地中海遠征大航海⑤
イオニア海:サレント半島沖
「これまでも苦難の航海ばかりであったが、今回のそれは地獄の航海となるだろう。だが地獄が如き海にあっても、我等は必ずや大悪魔を討ち取り、オランの港へと凱旋する」
敵対的海域の真っ只中にあって、ブランチャード少佐は大仰なる演説をした。
実際、彼が艦長を務めるガトー級潜水艦『アルバコア』の航海は、過酷としか言いようのないものだった。連合国軍の潜水艦と枢軸軍の対潜艦艇、対潜哨戒機が死闘を繰り広げてきた地中海の、特に戦力密度が高いとされるシチリア海峡を突破し、更にマルタ沖を経由してイオニア海へと至ったのだから。当然、イタリヤ海軍の本拠地の目と鼻の先なるそこもまた、信じ難いほど熾烈な戦場であるに違いない。
それでも『アルバコア』の乗組員達は、経験に裏打ちされた自信に満ち溢れていた。
何しろ彼女は地中海戦線の最古参なるうちの1隻である。1942年の晩秋に就役して以来、十数回もの出撃をこなしており、7万トン超の撃沈トン数を誇っている。そのうち最大の獲物たるは、先月に撃沈した戦艦『カイオ・デュイリオ』。他にもイタリヤ海軍の駆逐艦やフリゲート艦を返り討ちにしたことが数度あり、急速潜航の不手際が故で本来は大変よろしくない事案だが、迫りくる水上機を対空機関砲で撃墜したことすらあったのだから。
そんな殊勲艦に乗り組む者達ならば、如何な敵であれどんと来いといったところであろう。
「墓碑に刻まれるべき大悪魔の名、それは……」
ブランチャードはそこで一呼吸置き、
「言うまでもなく『天鷹』だ!」
「おおッ!」
艦内放送を聴いた者どもがどよめいた。
それから友軍の上陸作戦を邪魔するため、食中毒空母はタラントに向かっているとの説明が付け加えられる。ジブラルタルから打電された命令は、揚陸船団が既に引き返していることには触れていない。
「ともかくも我等の出番が来たのだ。あの忌々しいあばずれを、イタリヤ人どもの目の前で沈めてやろうではないか。さすれば我等が撃沈トン数は、何と10万トンの大台に乗る。そうなれば海軍でトップな上、唯一無二の戦果だぞ」
そんな具合に潜水艦の誇りと名誉心に訴えかけ、
「ただしあの食中毒空母は、食中毒を起こすようなイカレた空母であるとはいえ、開戦から今に至るまで生き延びた悪運強い艦であることだけは間違いない。となれば奴を沈めるために必要となるものは……諸君等の一層の奮闘努力だ。天は自ら助けるものを助く。油断せず、全力でかかろう。以上だ」
ブランチャードは演説を締め括り、乗組員達の戦意を沸騰させた。
歴戦の『アルバコア』は新たな目標目指して舵を切り、哨戒網や機雷源を縫うように進んでいく。その途上、イタリヤのZ.501飛行艇が上空に現れたりもしたが、幸運なことにそのまま飛んで行ってしまった。
米英艦隊は引き返してしまったらしい。唐突に齎された報に、高谷少将は心底ガックリする。
何故かような結末に至ってしまったかなど露も知らぬ彼は、地中海の潮風にボンヤリと当たった後、気晴らしにと飛行甲板で素振りなど始めたりした。するとペルシヤ湾での決闘伝説に肖ろうとする飛行機乗り達が、続々と試合を申し込んできたりしたのだが、繰り出される一撃一撃が普段よりも随分と重かった。
もっとも憤懣やるかたないのは同じなので、長年鍛え抜いた技を手加減無用で振るって弾き返す。
ただ仇敵と相対する機会が奪われた彼等もまた、悔しくてたまらぬのだとよく分かった。スエズやギリシヤ沿岸では暢気そのものに見え、色々と大丈夫かと心配になったものの、この分なら問題などないだろう。これがこの世の見納めとなるかもしれぬとの自覚があるからこそ、享楽的な態度を取っていただけなのである。
「まあ、何かの拍子に敵も襲ってくるかもしれん」
高谷は放言した後にその理由を考え、
「実際、敵機動部隊の攻撃で『アクィラ』が損傷したりしておる訳だから、二匹目の泥鰌をと考える可能性も十分にある。ならばそこを返り討ちにしてやればよいのだ」
「なるほど確かに」
汗とコブ塗れになった飛行機乗り達は、まあ一応の納得は得たようだ。
それから誰かがふと空を見上げる。エンジンの音を高らかに響かせながら、九七艦攻が飛び立っていくのが見えた。ただし主翼に描かれた標識は、普段見慣れたものとは異なっている。
「おっと、『ファルコ』のか」
「空の上からなら、故郷の街並みが見えておろうな」
「イタリヤ人にももっと奮闘してもらわんと」
そんなことをガヤガヤと言い合いながら、飛行機乗り達はサイダーを飲んだりした。
飛行甲板の長さが足りないからか、あるいはまだまだ航空母艦というものに不慣れであるからか、発艦が少しばかり危うく感じられるところもなくはない。とはいえ元々の技量が劣悪といったことはないし、見慣れた海で哨戒任務をこなしてくれているのだから、まったくありがたい限りである。
ところで『ファルコ』はイタリヤ海軍に組み込まれた後、主に対潜掃討や船団護衛に用いられる予定とのこと。
客船改装の彼女の最大速力は精々21ノットといったところであるし、シチリア海峡に大規模な機雷堰を築くなど諸々の努力があって尚、地中海で喪われる艦船は物凄い規模となっている。とすればまったく妥当な判断に違いないのだが、向こう見ずで攻撃一本槍な性格の人間には、それがどうにももったいなく感じられてしまうのだ。
「いやまあ、その分を俺が頑張っちまえばいいだけか」
高谷の導出した結論は何時もの如く短絡的。
それから敵のいるであろう方向を睨みつけ……彼は奇妙なものを発見した。イオニア海の穏やかなる波間の中に、筒状のものがポツネンと浮かんでいたのである。
「ははは、こいつはドンピシャリだ!」
潜望鏡が捉えた艦影に、ブランチャード少佐は歓喜する。
目の前を悠々と横切ろうとしているのは、言うまでもなく『天鷹』であった。これより潜水艦『アルバコア』の撃沈記録に、連合国軍に夥しい嫌がらせを仕掛けてきた食中毒空母に鉄槌を下すのだ。輝かしい限りの未来が垣間見え、乗り組んでいた誰も彼もが、この瞬間のため我が人生はあったのだと実感すせざるを得なかった。
「魚雷発射管一番から六番、発射準備」
ブランチャードは高吟するかのように命じた。
態勢が整うまでの時間は酷く重い。望遠レンズ越しに艦影を凝視しつつ、魚雷を撃ち出すまでに舵を切ってはくれるなと、ただひたすらに神に祈る。
「魚雷発射管一番から六番、発射準備よし! 何時でもいけます!」
「よし……撃てッ!」
発令。圧搾空気が魚雷を押し出した。
それから間を置かず潜望鏡を収納し、急速潜航するよう命じた。何事も命あっての物種であるし、部下を生き残らせてやるのが指揮官の仕事に違いないが、敵艦の舷側に水柱が立ち上る瞬間を目視できないのはなかなか惜しい。
それでもブランチャードは勝利を確信していた。
目標の針路や速度は変わらず、彼我の距離も1マイルと離れていなかったためだ。魚雷の駛走には別段問題なかったし、かつて潜水艦乗りを散々に悩ませた信管の不具合も、アインシュタイン博士の尽力によって既に過去のものとなっていた。
「この距離だ、外れてなどくれるなよ……!」
「左舷90度、雷跡! 距離1500!」
「雷跡は6つ! 向かってくる!」
見張り員の絶叫に、艦の誰もが凍りつく。
何時の間にやら忍び寄ってきていた敵潜水艦が、扇状に放ってきた魚雷。それらは確実に『天鷹』を捉えていたのである。
「抜かったか……!」
艦内へと避退する高谷少将の脳裏を、絶体絶命の四文字が駆け抜ける。
命中までの時間は1分あるかないかで、取り舵したところで被雷は避けられそうにない。勇敢なる右舷機銃員達が大慌てで配置につき、海面を25㎜機関砲弾を叩き込んだりするも、それらが効果を上げる見込みは著しく低かろう。とすれば後は『隼鷹』だったか『飛鷹』だったかのように、魚雷を4発食らったうち3発が不発といった幸運を期待する他なさそうだが……それももはや昔話となってしまっていた。
とすれば『天鷹』も自分もここで終わってしまうのだろうか。
沈むならせめて敵機動部隊を相手に八面六臂の活躍を繰り広げ、友軍と御国を守る盾となって水漬く屍となりたかったところだが、まさかイタリヤ空母の送迎などというつまらぬ任務でこうなるとは。あるいはそんな驕りがあったが故かもしれぬが、今更何を言ってみてもどうにもなりそうにない。そう思うと何もかもが呆気なく、また不良揃いながらもついてきてくれた者達への申し訳なさが溢れ出た。
だが――何処か従容とした諦観を弾き飛ばすように、上空より発動音が近付いてくる。
「おい、ありゃあ……」
「イタ公の……まさか!?」
そのまさか。イタリヤ海軍航空隊の九七艦攻が、機体そのものを用いた魚雷処分を敢行せんとしているのだ。
『ファルコ』を発艦したばかりであったらしいかの機は、まず後部座席の偵察員と航法員を大急ぎで落下傘で降下させた。それからフラップを最大まで開き、失速寸前の速度を保ちながら、駛走する魚雷の上空ぎりぎりまで肉薄する。続いてパイロットまでが飛び降り、九七艦攻は己が主を失いながらも、見事雷跡に覆いかぶさるように降下していく。
そして衆人環視の中、遂に機体は海面に接して水飛沫を上げた。
ひときわ大きな爆発はその直後。搭載されていた対潜爆弾が海中で炸裂し、更には魚雷の弾頭を誘爆させたようだった。『天鷹』と交叉するはずだった魚雷は2発あったが、それによって片方は完全に無力化され、もう1発は猛烈なる水中衝撃波によって針路が明後日の方向へと捻じ曲がってしまったのである。
「お、おおッ……!」
「やったのか!?」
奔騰する水柱をただ眺める者どもと同じように、高谷もまた茫然自失。
艦が無事が確保されたことへの安堵もなくはないが、数分の間に乱高下した運命に精神がブン回され、原型を留めなくなってしまったような雰囲気だ。米潜水艦による奇襲的雷撃にイタリヤ人パイロットの信じ難い決死行、絶体絶命と思われた乗艦の残存と、一気に色々なことが起こり過ぎて思考の整理がつきそうにない。
「と、とにかく……敵潜の制圧と搭乗員の救助を急げ」
どうにも覚束ぬ調子で命じ、それからイタリヤ人とは分からんと漠然と思った。
始終女の話ばかりしているかと思いきや、突然びっくりするほど果敢なる行動に出たりする。助けられた身ではあるが――同盟国とはいえ他所の軍艦を守るために、身を挺しまでするのには仰天するしかない。
(まあ、そのうち色々と分かるのかね……?)
水平線に浮かび上がり始めた陸地を一瞥し、高谷はゆっくり首を傾げてみる。
暫くすると空には複数のイタリヤ空軍機が現れ、本土近傍に侵入した敵潜水艦をその面子にかけても沈めんと、あちこちをブンブンと飛び交い始めた。その割には結局取り逃がしてしまったりはするのだが、ともかくも存外に勇猛なる彼等に見守られながら、『天鷹』はタラントへと入港していった。
次回は5月24日 18時頃に更新の予定です。
かわせない。現実は非情である……と思いきや、イタリヤ軍がきて助けてくれました。
本作品のイタリヤ軍は燃料も豊富で未だ本土の失陥もなく、戦果も挙がっている関係で、割合士気が高めです。




