欧州関ケ原大決戦①
ノルマンディ:カーン近郊
9月上旬の宵闇の中ですら、米英航空機の跳梁は続いていた。
物資集積拠点や対空陣地、移動中の部隊などを狙った昼間の激烈なる爆撃ばかりでない。将兵を眠りに就かせんとばかりの空襲が、真夜中であっても続くのだ。特に英軍の高速爆撃機モスキートなどは、まったく厄介でたまらぬ機体であった。
直近の歴史を鑑みれば分かる通り、何割かの市民は空襲に勇気づけられてもいる。
とはいえ爆弾やロケット弾、機銃弾の雨に晒される側の人間は、内心そうした傾向を有していたとしても、態度や言動に表すことはできない。中隊が変われば民族まで変わるような、名前すらもあやふやな工兵大隊に属するシモン軍曹も、概ねそんな状況にあった。自分や仲間が籠る壕を築き、月面のようになった道路を復旧させ、時折散った戦友の亡骸を拾いながら、世界大戦という嵐が終わるのを待つしかないのだ。
「どうなるんだろうな、俺等ってば」
階級も年齢も同じなアンドレが、かつて農家だった兵舎の玄関先で、とりとめもなく呟いた。
「何でもそろそろ、米英が海峡を越えてくるって噂だ。ここの近くに上陸するのかもしれんらしいぞ」
「そうなのかな」
「なあジャン、そうなったらどうする? いっそ降伏しちまった方がいいってのかな?」
「そう言い続けながら、もう何年にもなるじゃないかよ」
軽佻浮薄なアンドレの言葉に、シモンもちょいと苦笑い。
実際、巡り合った当時はどちらも兵隊だった。配属先はチュニジアに駐留していた部隊で、ポーランドが滅ぼされて軍歌の足音が世界各地で響きつつあった中、伊領リビアからの侵攻に備えて陣地を築くなどしていたのである。
ただそれから先は、なかなかに波乱万丈だった。
鉤十字の機甲部隊が突如としてアルデンヌの森を突っ切り、大陸軍を擁するはずの祖国は間もなく降伏。何もかもが宙ぶらりんとなる中、ロンメル将軍の下で米英相手の後衛戦闘支援をやることなり、久々に本国に戻れたと思ったら、今度はセルビヤやラトビヤの連中とゴチャ混ぜにされた。
そしてアンドレの話が本当ならば……またもドイツ人の風下で、かつての同盟国との戦闘に巻き込まれるのである。今年の分はもう収穫したかもしれないが、来年のブドウの出来は最悪に違いない。
「まあ、なるようにしかならんさ」
鬱々とした現実をそんな言葉で糊塗し、コトコトと音を立てるコンロを眺める。
そろそろいい具合だろう。シモンは湯だった黒色の液体、大豆コーヒーをカップに注ぐ。当然、戦友の分もである。
「今はこいつでも飲もう。本物が飲めるようになるまでは、こいつで我慢だ」
「ありがとうな」
アンドレは味わうなり微笑み、
「配給のはゴミだが、お前が淹れるのは美味い。何故なんだ?」
「経験の差という奴だよ。餓鬼の頃なんて、特に女の子の前では、やたらと大人ぶりたくなるだろ? でも本物を買うカネなんて持ってないから、色々工夫を重ねたって訳さ。タンポポを使ったりもしたっけな」
「へえ。その子、今も元気に……」
他愛もない言葉の最中、シモンは何か言い知れぬ悪寒を覚えた。
視線は自ずと上を向く。月明りにのみ照らされた夜空から、音もなく降りてくる漆黒の影が、間違いなく存在していた。
「あ、ありゃあグライダーだ!」
「えッ、冗談だろう!?」
「冗談なものか、あいつら降りてくる気だぞッ!」
シモンは驚愕しながら叫び、思わず大豆コーヒーをズボンに零す。
その熱が何とも思わぬくらいの緊張が漲っていた。すぐさま大音声を発し、未だ夢見心地であろう者どもを叩き起こす。想うところがあろうとなかろうと、まずは仲間とともに生き残ることを優先しなければならなかった。
史上最大の作戦。人をしてそう言わしめた着上陸作戦の急先鋒は、まったく静かにフランスの地を踏んだ。
サントノリーヌ・デ・ペルテ:海岸線
如何なる戦場においても、大地に身を潜めることは有効だ。
野戦築城学を紐解けば、かような結論は容易に導出できる。ただ第352歩兵師団に所属するドイツ人達は、浜辺に連なる丘に築かれた堅牢な半地下陣地や巧妙に隠蔽されたコンクリート製トーチカ、あるいは簡素な蛸壺に逼塞しながら、それが疑いようもない真理と身をもって理解していた。
東部戦線を生き延びた歴戦の古兵からすれば、態々口にするまでもない常識だった。
それでも沖合に浮かぶ艦艇群から127㎜以上の大口径砲弾を何千発と浴びせられ、果ては戦艦の30.5㎝砲弾を投射されても尚、人的損害が極めて小さかったという現実が、彼等に結構な自信を与えていた。招集されて間もない補充兵にとっては尚更だろう。恐怖のあまり小便を漏らしてしまった自分を笑い、口内に溜まっていた砂埃を吐き捨てながら、肝っ玉の据わった表情で重機関銃に取り付く若人の姿すらあった。
だが――引き続いて現れた水陸両用戦車や上陸用舟艇は、彼等が精神力の何割かを破砕した。
「あ、あんな数が相手なのか」
「やべえよ、やべえよ……」
誇りあるドイツ軍人であれ、経験が短ければやはり狼狽えてしまう。
古兵達もまた逸る気持ちを抑えるので手一杯。後方に布陣しているはずの野戦砲が一向に射撃を開始しないので、それらはもしや空襲や艦砲射撃でガラクタに変わってしまったのではとの危惧も湧き出した。
「案ずるな。全ては我々の作戦のうちだ」
「古の兵法にも、敵の半分が川を渡ったところで攻撃をしろとある。それまでは我慢しろ」
下士官や尉官達の叱咤は、半ば希望的観測に基づいていたかもしれない。
だが実情がどうあっても、撃てと命ずるまでほぼ射撃を行わしめなかったことは、特筆に値すると言えるだろう。恐怖に駆られて早々に撃とうとする者を抑止するは、兵にとっては敵よりも恐ろしい軍曹に他ならぬ。
そうした悍ましき静けさの中、敵の軍勢は次々と海岸に取り付いていく。
戦車揚陸艦が機雷に触れて沈没し、何隻もの上陸用舟艇が荒波と障害物によってひっくり返ったりするなど、被害は既にかなりのもの。早々に動きのとまった艇からの出発を余儀なくされた米兵も大勢おり、砂浜に達したところで地雷を踏んでバラバラとなった者も少なくなかったが、ともかくも第一波は欧州大陸へと到達し始めた。
「よし……撃てッ!」
指揮官の号令。彼の管制下にあったあらゆる兵器が轟然と火を吹く。
小銃や機関銃といった比較的軽量な火器から、15㎝級の野戦砲に至るまでの全てが、米陸軍第1師団を中心に編成された揚陸部隊を激しく撃ちまくる。まともに身動きの取れぬ彼等は片っ端から死の顎に食い千切られ、無残な死体のみが折り重なり、流れ出た血液が明媚であるはずの砂浜を真っ赤に染めた。作戦指揮の混乱からそこに殺到するしかなかった第二陣もまた、凄惨という他ない運命に見舞われた。
かくしてオマハ・ビーチと米英軍が呼称していた領域は、血染めの浜と呼ばれることとなった。
5か所同時に実施され、うち3か所で橋頭保の確保に成功した上陸作戦。最初の24時間で生じた2万超の犠牲、そのうちの概ね4割ほどが、まさにこの砂浜で発生したのである。
大西洋:ブレスト沖
「な、何なのだ、この命令は……!?」
出撃後に開封。そう厳命された命令書を一瞥するや、潜水艦U-181艦長のピッチ少佐は目を丸くした。
ジブラルタル海峡を突破した後、ツーロン軍港へと入港せよ。要約すればそんな内容が書面に記されていて、思わずビリビリと引き千切ってしまいたい気分に襲われすらした。
「連合国軍による欧州上陸が遂に始まった今、大戦が最大の山場を迎えていることは、火を見るよりも明らかである」
「この重大局面において鍵を握るのは、我等Uボート乗りに他ならない。雨霰と降り注ぐ爆雷を恐れることなく突き進み、犇めく敵輸送船を悉く撃沈、物量に驕りし米英の軍勢を海に突き落とすのだ」
ピッチはブレスト軍港の重厚なるブンカーにて、かような演説を一昨日したばかり。
にもかかわらず、与えられたのは南フランスへの移動命令。事実上の退避命令と考えられた。今も硝煙弾雨に晒されながら、海岸線で敵の猛攻を食い止めているであろう国防軍や武装親衛隊と比べると、自分達はどうしようもない臆病者の卑怯者としか思われまい。衝動的に拳銃の撃鉄を下ろし、こめかみを撃ち抜いてしまいたい気分だった。
そうして失望は他の士官達にも伝染し、海軍組織に対する失望を露わにする。
U-181は最新鋭ではないにしろ、既に5万トンもの商船を撃沈しているし、何より戦艦『ロドネー』を撃破した艦長に率いられているのである。そんな殊勲艦に対して、敵を前におめおめと引き下がれとは、まったくデーニッツ元帥も耄碌したものだ。憤懣やるかたなき声が発令所のあちこちに響く。
だが――新任であるが故の思考の柔軟さというものも、稀ではあるが存在するのかもしれない。
周囲が揃って沈痛な色を浮かべる中、潜水艦学校を出たばかりな上に鬱陶しいまでに熱心なナチ党員なる航海長が、ある可能性に行き着いた。
「これは……総統閣下の戦略判断があっての命令と愚考致します」
航海長は臆せず具申し、熟練者達の視線を一新に受ける。
それらはゲルマン騎士の長槍が如き鋭さと衝撃力を有していた。常人ならばそれだけで萎縮しそうなものだが、彼はクソ度胸とアーリア優越理論でもって耐え抜きた。
「ほう……では、申してみよ」
「はい。大西洋方面の防衛は水上艦隊および陸空軍が担うものとし、それらが活動に不可欠な原油供給路の安寧維持を、我々は総統閣下より任されたということではないでしょうか? 地中海方面にはこれまでにも度々、米機動部隊の来航が確認されております。また機甲師団も航空機も、石油がなければ置物にしかならぬのは自明の理と存じます。つまり我々が地中海の脅威を排するが故、世界に冠たるドイツ民族はこの戦争に勝利し、放埓で堕落した民主主義の影響を排した生存圏を確立できるのです」
かような具合に滔々と、独自の論理が展開されていく。
地中海が重要な資源供給路であるのは事実で、相応の説得力があると、次第にピッチにも分かってきた。自分達は役立たずだからではなく、紛うことなき精鋭であるからこそ、ここは退かねばならない。甘美で妥当性のある結論だった。
「なるほど、よく理解できた。航海長、なかなか見どころがある」
「ありがとうございます!」
「うむ。だが……正誤が分かるまでに時間がかかりそうなところが、難儀なところである」
ピッチは不敵に笑い、それから朗らかな面持ちで転針を命じた。
もう1つ難儀なところがあるとすれば、かような分析があっても尚、ノルマンディー突入を望む者が多かったことだろうか。
次回は7月14日 18時頃に更新の予定です。
連合国軍が遂に欧州への第一歩を踏み出しました。激戦の行方は如何に?
ところで代用コーヒーは大豆やタンポポから作るそうですが、ドイツ人に見せるととても嫌な顔をされる……とよく聞きます。今でもそうなのでしょうか?




