混濁たるティタニエラ 第九話⑥ 清廉たる名を
その魔法は、規模が違った。
精霊の現身を中心に、銀の光を帯びた爆裂、その破壊の波が押し寄せる。
巨体から放たれるミスティル渾身の一撃。全方位へ広がる爆裂は火柱となり、大地を蹂躙しながらすさまじい速度で三人へと迫った。
吹き飛ぶ瓦礫は全て、銀の爆裂と共に跡形もなく消え失せていく。単なる破壊の魔法に留まらない、“次元”の魔女たるミスティル最大の魔法は、触れるもの全てに不可逆の消失を与える。
総司の左目に再び、白の強い虹色の光が宿った。だが、左目に走る痛みと共に総司は悟る。
この魔法は、総司の持つ無敵の護りを以てして、無力化が「追いつかない」。
だが、やるしかない。ベルを後ろへやった以上、総司一人で攻撃を「かわす」という選択肢はない。痛む左目に力を込めて、ミスティルの魔法を迎え撃つ――――!
「バーカ」
総司の後ろから、彼の腕を、肩を力強く掴んで、ベルが笑いながら言った。
「あなたしか勝ち目ないんだから、カッコつけなくていいの」
銀の光が、二人を飲み込んだ。
空中を舞うリシアは、遥か天にいても追いすがってくる破滅の力を紙一重でかわし続けた。しかしその意識は、地上にいる二人へと向けられている。
「二人は……!?」
破滅の光はクルセルダの最奥をことごとく蹂躙し、やがてすうっと収まっていく。黒い稲妻を地上へ叩きつけていた暗雲も、ミスティルが魔法の発動を止めたと同時に彼方へ消え去り、青空が戻ってきた。
削り取られた聖域の端、総司はベルに吹き飛ばされ、押し倒されて、何とか無事に生き残っていた。
ベルも無事だ。総司をかばってわずかにでも消滅の力を受けたはずだが、生きている。
しかし、その左腕と左足は青黒く変色し、恐らくはもう動かないことが見て取れた。ミスティルの齎した消滅の力に、高い魔力耐性で以て対抗したようだが、現世最強の魔女の力を前にしては、希代の天才ベルの対抗策も虚しく散った。
「ベル……! ベル!」
自分を押し倒すベルの体をぐいっと助け起こして、意識が飛びかけた彼女の名を呼ぶ。ベルは情けなさそうにかすかに微笑んだ。
「ごめんね……足、引っ張ってばかりで……」
「違う、そんなことはない! 済まない、またお前に助けられた……!」
「私のことは置いて……行って、ソウシ。結構な力を使ったみたいだし……今なら、届くかも……」
「……いいや」
総司は決然とした表情で、リバース・オーダーを手に取る。ベルの体を片腕に抱いたまま立ち上がり、力強く言った。
「大丈夫だ、任せろ」
「左半身が動かないんだよ……無理だっつの……あたしのせいであなたもリシアも死んだりしたら、あたし……」
「むしろ逆だ。ベルがいてくれたおかげで、“この状況”にまでこぎつけた。だから――――」
リバース・オーダーをガン、と足元の瓦礫に突き刺して、総司は言った。
「ここから先は、俺達の番だ」
リシアがヒュン、と飛んで、総司の頭上数メートルのところまで戻ってきた。
総司の周囲に、凛とした清涼なる魔力、蒼銀を纏う女神の力が溢れ出る。
それは単なる突撃の予兆ではなく、魔法の前兆。あまりにも強大な敵を前にして放つ、逆転の一手。
妖精郷ティタニエラにおいて、真に救世主とその相棒として互いを支え合うと誓った総司とリシアに、女神レヴァンチェスカが与えた“第三の魔法”。
かつて女神は、凄惨な悲劇を体験したがために心が折れかけた救世主に言った。
誰が、一人で全てやれと言ったのか。
リスティリアの優秀な者たちを存分に頼り、与えられた以上のものを返して報いろと。
この魔法こそは、救世主とその相棒が「孤独」ではないことの証。
同時に――――憎悪と悔恨の念に囚われて、ずっと一人で戦ってきた少女を救う、希望の旋律。
「お前がどれだけ気に食わなかろうと、俺は意地でも……」
エルフの隠れ里にあった破壊の痕跡を見た時、総司は自問自答した。
得られた答えは、たとえミスティルが敵であろうと、自分には斬れないという単純明快なものだった。そしてそれは今も変わっていない。
「お前を討たずに止めて見せる」
蒼銀の魔力が、ふわりと淡い緑色へ変わった。大自然を象徴するかのような光が、瓦礫に突き立てられたリバース・オーダーを中心に広がり、剣もまたいつもと違う、あたたかな緑色の光を湛える。
「でも俺一人じゃ無理なんで。ちょっと手を貸してもらうぞ」
リバース・オーダーの柄に手を当てて、その魔法を発動する。
「“ティタニエラ・リスティリオス”!」
淡い光が輝きを増して、リシアとベルの体を包み込む。リシアが背負う機械仕掛けの翼が、その光に呼応して新緑の輝きを放った。青黒く変色したベルの腕が、足が、ヒトの本来の色を取り戻し、力強さを取り戻す。
増大する二人の魔力。孤独なる戦いを否定し、リスティリアの生命が一丸となって世界の危機に立ち向かうため、その中心足り得る存在が「力を分け与える」魔法、ティタニエラ・リスティリオス。
女神の騎士が持つ無尽蔵に近い魔力を、彼のみならず、彼が頼ると決めた存在に分け与える。それは単なる魔力の補助、強化に留まらず、女神の騎士にのみ与えられた特権の一時的な行使を認める行い。ベルは総司に与えられた力の大部分を「損傷した体の修復」に費やすこととなったが、万全な状態だったリシアはまさに、総司に準じるほどの力を手にしている。
「なるほど……」
レヴァンクロスを握る手に力を込め、リシアが決然とした表情で呟いた。
「この力、借り受けたからにはしくじるわけにはいかないな」
「ああ。次で最後だ。頼むぜ、リシア」
総司はリシアに笑いかけ、リシアも薄く微笑んで頷き、応える。ベルの体をそっと離して、総司は言った。
「ありがとな。無理をさせた……許してくれ」
「あたしも行ける!」
ベルが懇願するように言ったが、総司は首を振った。
「お前も弱ってんだ。それに、十分よくやってくれた。あとは任せろ」
ベルは納得がいかない様子だったが、総司も有無を言わせない。仕方なく引き下がるベルの姿を見て、総司はまた少し笑った。
「……それがあなたの切り札ですか?」
ミスティルの声が反響して、三人の元へと届く。
島一つを蹂躙して余りある魔法を使い、ミスティルも疲弊している。だからこそ総司は第三の魔法を使った。逆転の一手となり得る唯一の手段をぶつけるタイミングがあるとすれば、まさに今この瞬間だと判断した。
しかし、ミスティルの余裕は少しも崩れていない。むしろ、総司の最後の希望が、「仲間を強化する」程度のものだと見破って、失望したようにも見えた。
「あなたの攻撃ですら、私にも精霊にも届かなかったというのに。それに劣る力を一つ増やしたところで何が出来るというのです。私もこの目で見ていましたが、あなたの膨大な魔力とて、決して無限ではないでしょうに」
無駄なことを、とでも言いたげに。ミスティルは相変わらずの凄惨な笑みを浮かべて、総司の愚策をあざけった。
隙を晒し続けた総司たちを、彼女が自ら攻撃しようとしないところを見るに、ミスティルの疲弊は間違いがない。だが、それも一時のことだ。
ミスティルが満足に動けないであろう、この瞬間に。
精霊の現身を粉砕し、ミスティルの暗い野望を終わらせる。だが確かにミスティルの言う通り、総司の究極の攻撃が通じなかった以上、リシアと共に仕掛けたところで完全な撃破に至るか確証はない。
「そいつはちょっと間違ってる」
総司はにやりと笑って、ふと天を仰いだ。
「俺に劣る力なんてここにはないし――――俺よりすげえのが今来たぞ!」
巨大な翼が、天を切り裂く。
くすんだ銀の鱗が、空に取り戻された日の光に照らされて鈍く煌めいた。天から轟く覇者の咆哮は、あらゆる生命を震え上がらせ、かの神獣への畏怖を思い出させる。
ミスティルの余裕の笑みが消し飛んだ。
「ジャンジット、テリオス……!」
リシアが飛んだ。神獣の咆哮を聞くと同時に、彼女の体は一条の光と化し、大きく旋回して、総司と、そして神獣・ジャンジットテリオスの攻撃範囲とは別の角度へ回り込む。
ジャンジットテリオスもまた、二人と共に三角形の頂点を為すように、精霊の現身の斜め後ろへと、大きく翼を広げて旋回し、陣取る。既に臨戦態勢を整えたかの神獣は、口元に濃紺と紫が入り混じる凄まじい魔力の奔流をため込んでいた。
ミスティルが両腕を振り上げた。しかし、これまで驚くほど優雅に魔法を放っていた彼女の反応が、あまりにも鈍かった。
総司の言葉の何かが、彼女の逆鱗に触れていた。やはり戦闘経験の無さが出てしまった。冷静さを欠いた彼女は、必要以上に強大な、本来であれば彼女の望み通り「世界を滅ぼす」段階に至って存分に行使するはずの魔法を解き放ち、その反動を食らっていた。
何よりも最後まで、ミスティルは理解できていなかった。それが全ての分岐点でもあった。
総司が、リシアが、何が何でもミスティルを“殺さず止める”と堅く決意している理由も。
どんなに絶望的な戦力差を見せつけようとも、決してその決意が覆ることがないという事実も。
一人で苦悩し、一人で憎悪し、一人で全てを為そうとした彼女には理解できず、納得できず。
それ故に、神獣の力を借りてまで「ミスティルではなく精霊を粉砕する」所業の達成にこだわり、成し遂げようとするとは思っていなかった。
決定的だったのは、その認識の差。
総司が踏み込む。蒼銀の魔力に淡い新緑の輝きが混じる。
リシアが剣を振りかざす。機械仕掛けの翼、その片翼が、縦に走る亀裂に沿って細かく分裂し、リシアの周囲へ展開されて強烈な魔力の輝きを放つ。
ジャンジットテリオスがその巨大な口を開ける。濃紺と紫と黒が入り混じった莫大な魔力が今まさに解き放たれる。
ミスティルはもう、どうすることも出来なかった。
「“シルヴェリア・リスティリオス”!!」
「“レヴァジーア・ゼファルス”!!」
正面から突進する蒼銀と新緑の流星。
左からは、リシアが剣を槍のように突き出して放ち、それを合図に分裂した翼のそれぞれからも発生し襲い掛かる、金色の魔法の光。
右から迫るは無双の息吹。最も強靭なる生命が放つ全身全霊の一撃。
最早ミスティルに、それらの攻撃を防ぐ術など存在しなかった。
炸裂する魔法の閃光。総司の力はもちろんのこと、第三の魔法“ティタニエラ・リスティリオス”によってその力を底上げしたリシアの魔法もすさまじい威力を誇っていた。そして神獣の本気の一撃は、敢えて語るまでもなく。
もしも、ミスティルがクローディアから奪い取り使役する「精霊」が、完全な状態での顕現を達成していれば、及ばなかったかもしれない。いや、そもそも完全な顕現が達成されていたら、先ほどのミスティルの魔法で勝敗は決していただろう。
“ここ”に至ったのは運が良かっただけだった。精霊の完全顕現が完了する一歩手前だったこと。ミスティルの経験値が少なく、総司やリシアの言葉の何かが逆鱗に触れてしまったことで、必要以上の力を使ってしまったこと。その力を前にして、恐怖を跳ね除けて総司を護ったベルがいたこと。
いくつもの偶然が積み重なり、総司たちに優位に働いた結果が――――
精霊の現身の撃破、ひいては、現世最強の魔女の打倒に繋がったのだ。
リシアとジャンジットテリオスの魔法は、いうなれば遠距離攻撃だ。だが総司の持つ最大の攻撃魔法“シルヴェリア・リスティリオス”は、破格の魔力と共に総司自身が突っ込むことになる。
故に、炸裂する魔法と莫大な魔力の奔流の中に身を置くことになったのは、総司と、そして精霊の現身の眼前にいたミスティルだけだった。
次元の魔女の力と、女神の騎士の力が溶け合い、拡散する。
炸裂する眩い光の中で、総司は見た。
小さな女の子が泣いている。膝を抱えて、さめざめと、止まることのない涙を流している。
子供でありながら、しかし喚くこともなく。静かに、ずっと、悲愴に満ち溢れた表情のままで涙を流し続ける彼女の体はやがて、幼い少女の姿から、徐々に完成された女性へと近づく成長を見せるが、その姿勢も、流す涙も変わらない。
悲愴に暮れて、その悲しみを乗り越えることが出来ないまま、彼女は今に至ってしまった。可憐でお人よし、善性に溢れる演技を続けていた彼女の本心は、悲愴に暮れた幼き日のまま。
時を同じくして、ミスティルもまた目撃することとなる。
ティタニエラでも、外の世界でも見たことのない、整然とした部屋の中で。
ベッドの上に横たわる少女の手を握り、歯を食いしばって涙を流す少年の姿を見た。愛を語る少女と、それを聞きながら涙を流すことしか出来ない情けない少年の姿を、確かに見た。
心から愛したヒトを失った、救世主の悲愴をミスティルに見せつけた。
次元の魔女がその力を注いだ精霊の現身、その体の霧散は、まさしく二人に「次元を超えさせて」、時の隔たりも世界の隔たりも関係なく、互いの全てを見せ合った。
やがて光が収まって、総司は瓦礫の上に投げ出される。ミスティルもぼとりと乱暴に落とされた。