世界戦略的無駄話
シンガポール:海軍水交社
「英国チ首相に失職の危機。杜撰な戦争指導に批難轟々」
「独国ヒ総統、北阿戦線増強を確約。欧亜連絡線樹立も近い」
新聞にはそんな文字が躍っており、内地では提灯行列になっているらしい。
高谷大佐は旧グッドウッド・パーク・ホテルの一室にて、将棋とチェスをごちゃ混ぜにした東西対決遊戯をやりながら、いい加減な情報収集に精を出していた。元々ハンモックナンバーが下から数えた方が早い始末だったから、詳しい事はよく分からない。それでもBBCラジオを聞いてみると、多分に戦時宣伝放送であるとはいえ、インド洋の顛末が大変な影響を及ぼしたらしいことな何となく分かってくる。
実際、物凄い噂まで聞こえてきている。
英東洋艦隊壊滅という悲報を受けたチャーチル首相はその場で絶叫、失禁だか脱糞だかした挙句、病院に送られてしまった云々。流石にそれは嘘だろうとは思うが、信じ難いが本当ということもなくはない。
「なあヌケサク、これ英国が早々に脱落しちまったりせんか?」
高谷は桂馬でルークを弾き飛ばしながら尋ね、
「大東亜共栄圏を認めますんで、どうかインドだけは勘弁してくだせえとか」
「あり得ないとも言い切れないかと」
接待遊戯の盤面を眺めつつ、抜山主計少佐は応じる。
「矜持の塊みたいな英国人が、そんな惰けない物言いをすることだけはないでしょうけど……セイロン沖で東洋艦隊が壊滅した結果、英国が大戦略的な窮地に陥っているのは間違いありません」
「だよな。戦艦と空母が3隻ずつだ」
「結果、全ての戦線で戦力不足に陥るはずです」
抜山は出鱈目遊戯の手を一旦止め、テーブルの上に置かれた図録をパラパラとめくる。
それから普段よりあれこれ抜け目なくメモ書きしているノートを取り出し、十数秒ほど思案を巡らせた。
「現在、英独両海軍はソ連支援船団を巡ってノルウェー沖で対峙し、また地中海はマルタ島周辺では大海空戦が繰り返されております。更に大西洋でUボートと戦い、喜望峰経由でスエズ防衛のための兵力や物資を送り、更にはインドや中東を支えねばならない……というのが英国の現状です」
「いやいや無理があるだろう、それ」
高谷もまた連合国艦艇の状況を思い出す。
英海軍の戦艦部隊は大変なことになっているはずだった。世界七大戦艦のネルソン級2隻は健在で、新鋭のキングジョージ5世級も『プリンス・オブ・ウェールズ』以外は無事だが、残りがUボートに沈められたりイタリヤの人間魚雷で大損害を被ったりしている最中に、南雲機動部隊による一大痛撃である。
航空母艦に関してはまともなのが『イラストリアス』ただ1隻と、悲惨どころでないあり様で、それを思うとチャーチル首相脱糞説すら肯けてしまいそうになる。
「アメ公の増援があったとしても、幾つか整理せんといけなくなるんじゃないか?」
「まさにそう予想されます」
抜山は断じ、
「このうち戦線整理の対象となりそうなのがノルウェー沖とインド・中東航路でしょう。元々米英とソ連邦は相容れないところがありますし、英国にとって地中海航路は、インド洋での勢力を一時後退させてでも維持せねばならないものと考えられますので」
「といっても、英国王の冠の一番大きな宝石がインドとか言わなかったか?」
「ええ。まさにそれが理由で日英間に妥協点が生じる可能性があるというのが、英国の"脱落"というものになります。」
そう言って抜山はノートに手書きした世界地図を広げる。
妙に海岸線が細かく記載されたそれには、各国の主力艦隊や重要航路などが描かれており、何処を攻撃し得るかを示す矢印がやたらめたらに飛び交っている。
「インド喪失は全く政治的に許容できないはずです。そのため我が方はビルマで停止し、英国のインド洋航路を脅かすのを止める。英国はインド喪失を食い止める代わりに大東亜共栄圏を承認し、蒋介石への支援も停止する……といったような妥結が考えられるかと。米英間で結んだ諸々の協定がありますから、半ば密約的な停戦となるかもしれませんが、お互い戦力を必要な方面へと配分できますから、それなりの利得はあります」
「ふゥむ、随分と遠大な話であるな。しかるにヌケサク、何で貴様、主計将校なんてやってるんだ?」
「何ででしたっけかね、忘れました」
抜山はケロリと言い、高谷はいったいこやつ何をやらかしたんだと訝る。
とはいえ確かに説明を聞いていると、なかなかに正鵠を射た内容ではないかと思えてくるから驚きだ。
「気になるのはドイツとイタリヤだ。同盟国だろ、裏切りやがってと言い出さんか?」
「この説の一番の問題点がまさにそこです。というより罵倒されるだけなら全くマシで、この想定では英軍はエジプトやマルタに更なる戦力を投じるでしょうし、支援船団の復活でソ連邦も対独戦を有利に展開できるようになります。となるとドイツの決定的敗北があり得、その時になって英国がインド洋での密約を破棄、ソ連邦も中立条約の更新を拒否……という可能性が生じます。この場合、同盟国は消滅している訳ですから、まだまだ未熟な大東亜共栄圏だけで米英ソと戦わねばなりません」
「ううむ、実に面倒な戦争なんだな」
考えもしなかった想定に高谷は寒気を覚え、深刻な表情を浮かべる。
一度脱落しようとも、態勢を立て直して再戦を挑まれる。その可能性を考えるとドイツにもっと頑張って貰わねばならないが、そうするとインド洋ではもっと積極的な戦争が必要となってくる。日英独伊の同時停戦ならいいかもしれないが、これはどうやるのか分からない。さっぱり出口が見えないような感じだった。
だが数十秒すると、高谷は思考を放り出してしまった。
一介の大佐に過ぎぬ自分がそこまでよろしくない頭で何を悩もうと、戦局にまるで影響などないとの結論に着地したからだ。どうにもならないのだから、余計なことを思い煩わず、できる範囲でできることをする。それでどうにもならなければ潔く戦死するまで。そう考えていた方が気が楽だし、士気も上がるというものだろう。
「まあ、そのうち何とかなるんじゃないか? 連合国内で仲間割れとかしてな」
「艦長は楽観的ですよね」
「それが我が一番の自慢だ。してヌケサク、我々の目下の問題は手柄だ。アッズ環礁で大立ち回りして十数隻を拿捕したことは、大本営発表でもちょっとしか宣伝されんし、やはりこれは主力艦の撃沈がなかったからに違いない。であるから次の敵がどう出るか、それが最重要だとは思わんか?」
「そうですね……近く米空母が、セイロンに入る可能性はあるかもしれません。先程は地中海が最優先とは言いましたが、動揺を防ぐべく艦隊を投入し、改めてエジプト方面に投入ということも考えられ……あ、申し訳ございませんが、少々厠に行って参ります。その間に盤面を弄らんでくださいよ」
「おう。全く、刺身が当たるとはヌケサクも運がないよな」
高谷はゲラゲラと笑い、微妙に赤面気味な抜山を見送った。
シンガポールに帰投する直前、皆でエフ作業をしていたところ、さっぱり馴染みのない魚が釣れた。白身のそれは案外と美味だったので、他の釣果と一緒に刺身にしたのだが、食した幾人かが尻から油が止まらなくなったと訴え出したのである。そのうちの1人が抜山で、未だに症状に苦しんでいるようだった。
言うまでもない、この魚はバラムツという名で、後の日本では流通が禁止される代物である。
なお当たらなかったものといえば、抜山の直近の敵動静に関する予測だった。
米海軍の航空母艦はセイロン方面にやってくるのではなく、中型爆撃機を積んで東京を爆撃するという、荒唐無稽なことをやってのけたのである。早稲田中学を爆撃したり逃げる小学生を機銃掃射で射殺したりといった、ドーリットル中佐率いる人非人爆撃隊の所業に高谷も大いに憤った。
ただその一方、難しく考えたところで予測は案外当たらんものだと、これまた適当なことを思ってもいた。
明日も18時頃に更新します。インターミッション回でした。
英東洋艦隊が極東艦隊よろしく沈んでいたら、チャーチル政権に致命的打撃が加わっていたのでは? という話を見たこともあります。実際どんなところだったのでしょうね?
なおバラムツ、日本以外だと普通に売られてたりするらしいですね……。




