史上最低最悪の海軍記念日⑪
珊瑚海:エスピリトゥサント島沖
「なるほど……こういうことだったのか」
水平線上に現れた艦影を認めるや、リー少将は全て察知するに至った。
第64任務部隊は巧みに追い立てられていたのだ。度重なる雷撃をもって速力を低下せしめ、機動部隊のエスピリトゥサント島空襲によって転針を強要し、真打の待ち構える方向へと進ませる。なるほどまったく上手い手だ。あらゆる感情に優先して、そう賞賛せずにはいられなかった。
リーは改めて、相まみえた敵を凝視する。ミッドウェーで『ノースカロライナ』を撃沈せしめた大戦艦に、一糸乱れぬ隊伍で迫ってくる水雷戦隊。これが真打であるのは明白だ。
「何ともはや。見事にしてやられましたものです」
『ワシントン』艦長たるデイビス大佐はゆっくりと手を叩く。
敵ながら天晴れ。術策にかかった身でありながら、彼の言葉も心底楽しそうな色に満ちている。
「まさに袋のネズミという訳ですか」
「そうだな。だが窮鼠猫を噛むとも言う」
「面白くなってきましたね」
「ああ。まことに、最高に面白い。こちらが新鋭の戦艦2隻だというのに、まさか1隻でかかってこようとは。見事これを討ち取って、それが自信ではなく驕りに過ぎぬことを証明してやろう。そして、真珠湾へと帰ろう」
ほぼ同じ内容の演説が、任務部隊の隅々にまで木霊する。
最後の一節が叶わぬ願いであることは、実のところ皆分かっていた。たとえ日本海軍が誇る大戦艦を撃沈せしめたとしても、驚異的な技量と速力で斬り込んでくる水雷戦隊を排することは叶いそうにない。どちらかの舷側に集中的な雷撃を食らい、海の墓標となって果てるのだと、少将から二等水兵に至る任務部隊の全員がよく理解していた。
それでも、この場に居合わせたことを後悔する者などいるはずもない。
最強の戦艦同士が雌雄を決する、何より華々しき舞台に立てたことに、純真なる童の如く歓喜するばかり。祖国への献身と海軍軍人としての矜持を携え、合衆国が存続する限り語り継がれるであろう英雄譚の一部となることに、誰もが精神を震わせるばかり。
「距離3万6000ヤード……敵艦、発砲!」
「撃ち方始め!」
海神の眠りをも醒まさんばかりの大砲声をもって、大艦巨砲の絶頂たる海戦が開始された。
戦意を極限まで滾らせた、大海軍国家の威信を背負った戦艦。敵味方に分かれども根本をまったく一にする彼女達の精神が、大口径砲弾となって交叉する。
ガダルカナル・ニューヘブリディーズ諸島沖海戦と後日呼ばれる一連の海戦は、論ずるところが著しく多いことで有名だ。
南西太平洋の戦局に直接関係するところだけでも、戦略砲撃を阻止したことでオーストラリアが連合国から離反するのを防いだとか、いやいやそもそも当時の日本軍にはオーストラリア上陸などできなかっただろうとか、とにもかくにも諸説入り乱れている。戦争の主導権や戦時動員への影響といった巨視的問題に至ると更に議論は発散し、中には所詮は一海戦事例に過ぎぬこれをもって文化民族を粗雑に論わんとする輩まで出るから始末に負えなかった。
とはいえ、戦闘の経過を記すだけであれば造作もない。
既に高速を発揮することの適わなくなっていたいた米戦艦の頭を、機関を存分に唸らせた『大和』はまず易々と取った。そうして『ワシントン』の第三砲塔を無力化し、砲門数9対12で轟然と撃ち合う。組み打ちの最中に盛んに打電された信号にある通り、大和級戦艦の主砲は18インチ口径。投射重量比ですら既に日本側優勢という状況だった。
それでも先に命中弾を得たのが『ワシントン』であった事実は、彼女が名声を確固たるものとした。
惜しむらくはそれが重要区画を防護する装甲に阻まれ、高角砲を1基破壊するに留まったことだろう。その報復とばかりに『大和』の放った第七射目の18インチ砲弾は、見事『ワシントン』第二砲塔に命中し、第64任務部隊の砲戦力の四分の一を奪い去る。そうして互いに諸元を得ての撃ち合いとなると、18インチ砲弾に対する安全距離を持たぬ彼女に抗する術などなく、更に6度の斉射を受けた段階で第一砲塔と罐の幾つか喪失、戦線より落伍するに至る。
一方その間、『サウスダコタ』も奮戦した。『大和』の艦尾に火災を発生せしめ、第四副砲を破壊するなど戦果を挙げた。
とはいえ如何な彼女であれ、『ワシントン』を降した仇敵を相手に単身戦う力などない。しかもガダルカナル島沖での夜戦で負った傷がここに来て開き始め、速力を大きく落とし始める。それを好機と見た軽巡洋艦『神通』以下8隻が至近距離からの統制雷撃戦を実施、数え切れぬほどの水柱を左舷に立ち上らせ、瞬く間に横転。その直前に放たれた16インチ砲弾は、『大和』の煙突を損壊せしめたが、最後の戦果を見届けることなく『サウスダコタ』は海中に没した。
新鋭戦艦同士の砲戦はかくして決着し、『ワシントン』も程なく二番艦の後を追う。
米戦艦2隻喪失に対し、日本側は『大和』と『神通』がそれぞれ中破という判定で、十分な勝利だった。機動部隊や水雷戦隊、陸上攻撃機隊といった数々の猟犬と、史上最大の戦艦という海の狩人。それらが全力をもって手負いの猛獣を追い詰めた末の、納得のいく結末と言えるだろう。
「各個撃破のおそれはあったにせよ、それぞれが出し得る全力で離脱したならば、片方は生存することができたのではないか」
これもまた後日、巷間で時折開陳される説である。
確かにガダルカナル沖での戦いが終結した時、『ワシントン』の足は一切傷付いていなかった。仮に彼女が28ノットで遁走を図った場合、陸上攻撃機が『サウスダコタ』に集中したことが容易に想像される。また山本大将がエスピリトゥサント島以南への追撃を行わぬ心算であったことなどを踏まえると、確かに一定の説得力があるのも事実だろう。
だが、所詮は結果論なのだろう。当然それは選択されなかった。
真っ先に被雷した『インディアナ』のように、最初から大幅に速力が低下していたのならば、それもまた妥当性を有したに違いない。しかし僅かに速力を落としただけの僚艦を見捨てるような発想など、如何なる提督の脳裏にも浮かばないだろう。彼女達は苦境にあって助け合い、励まし合いながら、ともに生還し得る道を切り拓かんと尽力するという海軍精神を発揮した末、誇り高くも悲劇的な最期を遂げたのだから。
一部に『ノースカロライナ』から『アラバマ』までの6隻を同一級別と見る向きもない訳ではないが、一般に『ワシントン』と『サウスダコタ』は血肉分けたる仲とは見做されない。それでも同じ任務部隊の一員として奮戦し、同じ日、同じ場所にて果てた彼女達は、誰よりも仲睦まじき姉妹のようだった。
なお奇しくもその日は10月27日に他ならなかった。
しかも『ワシントン』が死に際に放った電文は、合衆国海軍に理解できぬ者が1人としていないほど英雄的であったから、これを期に「さあ戦いはこれからだ」と、合衆国民は雷に打たれたの如く奮起するようになる。
「確かにこの日は、史上最低最悪の海軍記念日であった」
曳航中の航空母艦『ワスプ』が開放型格納庫からの浸水がため、ワシントン州はフラッタリー岬沖で転覆したことを含め、海軍史家のモリソンはそう記した。
ただそれに続く一節はかくの如しである。
「しかし同時に、最も英雄的な海軍記念日にもなったのである」
明日も18時頃に更新します。南太平洋での戦いはこれにて終幕となります。
本作品の第二次大戦は未だ枢軸側有利なまま進行していますが、米側視点では海のアラモ砦となったのもしれません。
日米とも多くの損害を出した大海戦が、1つの転機となるのか? ともかくも今後の展開にもご期待いただければ幸いです。




