フランス戦艦回航作戦③
ツーロン:市街地
楽しい運動の後の一服ほど気分のよいものはない。そんなことを思いつつ、陸奥中佐は下宿の寝室にて煙草を燻らす。
暫く紫煙を堪能した後、上半身裸のまま仕事部屋の机に向かい、おもむろにペンを取って原稿用紙にあれやこれやと記していく。面倒臭いこと極まりないが、先送りにするのも限界があるので、さっさと片付けてしまわねばならない。数年間の整備不良に起因する戦艦『ジャン・バール』艤装の劣化具合や回航委員達の習熟度合い、地中海における独伊両国の海空軍との協同態勢と、書いて上げなければならぬことは山のようにあるのだ。
加えてもうひとつ、妻への便りもしたためてしまわねばならない。
変わりはないか、大介や藤子は元気にしているか。こちらは万里を隔てた異国にあるが、毎日が気力旺盛意気軒高。祖国安寧がため奮闘し、王道楽土の共栄圏建設に邁進している次第である――まったくありきたりな文言ばかりが出てくるものだ。挙句、それを"共栄圏"な仏人女性を"王道楽土"へ行かしめた後に思いたりするのだから、我ながら酷い話である。酷いと分かっていながら、止められぬのだから色男は大変だ。
とはいえ久々に、あいつの味噌汁を飲みたくなってきた。前に内地に戻った時は、家族と面会する余裕すらなく飛行艇への便乗を命じられたのだし、ここは心情に率直な感想こそが上策だろう。
「さてはて、こんなものかな」
右手の指がズキズキと痛くなってもきたが、どうにか仕上がった。
少しばかり小腹が空いてくる。居間へと移り、夜食の類はないだろうかと首を左右させていると、住み込みの家政婦のマリィが編み物を止めてスッと立ち上がり、台所へと向かっていった。すぐさまコトコトと、火にかけられた鍋が音を立て始める。作り置きのポトフを温めてくれているのだろう、まったく気が利くものだ。
そうして暫くして鍋を手に戻ってきたマリィは、薄っすらとした笑顔を見せた。
少々野暮ったい顔立ちが気怠げな陰影を帯びていて、どうにも退廃的な魅力を醸している。使用人の娘が年下の高等遊民にでも見染められ、周囲の反対を押し切って駆け落ちするも、慣れぬ暮らしの中で結核に倒れてしまう。そんな筋書きの破滅的悲劇作品の登場人物が、神の悪戯でもって受肉したりでもしたら、彼女のようになるのではないだろうか。
ともかくも食卓には深皿が並べられ、そこに盛られた料理が心安らぐ香りを漂わせる。更にパンとチーズ、ハムを幾らか切り、故郷で長らく食されてきたであろう鍋物を彩った。無論のことワインも欠かせない。
「御夜食、用意できました」
「ああ、ありがとうな」
陸奥は立ち上がって適当な上着を羽織ると、夜食を味わうべくのんびりと歩む。
ただ席に着く前、食卓の傍らに佇むマリィの背を素早く取り、幾分強引に抱き寄せる。控えめな香水が鼻に触れた。抵抗する訳でもなく、流れに身を任せるばかりの彼女の耳朶を軽く食み、微かにソバカスの残る頬を舐める。
「悪い人」
「その通り、昔から僕はとことん悪い男だよ」
「今晩もまた罪を重ねますの?」
「まずは腹ごしらえだ。腹が減っては戦はできぬと昔から言うものでね」
気障に笑いながらマリィを解放し、陸奥は着席してグラスを取る。
「ワインって独りで飲むものでもないだろう?」
「……分かりました」
乾杯。くすんだ赤紫の液体を口に含み、鼻孔に抜ける芳香を堪能する。
それでもって食欲を惹起せしめ、陸奥は勢いよく料理を平らげていった。ニンジンやらジャガイモやらをソーセージとともに咀嚼し、再びワインを嗜んでから、チーズをチョイとひと切れいただいた。きっとこれが眼前の女性を形作った献立なのだろう。食が進むにつれて全身の疲労が緩和され、欧州の見知らぬ田舎の風景が幻視されてくる。まったく満ち足りた気分だ。
(だが、あれは嘘を吐いている味だったな)
陸奥は独特の味覚と嗅覚でもって、明確にそう判断していた。
何とも残念。そうした感情をつゆも表すことなく食事を終え、口許を拭った後、マリィに感謝を込めたる接吻をする。下した結論に変化はなく、少しばかり疲労が増したような気がした。
「それで、どうなさいますの?」
「考えてみれば、明日はそれなりに忙しいのだった。僕も一応、祖国に身を捧げたる身であるから、今晩はワインをもう一杯呷って熟睡するとしようかな。いやはや、構ってやれなくて悪いな」
「いいえ、お構いなく」
声色に僅かな安堵があったのを、陸奥は決して見逃さない。
「そうだ、少しばかり昔話でもしてくれないか」
「昔話……ですか?」
「ああ。子供の頃に好きだったことでも、中等学校の話でも、何でも構わないよ」
「それなら」
言葉通りワインを舐めながら、傍らに寄せたマリィが口を開くのをじっと待つ。
真っ先に出てきたのは、故郷の村で近所に住んでいたジャンなる少年の話。始終馬鹿な小細工や落とし穴を作って大人を困らせる悪ガキで、仕置きされているところを何度助けても懲りぬ始末だったが――小学校卒業間際になって工兵に憧れ始めた彼は、花の冠を落とす罠を幼馴染の少女に仕掛けたのだという。それから林の中に皆で秘密の掘っ立て小屋を建てようとしたり、自転車で遠出した挙句に泣いて帰ったりといった具合だ。
「なるほどね」
のぼせたような頭で、陸奥はぼんやりと肯いた。
こちらは事実だろうと嗅覚は言う。ありきたりなものだろうと、誰にだって唯一無二の人生があるものだ。ただこの先に関しては、恐らく抵抗があるに違いない。
「眠くなってきたから、明日また聞かせてもらおうかな」
「分かりました、おやすみなさい」
ニコリと微笑んでワインの残りを飲み干し、酩酊した風を半ば装いながら、寝台へと倒れ込む。
ただ布団に潜りながらも、もう暫くは起きていなければならぬ。妻とあと幾人かの女性への悪戯を目的として磨いた狸寝入りの技量を、今日ばかりは国益と世界新秩序のために活用するのだ。
そうして寝息らしきを立てていると、普段よりも慎重な足音が聞こえてきた。
それは寝室に入らず引き返し、今度は仕事部屋の方からゴソゴソと音が響いてくる。書類は分かり易く整理整頓しておいたから、分かり易いことこの上ないだろう。更に忍び足が続いた後、ゆっくりとではあるが下宿の扉の軋む音が伝わってきた。言うまでもない人物が外へと駆け出していく。
「俺は祖国にとって悪い男にはなれん。ほんと、残念だ」
タラントへの予定航路と題して嘘八百を記したことを思い出しつつ、何ともやるせない口調で呟く。
どんな個人的事情があるのかは知らぬが、マリィは明確なる害意を日本帝国へと向けたる者となった。先程食べたポトフの風味、抱き合った際の身体の温もり、細やかなる肌の手触り。久遠の彼方に飛び去ったようなそれらが鮮明に記憶に蘇り、何時の間にやら涙がポロポロと零れていた。
それが決してまがい物でないところが、また陸奥らしいところなのかもしれない。
次回は1月16日 18時更新の予定です。
艦長には喧嘩が弱いとか言われてしまう陸奥中佐ですが、なかなかケモノ偏なところが。
フランスが舞台ということで多少は描写をフランスっぽくしてみた心算ですが……私の好きなフランス映画は"TAXi"や"世界の果てでヒャッハー!"です。




