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ありふれた悲恋の話

火刑宣告

作者: 兄鷹

ぜんぶ燃やしたくなることってありますよね。

 それは確か、私がまだ十八の頃だった。

 私の姉三人は早々に家を出て、長男の私が唯一人、両親と共に過ごしていた。


 そんな私は、実家の農家を継ぐのが嫌で、東京の学校へ逃げるようにして進学する予定であった。その先の展望はなく、何も選択しない自由を行使するだけである。


 この時、私は遠回りに“逃げている”事をほんのりと自覚していたが、実はしかし、モラトリアムな行動も全くの無為というわけでもなかったのだ。

 現在の肯定は、過去全ての肯定に等しい。だが、自分を肯定するっていうのは本当に難しい。私の場合は、どれだけ努力しても、どれだけ結果を残しても、自らに自信が持てなかった。思うに、自己同一性の肯定とは独りで達成可能なものではなく、誰か他人に肯定してもらうことが重要なのではないだろうか。

 他人に認めてもらうための自己主張も、自信が伴わなければ虚しい。矛盾だ。

 

 ――しかし、このような思考も全く無駄ではないのだ。


 素敵な人に、「うん、そうだね」と、心からの肯定を含む同意を受ければ。

 それは私にとって、将来に対するぼんやりとした不安を吹き飛ばす程度の力を持つのだ。


 ……と、ここまでが現在の私の生きる意味なのだが、目下の目標は部屋の私物の整理だった。


 何も知らないという事だけを知っている?弟子のプラトンに課題を丸投げして死んだ無責任なドMも、結局、私の中では部屋掃除にとって代わられる。


 私達は今日、権力に踏みつけられて絶頂するような、真性のマゾヒストになる必要は無い。そう思ってしまうのは、齢十八の鎖に縛られているだろうか。

 私は、部屋に散在する雑誌に目を通してから、ゴミ袋の中に投げていく。

 本が積みあがるその様は、私の心象に何かを訴えているように思えた。

 数十年前、ベルリンのとある広場で、積み上げられた本が燃やされたのだが、当時の私にとっては遠い出来事だった。


 こうしてみると、圧倒的に文芸雑誌が大半を占めているが、中には全く違った趣旨の、何時買ったのかさえ覚えていないようなものもあった。


 例えばこの「百名山の道」。私に登山の趣味などなかったし、この付箋も付けた覚えがない。付箋の頁を開くと、間に何か挟まっていた。

 薄汚れたそれを摘まんでみると、しぼんだ菫によごれた捲き毛が絡みついていた。


 瞬間、すっかり褪めた思い出の断片が、質量をもって私に襲い掛かった。


 思わぬ眩暈に、膝をつく。

 手に持った雑誌を、壁に叩きつけてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをしても何も変わらない。


 表紙には爪の痕が残った。こすってみたが、消えなかった。消すつもりもなかったのだけれど。


 百名山も、至極普通にゴミ袋に投げた。菫と捲き毛は、手に握りしめたままだ。この品には、別の方法で決着をつけなければならないと思った。


 ふと思い立って、衣装箪笥の扉を開けた。忘れていたがこの箪笥、二重の底が板で隠れる仕組みになっていたのだ。

 千枚通しで板を外すと、木の香りがあたりに漂った。

 目的の箱は、心情に反して拍子抜けするほど軽かった。

 埃の被った寄木の箱には、真鍮のダイヤル錠が付いていて、三桁入れると開くようになっていた。


 箱の存在はすっかり忘れていたはずなのに、錠を回す手は淀みなく動いた。


 ……4/3。なんとなく、口の中が苦い。


 軽やかな金属音と共に鍵が外れた。一瞬、蓋を開けないで、このままにした方がいいのではと躊躇った。しかし、東京へ行くのだから、身を縛る鎖は少ないほうがいいと思いなおして、そっと箱を開けた。


 千切れかかった手紙の紙片。その場限りの嘘の言葉たち。とっくに忘れたはずの、心のがらくた。


 嗚呼、まだ此処に残っていたのか。


 過ぎし日のまぼろしがぼんやりと浮かび出て、傍にいたあの頃が偲ばれる。

 君は窓から見ていたはずだ。月影を浴びて立つ、石のような、この私を。

 そこには憤怒があった。分かりやすく、いっそすがすがしい怒りだった。

 怒りは負の感情ではないと言った者がいた。根拠があっての怒りであり、それがなければ、憎しみだと。理由のない憎しみは、憎まれるものにとって最悪だ。


 根拠のある怒りは、必ず怒れる者を前に導いてくれると。どこかで聞いた様な、ありふれた話ではあるが、この理屈を考えた者は、常識として考えられている“感情”に、疑問を持ったのだ。


 それは凄まじいことだ。時代の変遷にあるパラダイムシフトの様なものが、精神成長の中に存在するならば、既存の概念を疑うことで、間違いなくそのうちの一つの変遷を経験することになるだろう。しかし、悲しいかな、私はどんなに精神的に成長しても、それが自らの自信につながるという事は一切なかった。


 認めてもらいたくて、認めてもらえるような人になろうと努めた。


 他人に認めてもらうための自己主張も、自信が伴わなければ虚しい。

 その矛盾は、揺り籠から墓場までついてまわる。


 私はがらくたを引っ掴んで、部屋を出た。壁暖炉に細い枝をくべ、新聞を捩じって焚き付けにした。


 暖炉にがらくたを、皆投げ込む。

 がらくたが震えて、幸福や不幸と一緒に炎と燃える。

 愛を誓った、その場限りの嘘の言葉たち。皆、灰になる。煙突を通って、塵と消える。


 私は暖炉の近くに腰かけて、唯ぼんやりと、その様を眺めていた。

 窓から覗いていた、あの人の顔が思い出される。表情を映さないその白い顔が、月明かりに輝いていた。


 炎がうねり、憂いの最期を告げる。


 灰になったら、これであばよだ。

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