黒髪
黒髪の乱れも知らず打ち臥せば
先づかきやりし人ぞ恋しき
和泉式部・後撰和歌集
どうしてこうなってしまったんだろう。どこでどう間違ったのか、どこでどう道を迷ってしまったのか。足元に広がっていくなまぬるい海を感じながら、あたしは繰り返しつぶやいていた。……
彼と話をしたかっただけなのに。それでやり直せるなんて思っていなかったし、親切に忠告してくれた友だちにもピリオドを打ちに行くだけだからって笑って言ってたのに。
そう、もうダメなんだろうなって、20歳前の子どもじゃあるまいし、そんなことわからないようじゃ東京に住んでいる資格だってない。もう会わない方がいいのもわかっていた。だのに仕事がいそがしいからって言い方が気に食わなかった。
男はすぐに仕事を盾にする。女にとってカタキみたいなものだ。ムキになったあたしはしつこく予定を訊き、会う約束を取り付けるまで、2か月も経っていた。あたし以上に彼がじりじりと怒りを募らせているのが電話の口調やメールの文面で見て取れた。それを自虐的におもしろがってさえいた。
最初はよかったんだ。SNSで知り合ったというお互いのひけ目が遠慮っていうか、いい間合いになっていたと思う。
付き合い始めてしばらくして、彼の高校時代からの親友に引き合わせてくれるようになって、有楽町のパブで気を使いながらしゃべっていたら彼がトイレに行った時に、その友人は話の接ぎ穂に困ったのか、何の他意もなく訊かれた。
「どんなきっかけで交際を始めたんですか?」
一瞬、言葉に詰まったけれど、控え目な女ってイメージでいたかったから、こう答えた。
「彼に訊いてください」
彼の方からナンパでもしたみたいに響くよう、照れくさそうに言った。
あとでそのことを彼に言うと、やさしく髪をかき上げてくれて、上に乗ったあたしの顔が赤らむまでじっと見詰めてからこう言われた。
「きっかけは覚えてないな。あんなかわいい子を彼女にできたのは不思議なことだったよ。そう答えたかな」
……本当に幸せな日々だった。そう思ってしまうのが悲しい。
2か月ぶりに会った結果は最悪だった。彼がお気に入りの西麻布のイタリアン・レストランで、ちょっとした拍子に泣き出してしまった。理由も原因もわからない。そうなるように2か月間掛けてしまったのかもしれない。
『人前で泣くって反則だよね』って別れた彼女のことを引き合いに出して、何気に言われたことがあった。もちろん気質的に我慢できないって彼が宣言したことを忘れるはずもないし、彼の視線がすうっと冷たくなったこともわかっていた。でも、いったん涙があふれ出したらどうしようもなかった。
大きめのバッグの中を覗いてひやりとしながら、ハンカチを出して涙を拭いた。これまでなら、バッグを手に取る前にあたし用のハンカチが少し武骨な左手に乗って出てきたのに。
とどめは赤ワインだった。
「これはよく空気に曝すとやわらかくなっていいね」
テイスティングでそう言って、デキャンタに開けさせた。しばらくするとふうわりといい香りがする。
「うん。スペインのワインらしい土の香りが背景に退いてるよ」
せっかくご機嫌だったのに、涙が止まった後も喉が詰まったようになったあたしはほとんど飲めなかった。赤みの強いルージュの唇跡だけが水晶玉を思わせるようなグラスに汚らしく着いている。
デザート・コースになる時に気遣わしげにウェイターが下げてくれようとするのを助けしようと手を出して、倒してしまった。冴えた音とともにワインの海が白いテーブルクロスに広がる。
「申し訳ありません」
そう言って、無表情にウェイターは厨房に下がっていった。あたしがハンカチでクロスを拭おうとすると、目を逸らしながら低くたしなめられた。
「そんな必要はない」
それは子どもの頃に読んだお話にあった、貴族の家に来た場違いな田舎娘に言うような調子だった。……
ティールームの方に移動して、エスプレッソを飲みながらあたしは静かに言った。
「ごめんなさい」
「いや。いいんだ。失敗は誰にでもある」
言葉面とは違い、失敗という言葉を聞かせたかったことが伝わってくる。あたしの迷いが消え始めていた。
「でも。……まだちゃんと話できてないし」
「そう? ぼくはできたと思ってるけど」
「ごめんなさい。……あたしが物分かり悪くて」
「もういいんじゃないか?」
「きちんと……けじめをつけておきたいの。あたしの気持ちの問題にすぎないんだけど」
「うん」
そう、あなたは下手に出られると弱い。強きを挫き、弱きを助ける。そういうふうに自分のことを思っている。それに潔癖症。『きちんと』って言葉に弱いはず。
「さっきみたいなことで迷惑かけたくないから、行きたいな」
「ぼくの部屋に?」
「ええ。……あ、誰かいるとかだったらいいの。鍵も返したいし」
鍵を返しに部屋に行くなんて、なんの理屈にもなっていないけれど、誰かいるって疑われて心外なあなたはそれに気づかない。
その後も渋りながらもあたしを連れて行ってくれた。彼の守護天使は眠っていたか、酔っていたのだろう。部屋に入るとあたしはどうせお茶も出してくれないってわかっていたから、すぐに言いたいことを言い始めた。
いつもより強めの声で、あたしを止めようとするものを押しやるような気持ちで。
「ちょっと待ってくれよ。そんな話をするなんて……」
「逃げるつもり? ひどいじゃないの」
あたしは彼が反論しようとしても、ほとんどその二つしか言わなかった。
『逃げるつもり?』、『ひどい』とても便利な言葉だ。相手の言うことを聞く必要もない。ただあたしをだんだん激しい気持ちに高ぶらせていくように作用する。
彼があたしの様子に気味悪くなった頃に電話が鳴った。仕事の関係のようだ。子機を持ってベッドルームの方に行くのを見て、男の盾、女のカタキを突き破るモノをバッグから取り出した。
「悪いね。どうしても現場に今すぐ来てくれって……」
思ったとおりの言い訳を鼻の辺りにぶら下げて、人の良さそうな笑みを浮かべて戻ってきた彼は、あたしの手の出刃包丁を見て、絶句し、視線を泳がせた。
あたしはもうしゃべらない。口を開けば勇気と決心が出て行ってしまう。
「おい。落ち着けよ。物騒だね」
青くなった顔をにらみつけていると、声は遠くから聞えてくるような気がする。鼻で呼吸しながらタイミングと距離を測りながら、少し近づく。まず腹を刺して、運動能力を削ぐ。……
人の殺し方なんてネットで検索すればいくらでも見つかる。今は彼氏も彼氏の殺し方もネットから取り出せる時代なの。
彼が逃げ出そうとする寸前に小走りにぶつかって、横腹を刺した。浅い。かすめただけのようだ。
「この野郎! おまえなんかに」
急激に赤くなった顔で、あたしの髪をつかんで引き離そうとする。
ばさっとあたしの髪がウッドフロアに広がる。鼻を打ったような気がする。どろっと鼻血が滴り落ちる。しかし、痛みを感じるような日常的な感覚はあたしにはもうない。身体が震えるだけだ。
すさまじい叫び声を挙げる彼に向かって、包丁をあたりかまわず突き出す。手のひら、肩、頬、首……あたしの舌と唇で愛撫した場所を傷つけていく。まるでベッドインの時のように彼は言葉を失っていく。
広く温かだった胸を3回目に突き刺した時に血が噴き出した。それでも恋人を殺し慣れていないあたしは野獣のように、ううん、とても人間らしく、しばらく包丁を振り上げるのを止められなかった。
……ストッキングが血の海でにちゃにちゃする。切り傷で指がひりひりする。血が固まってくっついた髪の毛をぶつぶつつぶやきながらいじる。明日、美容院に行って、明るい色に染めようかなとふと思った。
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