英国チ首相の憂鬱
ロンドン:首相官邸
「率直に言うと、もう駄目だってことかね?」
「突然こんな報告となってしまい申し訳ございませんが、本当です」
「そうだろうな」
イーデン外相の悲痛な言葉に、チャーチル首相は大いに項垂れた。
挙国一致内閣が成立して以来、戦争指導に当たってきたこの傑物は、3年前と同一人物とは思えぬほど憔悴してしまっていた。実のところ彼にまつわるろくでもない噂の大部分は紛れもない事実で、最近似たような話をめっきり聞かなくなったのは、喚き散らす元気すら喪失してしまったからである。
とすれば未だ政権崩壊に至っていないことこそ、驚きをもって迎えられる事実かもしれない。
ただ精神衰弱が疑われる状況であっても、戦時宰相の退陣などということになると、敵にも味方にも最悪なメッセージを送ってしまいかねない。押される一方の戦局をもって政府に辛辣なる言葉を投げる者も多いが、結局のところ彼等も妙案を持ち合わせている訳でもないので、何かあると割合すぐに言葉を濁してしまう。そうした諸々の重なり合わせがため、チャーチルは老体だか病体だかに鞭を打ちまくり、今日もこうして閣議を執り行っている訳だった。
「それで……ええと、何の話だったかな?」
「閣下、中国問題です」
イーデンが助け舟を出し、
「まことに残念なことに、蒋介石の国民党軍は烏合の衆になりつつあります。先月より行われた大攻勢は見事なまでに頓挫し、概ね50万の兵力を喪失。更に河南省において40万程度の兵力が包囲されており、降伏も時間の問題と……」
「挙手空拳で虎の巣に突入するが如し。そう警告したはずだな?」
「ええ、疑いようもなく」
なされたのは色濃い諦観を滲ませた回答。
実のところ暗号解読の結果、ガンジス作戦などというのが完全な欺瞞情報であることを、英国政府はとうに見抜いていた。それを示唆した上での制止だったのである。
「ただ彼等はどうも別の勝算を信じたようで……虎穴に入らずんば虎児を得ずと押し切り、見事虎に噛み付かれています」
「つまるところ……我々が、その、支えてやれませんでしたんで」
第一海軍卿のパウンド元帥は今にも死にそうな面をしていて、
「インド洋が、あれでは、もう何というか」
「元帥、それについてはとうに承知のことだよ」
チャーチルは無気力に切り捨て、少し前まで吹かしていた葉巻を咥える。
まったく何故ここまで無残なことになるのか、そう思わざるを得ない状況だった。真珠湾攻撃でようやく合衆国を戦争に引き込めると喜んだのもつかの間、マレー沖で戦艦2隻が沈み、航空母艦が鹵獲されるという大失態に見舞われた。翌年の春には要衝シンガポールが陥落し、東洋艦隊も多数の主力艦を喪って壊滅。そうして勢い付いた枢軸軍にセイロン島やマルタ島、更にはスエズ運河まで奪取され、日欧航路を通される始末である。
こんな状況で中国が脱落したとしたら――やはり悪夢しか見えてこない。
大陸に展開している100万の大部隊は、恐らくベンガル方面へと投入されるだろう。苛烈な焦土作戦の甲斐あってか、日本軍はチッタゴンとインパールを結ぶ線の西へは進出してきていないが、国民党を降した後であったら話も変わる。ただでさえ暴動と罷業の巷となっているインド亜大陸は瞬く間に占領され、忌々しいボース一味の支配するところとなってしまうに違いない。
「それにしても何故、蒋介石の軍はここまで脆弱なんだ」
列席者の誰かがボソリと呟いた。
「100万の軍勢が3倍の相手を降すなどというのは、常識では考えられん」
「我等が偉大なる先祖は少しばかり、商売熱心に過ぎたのかもしれませんな。一世紀前に山ほど売りつけた阿片が、未だもって抜けておらんようですから」
「非先進地域の軍隊というのは、並べて惰弱なる傾向があるようで」
陸軍参謀本部総長のブルック元帥が嫌なものを見たかのように断じ、
「なお程度で言うならば、大変遺憾ではありますが、我等が英領インド軍も似たようなものかもしれません。先の世界大戦における活躍ぶりを鑑みますと、もう少し期待したいところではありますが……ボース一味の謀略放送に絆されて脱走するだの、ガンジーを真似て物乞いになるだの、そんな事例ばかりです。部隊丸ごとの反乱もダースでは収まらぬほど頻発しており、戦う前に何割かが雲散霧消してしまうやも」
「単刀直入に聞こう」
チャーチルはブルドッグの如き表情を酷く弱々しく歪め、
「我々がインド洋での反攻を実施し得るだけの艦隊戦力を揃えるに来年末までかかるとして、それまで最も大きな宝石を王冠から落とさないでいられるかね?」
「増援を呼び込むための幾つかの拠点を、それまで守り抜くといった程度でしたら……不可能ではないかもしれません。ただその程度ですと、戦争が終わった後も王冠に填めたままにはできないでしょう」
「ふむ……苦しく、痛く、辛い終わりとなりそうだな」
大きな溜息とともに吐き出された紫煙が、重苦しい室内の空気に入り混じる。
大英帝国を存立せしめる上で不可欠な要素を3つ挙げるとしたら、大陸欧州を統一させぬことと地中海航路の安全の確保、それからインドの保持が挙げられるだろう。それらの過半数は既にファシスト勢力によってぶち壊されてしまっており、最後の1つがガラガラと音を立てて崩れようとしているのだ。
「いっそ日本軍を対ソ戦へと誘導できないか」
そんな提案をする閣僚もあった。
だがそれは上手くいったとしても、ソ連邦の決定的な崩壊あるいは対枢軸単独講和という事態を齎してしまうかもしれない。とすると大陸欧州統一勢力を出現させないという方針と根本から矛盾し、更には東部戦線に釘付けにされていた何百個師団が中東やアフリカに雪崩れ込むこととなるから、やはり乗れたものでもなかった。
加えてまだ確証があるという程でもないが、支援物資がさっぱり届かぬことに業を煮やしたスターリンが、対日交渉を開始したという情報もある。これがまた厄介な可能性だった。
「なお先日報告いたしました通り、インド北部で共産主義者の動きまで活発化している部分がございます」
そう言って顔を顰めるのはインド・ビルマ大臣のアメリ―。
「ソ連邦は我々との共闘に当たって、国際共産主義運動の停止を約束しましたが……日本の今次大戦からの離脱をソ連邦が後押しするという内容が事実とすると非常に厄介です。この場合、日本軍が撤退する幾つかの地域において、後釜として社会主義政権が樹立される公算が高く……ボースなどは元々がアカですからインドが一気に赤化しかねません」
「かつそれら社会主義政権を対独戦名目で認めさせるという訳か」
「最悪の場合、考えられない話でもないかと」
「ううむ……」
如何ともし難いとばかりの呻きが漏れる。
閣議室を色濃く覆うは、まるで出口の見えぬ沈黙。そうした中、チャーチルは陰惨なる現実に苛まれながらも、改めて帝国に欠かせぬものについて思考を巡らせた。世界大戦にあっては決定的なる勝利が必要不可欠だが、全ての戦線でそれが得られるというのは小児的に過ぎる楽観だろう。ならば忠誠を誓う国王と何億という帝国臣民のためにも、その中で最も失うものの少ない道を、慎重に取捨選択せねばならない。
そうした身を切るかの如き深慮の末、どうにか光明らしきものが見えてきた。
つまるところ大英帝国を存続せしめるには、スターリンに先んじる他ない。真珠湾で怒り狂い、ガダルカナルで奮い立ち、本土空襲で周章狼狽している植民地人との関係を含めた危険な綱渡りとなりそうだが、是が非でも上手く事を運ばねばならなそうだ。イーデンもまた同じ結論に達していることを、目が合った瞬間に察した。
「正直なところ、敵味方を見誤ったのかもしれんな」
「かもしれません。ただ、まだ致命傷ではないかと」
「これまでの不撓不屈の歴史を鑑みるに、我が帝国は失敗はしたとしても大失敗はしてこなかった。であれば今回も大失敗にはせぬよう、務める他あるまい」
何処か遠くをぼんやり望みつつ、チャーチルは少しばかり気迫を取り戻す。
続けて意識をインド洋の南西部へと向ける。ある程度の妥結が必要だとしても、自分の手元に多くを残すための努力もまた重要だ。とはいえそれにしても――腹が緩くてたまらぬものである。
次回は2月25日 18時頃に更新の予定です。
枢軸勝利のカギはインド洋戦線にあった、という説を見たことがありますが……確かに米以外が深刻な状況に陥ってしまいそうです。ソロモンでの消耗戦が起こってなくて良かった?
まあ一番問題なのが残っているじゃないかとなりそうなのが困ったところなのですが。




