インド洋放漫作戦②
インド洋:スマトラ島西方沖
結論から言うと、サマヴィル中将の目論見は大いに外れた。
航空母艦『ヴィクトリアス』、『フォーミダブル』を戦艦『ウォースパイト』以下10隻の艦艇でもって護衛するA部隊を編成し、遊弋しているであろう仇敵を目指して突き進んだ。しかしながら問題は、シンガポールを出航した『天鷹』が、未だインド洋で活動していないことだった。
では空襲が誤報だったかというと、それもまた事実と異なる。
戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』および巡洋戦艦『レパルス』撃沈の戦功あった美幌海軍航空隊がちょうどこの時期、スマトラ島北端を臨むサバン島に展開していた。彼等が任務はマラッカ海峡および東インド洋での哨戒で、その結果として輸送船団を発見、片道1000キロを超える長距離攻撃を実施した――つまるところそれが真相だった。
それが何故、敵空母出現という話になったかというと……日本軍機の作戦行動半径に関する認識が、未だ希薄だったためだ。
常識や固定観念と呼ばれるものは、例えばマレー沖海戦のような事例があっても尚、強固であるものに違いない。故にココス諸島北方沖などという辺鄙な海域での空襲となると、内容が途中ですり替わってしまったりする。今回の件は最後の最後でと思われるが、元々は双発機による空襲との報告で、何時の間にかそこが削ぎ落されていたのだ。
そしてその事実が確認された際、A部隊はスマトラ島に随分と近付いてしまっていた。
「ふむ……戦に勘違いは付き物、ならば今私にできることをしよう」
「どうなさるので?」
「面倒を起こしてくれた者どもに、プレゼントをしてあげるのだよ」
サマヴィル中将は悠然たる態度で、新たな攻撃目標を指示した。
陸上攻撃機が船団を襲うのであれば、叩き潰してしまえばいい。幸いなことに、まだ発見されたとの報告はなかったし、敵がサバン島の飛行場に展開していることは分かっていた。ならば先手を取ってこれを叩き、避退に移ればいい。それだけの長距離機となると、下手をするとセイロンを直接攻撃してきかねないから、今後の苛烈な戦を有利することにも寄与するだろう。
「敵機は滑走路上で撃墜するのが一番だ」
「空の上の零戦は怖いが、地面の零戦は全然怖くない」
「ぐずぐずせず、サッと爆撃して帰還せよ」
そんな訓示を受けたパイロット達が、飛行甲板に並べられた愛機に颯爽と飛び乗っていく。
2隻の航空母艦は朝日輝く海原を疾駆し、合計44機というほぼ全力の攻撃隊を放つ。空中集合を終えるや、それらは200海里彼方の目標へと進んでいった。大変に不評のフェアリー・フルマー16機が、複葉雷撃機のフェアリー・アルバコア28機を護衛する形で、少しばかり心配になってくる。それらに比べればまだ評判のよいシーハリケーンは、航続距離が足りないから作戦参加が不可能だった。
「まあ、彼等はまともなレーダーなど持ってはおりませぬか」
徐々に小さくなる攻撃隊の機影を見送りながら、参謀長が希望的に言う。
「とすればまともな迎撃もないでしょうな」
「うむ。これで黄色人種どもも少しは懲りよう」
サマヴィルは自信に溢れた声色で肯いた。
戦局を鑑みれば何とも悔しいことに、機体性能では日本軍機に及ばぬところはあるらしい。それでも航空母艦による奇襲攻撃を有効に防ぐことは、特に縦深のない孤島では難しい。真珠湾で自ら証明したことを、彼等もまた味わうこととなるのだと思うと、何とも胸がすく気分になった。
ペナン島沖:市街地
航空母艦『天鷹』の乗組員は爾後の作戦に向け、この地で鋭気を養っていた。
風光明媚なる景勝地として知られるペナンの空気は、サマセット・モームやラドヤード・キップリングといった文豪を惹き付けたほど。それら著作などまともに読んだ覚えのない高谷大佐にしても、何となく文化的な気分になってくる。
「とはいえそれにしても」
ヴィクトリア風なホテルが転用された将校クラブ。
その豪奢なラウンジにて、高谷はカットガラスのボウルに山盛りになった果物を満喫していた。千疋屋で食べたことのあるバナナやパイナップル以外は、内地では見たことすらないものばかり。
「マンゴーも大変に美味だが、こいつはそれ以上だな」
半分剥がされた果皮から身を覗かせる、小ぶりな純白の果実。
上から見れば華奢な花みたいなそれにフォークを突き刺し、残りの果皮を剥いで口の中へと放り込む。溶けるような甘さと仄かな酸っぱさが合わさった絶妙の味が、全身に広がっていくようだった。
「なあヌケサク、これ何といったか?」
隣でせっせと手紙などしたためている抜山主計少佐に尋ね、
「確かマンゴーの親戚みたいな名前だったよな」
「マンゴスチンですよ、艦長。果実の女王と言われております。なおマンゴーはウルシ科、マンゴスチンはオトギリソウ科で、さっぱり親戚じゃありませんよ。形も全然違いますし」
「なるほど、植物はよく分からん。まあ果実の王様は臭くてかなわんが、女王の方は最高だな」
適当な返事をしながら、高谷は芳しきマンゴスチンを一度に2つ食べた。何たる贅沢。
とはいえこのところ、彼の心は本当に平穏だった。嵐の前の静けさとしても平穏で、抜山にとっては尚更だった。軍政下であってすら色褪せぬ泰平の気風に触れたからか、艦のやくざ者やバンカラ気取りどもが、さっぱり問題を起こさないのだ。喧嘩早さで悪名高い航空隊の面子にしても、パインジュースを飲んで恍惚としていたりする。
もっとも打井少佐をカシラとする戦闘機隊については、もう1つ理由があるかもしれない。
待ち望んでいた零戦が空輸されてきたのだ。年が変わって餅を食っていた頃、まず6機が送られてきたので、機種転換に向けて皆が交代で乗り回してきたのだが――ここにきて全員が零戦で戦えるようになったという訳だ。そうした歓喜はエンジン音となって響いてきて、時折低空を飛び過ぎだと思うこともあるが、まあ敢闘精神の表れと思えば頼もしくもなる。
「大東亜共栄圏樹立の暁には、ここに別荘でも建てたいなァ」
今度は赤紫色のウニみたいな果実を摘みながら、高谷は放言する。
「んで、退役した後は海を眺めてのんびり暮らすって寸法よ」
「艦長、人が変わったみたいですねェ」
「和辻哲郎とかいう学者が風土とか何とか書いてたろ。人は風土で変わるんだ、多分」
「ははは、なるほど。とはいえそのためには……」
抜山が言いかけた時、居合わせた海軍士官達がざわめき始めた。
サバン島空襲さる、英機動部隊が現れたらしい。美幌空が損害を被ったようだ。彼等が交わす噂に高谷と抜山も色めき立ち、それまでの弛緩した空気を一瞬で吹き飛ばした。力の漲り様からして、休養もまた無駄ではなかったらしい。
「戦争に勝たねばならんな」
「ですね、それしかありません」
「今すぐ出撃し、英国艦隊に痛撃を見舞ってやらねば!」
そうして大急ぎで帰艦すべくハイヤーに飛び乗り、運転手に全速力で走らせる。
もっとも心待ちにしていた追撃命令は、結局のところ出なかった。予想外なところで襲われたという事情もあり、燃料だとか護衛艦艇だとか、諸々の都合がついていなかったのだ。しかも英機動部隊は空襲を終えるや反転、セイロンへと遁走してしまっていた。とすればそんな状況での勇み足より、大艦隊で正面から堂々と殴りつけた方がよいとの判断もまた妥当だろう。
なおサバン島空襲の被害は、陸上攻撃機が9機ぶち壊され、滑走路が数日間使用不能になったというものだった。
一方、英軍の未帰還機は5機。零戦や隼にかち合えば確実に大損害を被る鈍足機でもって、奇襲爆撃をまんまと成功させてしまった結果だった。更には艦隊が無傷でコロンボに帰投したことを鑑みれば、インド洋の緒戦は英軍に軍配が上がったと言えるだろう。
明日も18時頃に更新します。
書いていてトロピカルフルーツが食べたくなりました。