混濁たるティタニエラ・第九話② 現世最強の魔女
父の死を境に、母がどこか狂ってしまったと気付いていた。娘であるミスティルと、大老クローディアは、ミスティルの母レムスティアの異変を感じ取っていた。
元々探求心と好奇心が旺盛な気質をしており、エルフの中でも異端であったことには間違いないが、母は娘を溺愛していた。本来、幼子一人残して、危険に満ち溢れた外の世界に飛び出していくような真似はしないはずだった。
父の死の悲しみが、母にそれを「忘れたい」と願わせた。娘の存在は母にとってかけがえのないもので、それに変わりはなかったのだが、母はそれ以上に父を愛しており、それ故に、娘は完全なブレーキにはならなかった。
母がティタニエラを出て行こうとしたとき、幼いミスティルは必死で止めた。嫌な予感しかしなかった。母に死相が見えたようにすら思った。
大老クローディアは言った。「行かせてやってくれ」と。母レムスティアの心の傷はそう簡単に癒えるものではなかったから、せめて彼女の思い通りにさせてやりたいと、娘の世話を買って出た。
結果は悲惨なものだった。
クローディアが集めた母レムスティアの消息に関する情報で、ヒトの悪意に追い詰められた母が死んだとすぐにわかった。
父の死によって悲しみに打ちひしがれていたのは、もちろん母だけではなかった。娘も未だ癒えぬ心の傷を負っていたのに――――幼いミスティルは瞬く間に、大事な家族を全て失った。
クローディアに頼んだ。「母の遺体だけでも回収することは出来ないのか」。クローディアは最初、首を振るばかりだった。それでもしつこく、何故そうできないのかを問い詰めた。
数日の後、クローディアは重い口を開き、ミスティルに真実を告げる。
閉ざされたティタニエラの奥地に住まうエルフの体は、ヒトにとって存在そのものが貴重なのだと。母はヒトによって凄惨な目に遭う前に自害の道を選んだが、ヒトにとってはその亡骸だけでも十分に価値を持つ。母の遺体は回収され、恐らく――――
「どうしてあの時、一緒に止めてくれなかったんですか」
ミスティルの悲痛な問いかけに対し、クローディアはただ彼女を抱きしめて、謝り続けるしか出来なかった。
クローディアの腕に包まれたミスティルの心には既に、暗く黒い炎が煌々と燃え上がっていたが、罪悪感に苛まれ、謝ることしか出来ないクローディアに、その炎は見えていなかった。
誰も、彼女の心の炎は見えないまま。
誰にもその本心を、燃え上がる憎悪と復讐の業火を悟らせないまま。
ミスティルはこの日を迎えた。自らが持つ類まれな古代魔法の力と、女神の福音が内包された秘宝の力、そしてクローディアが心血を注いで用意した、ティタニエラを護るための礎、“次元”の概念を掌握する精霊の力。ヒトの世を滅ぼし尽くすために必要な力の全てをその手中に収めた。
そして今から全ての仕上げに入る。
ミスティルにとって唯一の誤算である、今のミスティルに対抗しうる存在の排除。それを達成したとき、ついにミスティルは人類の不倶戴天の敵として、世界に挑むこととなる。
総司を介抱し、その目的を手伝おうとした姿も嘘。
リシアを気遣い、彼女が変わるきっかけを作ろうと、ベルと共に一計を案じたあの優しさも嘘。
ベルの行く末を憂い、彼女の目的を「許されないこと」なのだと総司に語ったあの善性も、全部嘘。
ヒトに会ってみたかったのは「ホント」。
“共に過ごしてなおヒトへの憎悪の炎を燃やし続け、躊躇いなく彼らを殺すことが出来るのか”、それを確かめてみたかったから。
「ヒトの終焉を彩る黒――――あぁ、意外と良い響きに纏まりましたね」
彼女こそは、総司が異世界リスティリアのみならず、彼の人生において初めて相対する、“ヒトの形をした純然たる悪意”。
ヒトの終焉を齎さんとする明確なる脅威。
「少し気取り過ぎでしょうか。でもこれぐらいの方がわかりやすい。ソウシさんもそう思うでしょう?」
エルフの国・妖精郷ティタニエラにおける「時代の傑物」、“次元の魔女”ミスティル。ヒトの手の届かぬ領域に至った、現世最強の魔女である。
「おとぎ話の草案なら、お前の家で朝まででも聞いてやる」
クルセルダ諸島の最奥、かつて女神と接続することのできたティタニエラの「聖域」にて、ミスティルは総司を待ち構えていた。そして彼女は、一人ではなかった。
女神が纏う神秘の力が満ち溢れる聖域の最奥にて、朝日を背に巨大な漆黒の存在が浮かんでいる。
顔のない女性の半身だ。下半身は黒い霧のような魔力の塊に覆われており、視認することは出来ない。顔には目や鼻の代わりに、顔全体を覆う二重の赤い円が描かれており、不気味さを倍増させている。
正体不明の巨大な存在は、莫大な魔力と、見る者を圧倒し、そしてどこか不快にさせる気配を醸し出していた。
「帰ろう、ミスティル。今度こそ腹割って話そうぜ。その前に一発殴るけど、それは甘んじて受け入れてくれよ。けじめは必要だろ」
「……あははっ!」
ミスティルの顔に刻まれた笑みは、凄惨そのもの。
数日とは言え共に過ごした、あの優しい、みんなの人気者だったミスティルと同じ存在だとはとても信じられないような、嗜虐的な笑顔だった。
「本当にお人よしなんですね。びっくりしてしまいました。まさかこの期に及んで“私を殺すつもりがない”のですか? 冗談でしょう?」
「いや俺だってここにきて、今のお前と後ろのそいつを見たらさ」
リバース・オーダーを抜き放ち、ゆっくりと構えて臨戦態勢を取りながら、総司は正直に言った。
「殺すしかないんじゃないかと、思わなくもないんだけど」
「正しい判断ですね」
「みんな “止めてくれ”としか言わないんだよ、困ったことに」
ミスティルの目に宿る憎悪の炎は最早、隠されることはなく。
叩きつけられる魔力と気迫には憎悪と殺意がこれでもかと溢れ返り、荒れ狂っている。ヒトへの憎悪を、殺意を、そして彼女の嘆きを、びりびりと肌で感じる。
ヒトによってもたらされた悲劇が彼女を変えた。生まれた嘆きは憎悪へと変わり、その業火は、心を焦がして黒に染めた。
「クローディア様に至っては、『ミスティルを許してやってくれ』だと。どう思う?」
「……許してやってくれ、ですか……忌々しい物言いですね」
ミスティルの顔に刻まれた凄惨な笑みが、その嗜虐性を更に増した。最早あの「天使」のような明るい笑顔は彼方へ消え去り、目の前にあるのは「悪魔」に等しき残虐な笑顔だ。
「ヒトに許されることを私が願うと思いますか」
ミスティルの目に、雪の結晶のような形を取る銀の光が宿った。
空間が震えるのを肌で感じた。叩きつけられる魔力の質が変わった。聖域の床に、建造物のそこかしこに亀裂が走った。
「もうご存じかと思いますが、一応言っておきますね」
言い知れぬ気迫。形容しがたい圧倒の気配。しかも、ミスティルの莫大な魔力に混じって、確かに感じ取れる“もう一つの力”がある。
かつてレブレーベント王女・アレインが制御し切って見せた、“悪しき者の力の残滓”。この世界に零れ落ちた女神の敵の力。総司に対する並々ならぬ敵意を内包する、リスティリアの生命にとっても猛毒である暗い力を、ミスティルは獲得している。
ティタニエラでも“活性化した魔獣”は頻繁に出没しており、エルフの戦士たちはその撃退に力を尽くしていた。クルセルダ諸島の強力な魔獣たちもまた、その力に侵されることがあった。
本性を現す前から、ミスティルはもともとエルフきっての魔法使いであり、クローディアもその才覚と強さを認める存在だった。“活性化した魔獣”を打ち倒し、悪しき者の力を奪い取ることなど造作もなかったに違いない。
ミスティルの後ろで不気味に佇む黒い女性体は、クローディアが心血を注ぎ顕現させた精霊の現身。加えて、どこまで力を取り戻したかは不明だが、女神の福音“レヴァンディオール”を手中に収め、レブレーベントで苦戦を強いられた要因となった、“悪しき者の力の残滓”すらも掌握する。
まさしく、間違いなく。
今のミスティルは、総司がこれまで戦ってきたどんな相手よりも強い――――過去最強の敵である。
「私の目的はリスティリアの滅亡。具体的には、意志ある生命の根絶です。わかりやすいでしょう?」
「ちょっと認識が違ったみたいだ。ヒトの根絶、の間違いじゃねえのか」
「はい。最初はそのつもりだったんですけどね」
おどけたように笑うミスティルからはもう、わずかな親しみを感じられることもない。
「どうやら私は、それだけでは満足できないらしいんです。“私を差し置いて幸福を感じている生命”が全て、憎くて憎くてたまらないみたいでして」
「世界を巻き込むわがままか。ロクなもんじゃねえな」
「そうですね。しかも厄介なことに、私にはそうできるだけの力があると来ました。さあどうしましょう。説得してみます?」
尽きぬ憎悪、底知れぬ悲愴。しかし、ミスティルは狂気に走っているわけではなかった。
あまりにも常識外の妄言を口走っているのに、彼女から「狂気」が感じられないのは、彼女が極めて正気だから。
昨日今日、こうなったわけではない。ずっと前から“こう”だった。彼女の母がヒトによって追い詰められ、その命を絶ったあの日から。
彼女の怨嗟はここに一つの完成を迎え、総司の敗北と同時に彼女の呪いが世界へ降り注ぐこととなる。
「まあ……そりゃ、“正しい”ことはいくらでも言えるんだろうけど、言ったところで意味あるか? 復讐なんて無意味だからやめておけ。憎しみに囚われても良いことなんて一つもない。それで止まってくれるのか?」
「あら。意外ですね。そういう寒気のするようなセリフを吐くのが救世主のお役目とばかり」
「んなカッコいい場面、今まで一個もなかったっつの」
アレインと敵対した時は、互いに譲歩することはなく、結局勝敗で以て律儀なアレインに引き下がってもらっただけ。ルディラントに至っては別れ際に説教を食らって、総司が偉そうに何かを言えるような立場になかった。
「けどまあ、ようやく。救世主のお仕事ってのが出来そうだ。“世界を背負う戦い”、いずれ俺が挑むことになる戦いの予行演習ってやつだな」
「言い得て妙ではありますが、ちょっと緊張感に欠けますね」
クスクスと笑いながら、ミスティルはゆっくりと両手を広げる。
「あなたがそう思うのならご勝手にというところですが、せめてもう少し自覚してくださいな、救世主様。ただのヒトなど問題外――――」
タン、と総司から離れた位置で、ミスティルを中心に九時と三時の方向に、リシアとベルが陣取っていた。ミスティルの背後にいる巨大な何かが動き出すことに備えて、ミスティルからは十分に距離を取っていたが、当然、今のミスティルには気づかれている。
その布陣を、ミスティルは歯牙にもかけない。彼女の目はまっすぐに総司を射抜く。傍目には鮮やかで美しいその眼光は、かつて柔らかで優しい光を灯していた瞳は今や、視界にとらえた者に底知れぬ恐怖を与える魔眼になり果てた。
「あなたが私に勝てなければ、この世界は終わるのですから」