史上最低最悪の海軍記念日⑤
珊瑚海:タウンズビル東方沖
「何だこれは? 全然美味しくないじゃないか」
「おまけに臭いんですよね」
高谷大佐と陸奥中佐は苦悶の声を漏らし、卓上の瓶を嫌そうに見つめる。
タウンズビルの航空基地を爆撃で叩いた帰路、角田機動部隊は豪州船籍の輸送船をとっ捕まえていた。戦車が積まれていたので陸軍が喜びそうだと思っていたら、豪州大陸の大変なる珍味も見つかったとの噂が広がった。各艦が奪い合っているように見えたので、欲の皮の突っ張り具合では右に出る者のない乗組員だらけの『天鷹』からも、当然の如く寄越せと発光信号が発せられた。そうしたらどういう訳か、どうぞどうぞと送られてきたのである。
そうして大量に届いた瓶には、等しく"MARMITE"という文字が躍っていた。
ビールの酒粕を用いた伝統的発酵食品であり、一般的にはトーストやクラッカーに塗るのだという。もっともそんなハイカラなものは『天鷹』には積み込まれていなかったから、仕方なく乾パンに塗ってみたのだが、まあこれが奇妙奇天烈な味という他ない。だいたい見た目からして、悍ましい怪物の垂らす黒色の粘液のようで、本当に食料品なのかすら怪しく思えてくる。
怖いもの見たさ、いや怖いもの食べたさで、高谷はマーマイト夜食会なるものを催してみたのだが――とんだ大失敗だ。作戦中だからと艦橋を離れなかった鳴門少佐が嫉ましくてたまらない。
「豪州は元々は、流刑人が送られる土地だったと聞く」
口内に広がる臭気に眉を顰めつつ、高谷は切り出す。
「これ、流刑人の拷問を目的として作っていたんじゃないか? 何だったか、確か米英では悪い子供に罰としてひまし油を飲ませたりするよな? それと同じような具合だろう、そうとしか考えられん」
「つまり艦長は米英に生まれておったら、ひまし油を大量に飲まされていたと」
「ムッツリな、お前だけには言われたくない。確かに俺はちっちゃな頃から悪ガキだったかもしれんが、女泣かせなことはせん。という訳でマーマイト乾パンを5個食え。命令だ」
「そんな殺生な」
陸奥が心底困った顔をし、名状し難き黒い物体から目を反らす。
「というか今の豪州人は別に流刑人じゃありませんよね? なのに何故こんなものを製造しておるのでしょうか?」
「動物学者のジャン=バティスト・ラマルクによると、獲得形質は遺伝するそうです」
抜山主計少佐がまたしても、何処で仕入れたのか分からぬ知識を開陳する。
なお彼ばかりは乾パンに怪しげなる発酵食品をドロリとかけ、目を白黒させる周りを尻目に、平然と何個も食べている。飛行長の諏訪少佐も黙々と食しているようにも見えるが、こちらは食べると見せかけて袋に仕舞っているだけだった。
「まあこの学説には批判も大変多く、信憑性に欠ける面もありますが……キリンは高い枝の葉を食べんとして、首が長くなったのだそうです。とすれば豪州人がマーマイトに適合した過程も説明できるかもしれません。流刑時代は食糧に乏しかったと予想されますから、こんなものでも美味しく食べようと努めていたら、本当に味覚が適合してしまったのかもしれません」
「ヌケサクな、お前もしかして豪州の生まれなのか?」
「いえ、房州の生まれですね。とりあえずこのマーマイトなる食品、案外とおにぎりに塗ってもいけると思いますし、ビタミンBも豊富とのことですから、栄養面でも良い可能性が高いのではないかと」
「いや、艦の統制が最底辺まで落ちるから絶対に駄目だ」
既に最底辺なのではという指摘は、当然ながら出てこない。
その後も異様な臭気を漂わせながら、馬鹿げた催しは何故か続く。不味いだの食えたものでないだの文句を言うなら、即刻お開きにして、瓶の中身を海洋生物向けの滋養として放出すればいいのだろうが……どうも『天鷹』の佐官というのは、他人が目を白黒させるのを見るのも好んでいるようである。
「ともかくも今次大戦の結果、豪州を大東亜共栄圏に組み込むに至ったら……白豪主義と一緒にこの病的発酵食品の生産も撤廃させるべきであろう」
気宇壮大なのか何なのか分からぬ演説を打ち始めたのは、戦闘機隊の打井少佐である。
するとオウムのアッズ太郎が、全くガラの悪い豪州人みたいな悪口を吐くので、マーマイト乾パンを突き付けられたりした。ところで白豪主義とは白人のオーストラリアという意味である。では何処ぞのおかしな白装束集団よろしく白人のアメリカと主張するならば、これは白米主義となるのかと、陸奥も実に適当なことをほざいたりする。
「とはいえ豪州を大東亜共栄圏に組み込むとなると、なかなか困難と予想されます」
相変わらずの蓼食いっぷりを発揮しながら、抜山が多少は将校らしい話をし出した。
実のところ豪州上陸を実施するには、全く地上兵力が足りていないはずである。蒋介石を屈服させて大陸戦線から師団を抽出できるようになっても、今度は上陸用船舶の問題も出る。それ故、ガダルカナル島に航空基地を築いて米豪遮断をやっているのだし、大戦艦による砲撃も行われんとしているのだが、それでも上手く運ぶか分からぬと言う。
「そいつはまた、何故だ? 手柄にならんこと甚だしいが、兵糧攻めはできているんじゃないのか?」
「米英軍が既にシドニーやブリズベンに展開しておって、一方の豪州軍はアフリカで戦っておりますので、何かあると現地政庁が武力処理されてしまうかと」
「じゃあ何だ、俺等がやっておるのは……」
「艦長、緊急電です!」
唐突に駆け込んできた通信士官により、怪しげなる夜食会と放漫戦略話はぶっ飛んだ。
ちょうど話題に挙げられていたガダルカナル島に、戦艦3隻を基幹とする部隊が突如として殴り込んできたとのことだった。しかも猛烈なる砲戦力をもって、近藤中将麾下の艦隊を圧倒しつつあるという。アングリ開いた口を塞げた者はいなかった。
ソロモン海:サボ島沖
「流石は『ワシントン』だ、何ともない!」
被弾の衝撃冷めやらぬ中、リー少将は乗艦の性能に酔いしれる。
悪天候を巧みに利用して航空攻撃を躱し切った第64任務部隊は、無傷のままガダルカナル島沖に到着した。まず同島西方の海域にて待ち構えていた日本海軍の警戒部隊を瞬く間に駆逐し、続いて現れた戦艦2隻、重巡洋艦2隻と撃ち合ったのだ。砲煙が明々と煌き、大小砲弾が唸りを上げて飛び交い、日米の主力艦を打ち据えていく。
その帰趨はといえば、これまた一目瞭然という他ない。
幾度かの近代化改装を経たとはいえ、所詮は30年前の老朽艦である。設計からして新しい戦艦に勝てる道理などないのだ。金剛型と思しき2隻はどちらも激しく炎上し、既に砲戦力を喪失したようだった。今まさに断末魔を迎えんとしている敵一番艦から、最後っ屁とばかりに1発食らいはしたものの、所詮は14インチ砲弾であった。主砲塔の装甲が見事弾き返し、被害はほとんどありはしない。お返しにと放たれた斉射が、見慣れぬ艦橋を打ち砕く。
まったく、何と圧倒的な光景だろうか。16インチ砲艦3隻が実力に誰もが恍惚とする中、海面にパッと閃光が走った。
「敵三番艦、爆沈!」
高雄型と思われる重巡洋艦が、一際大きな火焔に包まれる。
艦体から連装砲塔が弾き飛ばされ、露わとなった開孔部からは火柱が高く立ち上っていく。弾薬庫誘爆。16インチ砲弾を食らったのだ、何ら不思議はあるまいが、これを見て心躍らぬ者などいるはずもない。
事実、歓喜に咽ぶ声が『ワシントン』のあちこちから聞こえてくる。
無理からぬことだった。真珠湾攻撃からこの方、太平洋で打たれる一方だった合衆国海軍が、驕れる者どもを遂に挫き、その栄光と主導権とを取り戻したのだから。
「敵四番艦、反転離脱する模様」
「捨て置け。このままホニアラまで突き進む」
異様なる熱気の中、断固たる口調でリーは命じる。
敵一番艦は大傾斜しており、24時間以内に波間に消えるだろう。敵二番艦の状況は不明だが、撃ってこぬのだから無視しても構うまい。余裕があれば確実に止めを刺しておきたいところだが、まず今は優先すべきことがある。
「それと『サウスダコタ』の状況は?」
「たった今、電源復旧とのことです。なお三番砲塔旋回不能、最高速力25ノット」
「分かった。敵もなかなかやる」
全身に迸る熱に浮かれ過ぎてはならぬ。そう自らを戒めた。
集中砲火を食らったにしても、やたらと『サウスダコタ』の被害が拡大している。就役間もない戦艦であるから、まだまだ訓練が足りなかったのかもしれない。だが最善を待つという選択肢など、古今東西如何なる軍にもあった試しはない。
「よし……」
リーは深く呼吸し、再び深夜の暗がりに呑まれんとする正面を凝視した。
重要なのはここからだ。どれほどの戦果を挙げようと、艦を港へと戻し、水兵達を家に帰してやらねば勝利とは言えない。そのために今なすべきか、それは全く明白だった。
「目標、敵飛行場。対地砲撃用意」
明日も18時頃に更新します。
何時の間にやら、マーマイト食べてる場合じゃない事になってしまいました。




