混濁たるティタニエラ 第九話③ 星の帳
床の亀裂に、黒い魔力が走った。
駆ける魔力がそのまま刃と化し、総司の眼前に迫る。
目にもとまらぬ速さで、リバース・オーダーが振り抜かれた。蒼銀の魔力が拡散し、黒い刃を一閃の元にかき消す。
それだけの、一瞬の小競り合いが、決戦開始の合図となった。
「“レヴァジーア・ディスタジアス”」
その詠唱は、伝承魔法に通ずるもの。ミスティルがふわりと片手をかざして唱えた魔法は、不可思議な銀の光を爆裂させ、総司がいた空間を爆発と共に薙ぎ払った。
びりびりと伝わる衝撃が、その攻撃のすさまじさを物語る。神殿の床は抉れ、爆心地のような状態となった。
まるで小手調べの如く、ふと零した程度の魔法が、街の一角を薙ぎ払えるほどの威力だった。
「――――甘いヒト」
ミスティルはつぶやくようにそう言って、鋭く腕を払った。
一瞬で距離を詰めていた総司の体が、黒い魔力の刃に横なぎにぶつけられ、弾かれた。魔力の刃を剣で弾きながらも、総司の体は地面を滑った。
「“獲れた”でしょうに」
「チッ……! わざと隙を晒しといてよく言う……!」
空を切り裂く音がする。ミスティルは優雅に、それでいて驚くほどの速さで、自分の左側に吹き飛ばした総司とは逆方向へ腕をかざした。
銀色の猛烈な爆裂。空中で起爆したミスティルの魔法を、女神の剣が切り裂いた。
ミスティルの眼前に迫った剣は、しかし、ミスティルの足元から鋭く出現した黒き刃に阻まれる。
「そうでしたね」
“ジラルディウス”の翼を纏ったリシアと視線をかわし、ミスティルが微笑んだ。
「その翼を背負うあなたは、“ただのヒト”ではありませんでしたね」
「ミスティル……!」
「はい、何でしょう」
踊るような動きでミスティルが腕を振るった。連鎖する銀の爆裂。リシアは目にもとまらぬ速さで空中を不規則に飛び回り、ミスティルの攻撃範囲から素早く逃れた。
「あら」
リシアを捉えるつもりで魔法を放ったらしく、ミスティルが意外そうに声を上げた。
「想定の倍は速い。しかも鋭い。ジャンジットテリオスとの戦い、もしかして本気じゃなかったんでしょうか」
それはリシアの生存本能によるだけである。
ジャンジットテリオスは、結局のところ総司やリシアを殺すつもりはなかった。しかしミスティルは違う。一撃一撃が本気のそれ、憎悪と殺意を纏う殺戮の攻撃。
命を奪おうとする行いに、寸分の躊躇いもなかった。
「一応忠告はしておきますが」
黒い刃が再びミスティルの足元から鋭く現れて、背後から狙いすましたベルの蹴りを容易く受け止める。
「あなたはお二人の邪魔になるだけですよ、ベルさん」
「らしいけど、見てるだけってのは性に合わなくて!」
「そうですか。嫌いじゃありませんよ、あなたのそういう自分勝手なところ」
ベルへの攻撃が放たれる前に、総司がミスティルに肉薄した。
もとよりベルにはさほど興味がないらしい。ミスティルは銀の爆裂を齎す魔法を使わずに、黒い魔力でベルを容易く吹き飛ばすと、眼前に迫った総司を凄惨な笑顔と共に迎え撃った。
黒と銀が入り混じる、稲妻のような、炎のような魔力の奔流。総司が纏う女神の魔力と互角に張り合うミスティルの力は、時を追うごとに強まった。
「“シュラス・サレルファリア”――――!」
空中で風を纏い、態勢を立て直して、ベルがムーンソルトを繰り出した。
その動きに呼応するように、かまいたちのような攻撃がミスティルへと飛ぶ。ミスティルは相変わらず、優雅な腕の一振りでベルの魔法を消し去って見せた。総司の剣を受け止めながら、である。
ズン、と二人の周囲に衝撃が走り、床が割れる。ミスティルがわずかに意外そうに目を見張った。
ジャンジットテリオスが課した試練を超えて、総司の膂力が格段に上がったのはミスティルも知っていた。ミスティル自身がその目で見ていた。
しかし、これも想定を上回っている。
「力比べではやはり、互角以上とはいきませんか」
異質な魔力のぶつかり合い、激しい攻防の中で、ミスティルは楽しそうに笑った。
「当然ですよね。ヒトとエルフの違いはあっても、屈強な男とか弱い乙女ですもの」
軽口を叩きながら、総司に対して素早く魔法を放つ。
「“セグノイア・ディスタジアス”」
ミスティルが一瞬の隙をつき、総司の体に触れる。
次の瞬間には、総司とミスティルは共に遥か上空にいた。
クローディアによって顕現した異形の精霊、その巨体の頭上よりも遥か天空に。
「う、おっ――――!」
空間転移。しかも自分一人でなく、触れた相手まで連れて、一瞬で。
わずかな予備動作も、魔法の陣をあらかじめ施しておくような補助も必要とせず、容易く、高難度の奇跡を達成する。
「あぁ、そういえば。あなたは飛べないのでしたね」
空を泳ぐように、ミスティルは空中で体を操り、今度はミスティルから総司に迫った。
キィン、と高い金属音が耳を打つ。
「“レヴァジーア・ディスタジアス”」
本気の一撃が空中で炸裂した。銀の爆発はしかし、総司を捉え切ることは出来なかった。
まさに神速に達したリシアが、すんでのところで総司を確保し、ミスティルの攻撃範囲から一気に逃れたからだ。
「ふふっ!」
ミスティルの余裕は崩れず、むしろ総司とリシアの抵抗を心から楽しんでいる。
二人が着地するのを待って、ミスティルはゆっくりと天空から降りてきた。その目は総司ではなくリシアを射抜いている。雪の結晶のような銀の光が宿る目は、不気味さを更に増していた。
「隠していたのだから当然のことですが」
ミスティルは軽い口調で言った。茶飲み話でもするように。
「“星の雫”以外の魔法をお見せするのは初めて……今の一手を予見できたはずもありません。“見てから”飛んで間に合ったということです。ジラルディウス・ゼファルスでしたか? 実に素晴らしい力……そしてあなた自身の反応も……研ぎ澄ましていますね、リシアさん」
翼を持たずして容易く空を舞うミスティルも、リシアの脅威を理解した。
概念としての「次元」は「世界の構造」を意味する。数学的な意味ではなく、あらゆるものの構成要素を端的に指し示す言葉だ。
世界の構成要素をわずかに掌握するミスティルは空間を超越すると共に、その気になればあらゆる防御をも突破する。
しかしそれでも、空を自在に飛び回るリシアを相手に空中戦を挑むのは分が悪かった。総司の膂力を半減させるためには、彼を空中に放り出してしまうのが手っ取り早い方法だが、空はリシアの領域だ。
「ミスティル、私の話を聞いてくれ」
「ええ、構いませんよ」
リシアの叫びに、ミスティルはにこやかに返事をした。
狂気じみているわけではないのだ。彼女は、聞く耳を持たないわけではないのだ。
話したところで、もう無意味なだけで。
「私も八年前、両親を失った」
「……そうですか」
「カイオディウムの暴動に巻き込まれて二人は死んだ。君がヒトという種族を恨んだように、私も原因となった者たちを恨んだよ。この手で殺してやりたいと思ったことも、何度もある」
ミスティルの口元に浮かぶ笑みは消えない。
「私にはそうできるだけの力がなかった。君にはあった。だから今、こうなってしまっている」
「そうですね……そうかもしれませんね」
「けれどそれだけじゃない」
いつ、どんな攻撃を仕掛けてくるかわからないミスティルを、油断なく見据えながらも、リシアは必死で言葉を紡ぐ。
「私は両親が死んだすぐ後にカイオディウムを飛び出した。そしていろんなヒトに出会って、この世界は、私が恨んだ者たちのようなヒトばかりではないと知った。この翼を手にした今も、力があるから復讐しようと思っていないのは、その経験があったからだ」
「……なるほど」
ミスティルはクスクスと笑って、
「その経験は、“あなたにはあって、私にはない”と」
「そうだ、そして今からでも遅くないんだ!」
懇願するように、リシアの口調の必死さは増した。
「認めよう、下賤な輩は確かにいる! でもそれだけじゃないんだ! 君が思っているよりもずっと、ずっと世界は――――」
「ずっと世界は幸福で満ちていて、私よりも幸せな生命がたくさんありますね」
リシアの体が、総司に捕まえられて横へ吹っ飛んだ。
リシアが立っていた場所が銀色の爆発に包まれた。しかもその規模は、これまでの魔法とは比べ物にならなかった。猛烈な爆風と轟音が周囲を包み、衝撃波が広がる。
ギリギリだった。“ジラルディウス”の翼を携えたリシアの反応速度はすさまじいものがあるが、ミスティルの説得に必死になるあまり、予備動作をほとんど必要としていないミスティルの攻撃に対して反応が遅れてしまった。
リシアよりも更に研ぎ澄まし、ミスティルを警戒していた総司がいなければ、今頃リシアの体は木っ端微塵だっただろう。
「何度も何度も、外へ出ましたよ、リシアさん」
初めてティタニエラを訪れた時、クローディアがミスティルを窘めていたことを思い出す。
里の外へ出る時は誰かに必ず帰りの時間を告げるように。その言いつけを、どうやらミスティルは何度も破っているらしかった。
ミスティルは隠れ里の外ではなく、ティタニエラの外へ出ていたのだ。ヒトの世界に触れ、ヒトの世界をその目で見ていた。
「見ていたところが悪かったのかもしれませんけど」
溢れ出る漆黒の魔力が、ミスティルの体を霧のように包む。その姿はまさに悪魔、或いは死神。ふわりと黒き精霊の前に浮かび上がる彼女の姿は、終焉を齎す邪悪な敵そのものだ。
「ヒトを知るほど、私の決意はゆるぎないものとなりました。私の意思は変わらない……さあ、幕を引きましょう」
ミスティルがゆっくりと、両手を前へ上げ、まるで総司とリシア、そしてベルへ抱擁をねだるように掲げた。
ミスティルの動作に合わせて、黒き精霊、巨大な女性の上半身を象る不気味な存在もまた腕を掲げる。
昼日中の空が暗黒に包まれ、世界は光を失った。
太陽の光が遮断されているはずなのに、それぞれの姿は鮮明に見えていた。空だけではない、周囲が全て黒い何かに包み込まれて、上下左右の感覚すら狂い始める。完全なる黒、包み込まれるそれぞれの存在。言い知れぬ恐怖が沸き上がる。
「なに、これ……!」
何か抵抗しようと、ベルがわずかに身じろぎするが、自分が動いた手も足も視認できず、意識だけがその場に取り残されたような、形容しがたい感覚に包まれてしまい、何もできない。
「このソラを閉ざす、“星の帳”を――――」
ミスティルの姿がすうっと黒に包まれ、徐々に見えなくなる。
「“ティエナート・ディスタジアス”」