前と違ってね」
『うるさい、ヘレネうるさい』
湾曲し、再び姿をはっきりと現した時、それは女性の姿をしていた。
天女のようなふわふわとした衣を纏う、金色の長髪を靡かせる絶世の美女。淡く白く発光する魔力を身に纏うその姿が醸し出す気配は、女神に連なる神獣のそれ。見た目の完成された美貌とは裏腹に、その口調はどこか子供じみていた。
「どうしてわざわざここまで連れてきたんだい? 今この時に。どうせここに来るだろうに」
『ジャンジットまで出会ったというから、これじゃワタシだけ仲間外れだと思って会いに行ったら』
天女のような女性の姿は、ルディラントの“真実の聖域”に存在した神獣を模した石像とは似ても似つかない。
何故ならばこの存在は自分の姿かたちを、「相対する者の心情」を落とし込んで変えることが出来るからだ。
『随分と“良くない感情”に囚われて、目の前のことしか見えなくなっていたから。思い出してもらっただけ。あの子はここまで来なきゃいけないって』
「ほーう……?」
ヘレネはからかうように、ちょっとなじるように言った。
「お前たちがしくじったからあの子が頑張る羽目になったっていうのに、随分と偉そうなことを言うじゃないか。流石、神獣様は言うことが違うねぇ、“アニムソルス”」
『うるさいヘレネ、うるさい』
四体目の神獣、“意思を愛でる獣”アニムソルステリオス。総司が順当に進むとすればローグタリアで邂逅することになっていたであろう最後の神獣であり、同志である。
「さて、予知を教えたことが吉と出るか凶と出るか……お前の狙いはわかるがしかし、裏目に出るかもしれんよ」
『裏目? って?』
「今のカイオディウムがいろんな意味で難攻不落に近いのは知っているだろう。目の前のことに囚われていてはならない、それは確かだが――――」
木造りの家に戻りながら、ヘレネが神妙な面持ちで言った。
「行く先に大変な試練が待ち構えているからと言って、カイオディウムを事のついでに攻略しようなどと油断してしまったら、そこで終わってしまうかもしれないよ?」
『大丈夫』
アニムソルステリオスは、美しい顔に自信満々の色を浮かべて、胸を張りながら言った。
『決着が早まるように、ちゃんと送り届けた』
「……おい、おい、ちょっと待ちな……」
神獣の視点や思考は、ともすればヒト、或いは他のリスティリアの意志ある生命からかけ離れがちだ。 “意思を愛でる獣”たるアニムソルステリオスは、その愛ゆえに空回ることが多々ある。
「お前まさか、とんでもないことをしでかしたんじゃ……」
ヘレネの嫌な予感は的中することとなる。
総司はアニムソルステリオスによって、確かにカイオディウムへと再び戻された。
戻されたまでは、良かったのだが。
「はっ……?」
「おっ……え?」
魔法のゲートを抜けて、未だ慣れない「次元酔い」の気持ち悪さを何とか振り払い、視界を取り戻した総司は、“らしくもない”間の抜けた声を聞いた。
天井の高い広々とした執務室。豪華な椅子に座ってデスクに向かったまま、総司の方を見て茫然としているその姿には覚えがあった。
銀色の髪を結い上げ、純白の聖職者の服を身に纏う、端正でありながら怜悧な顔で総司を見つめ、呆気に取られているその姿。
「女神の……騎士……」
「……お久しぶりです……枢機卿猊下」
カイオディウムの冒険譚における最重要人物、フロル・ウェルゼミット。
総司はアニムソルステリオスによって、彼女の執務室に転移させられたのである。