五月晴れの天使
その日も空は鼠色で、しとしと雨が降っていた。
青いビニール傘を右手でくるくる回しながら雨の中を歩く。
傘にあたって跳ね返る雨粒がツタツタトテトテと軽快な音で歌っている。
雨は好きだ。
特にこの季節の雨が好きだ。
暗い気分や悲しい気持ちになるとか言う人もいるけれど、初夏の心地良い空気の中ちょっと冷たい雫が落ちてくるのはなんとも言えない風情を感じる。
雨の中を散歩する人は少ないから何か考え事をしたい時にはうってつけだし、日頃の疲れとか悩みとかを雨が全部流してくれるような気がする。
僕は何を考えるでもなくぼーっと歩き続け、散歩道の途中の公園に足を踏み入れた。
木のベンチに持ってきたブルーシートを敷いて腰掛け、空を見上げる。
雨はまだ止みそうにない。
雲が空を隙間なく灰色塗りつぶし、カラスの鳴き声も上空を飛ぶ飛行機のエンジン音も聞こえない。
ぽたぽた傘に当たる雨音だけが流れる静かな午後だった。
そのままなにも考えず惚けることしばし、ふと水音が耳朶を震わせた。
上を向いた顎を下に引いて前を見れば、一人の少女が水たまりの上で戯れていた。
ベージュのワンピースに黄色い長靴を履き、水玉模様の傘をさして水を蹴ったり土に足跡をつけたり。
楽しそうに嬉しそうに遊んでいる。
今どきは晴れの日でさえ家に篭ってゲーム等に興じる子供たちが多いというのに、こんな雨の日で遊ぶなんて酔狂だなと思った。
でもよくよく考えて見れば、雨の日の公園にブルーシート持参でやって来て休憩している僕の方が物好きな奴だと思われることだろう。
雨の日の公園で遊ぶ女の子と雨の日の公園のベンチで黄昏る青年、どう考えても後者が不自然である。下手をすると不審人物として通報されそうだ。
遊んでいた少女がふと動きを止め、こちらを振り返った。
当然、彼女を見つめていた僕と目が合う。
少女は驚いたように目を見開いた。
どうやらベンチに座るこちらに気がつかずに遊んでいたようだ。
そしてなにを思ったか、パシャパシャと水飛沫を立ててこちらに駆け寄ってきた。
「お兄ちゃんこんにちは」
少女はこちらの目をまっすぐ見つめると、ニコッと笑って挨拶をしてきた。
「え?ああ、こんにちはお嬢さん」
咄嗟に返した挨拶はなんだかおかしな言い回しになってしまった。
「ふふ……おじょうさんってへんなのー。お兄ちゃんおもしろい!」
コロコロと笑う少女に顔に熱がたまっていくのが感じられた。恥ずかしい。
内心の動揺を悟られまいと僕は話題をそらした。
「んん!えーっと、君はどうしてこんな雨の日に公園で遊んでいるのかな?」
自然な話題の振り方だったと思ったが、なぜか少女は不満そうに口を尖らせた。
「ど、どうしたの?」
妹はいるがもう大きいのでこの年代の女の子と話す機会は最近は全くない。何か対応を間違えてしまったかと少し焦る。
「さっきの!」
「え?」
「だからさっきの!おじょうさんってやつもういっかい言って!」
どうやら目の前の少女は先ほどの妙に芝居がかった(と言ってもちぐはぐな)言い回しを所望しているようである。
「えーっと、了解。これはこれはお嬢さん、こんな雨の日にどうして公園にいるのかな?それもおひとりで?」
めちゃくちゃ恥ずかしい。年端もいかない少女を前に僕は何をしてるんだろう?
だけどその似非三文芝居は彼女のお気に召したようで、コロコロと笑ってくれた。
「ふふふ!やっぱりお兄ちゃんおもしろーい!」
「えーっと質問のこたえは?」
「え?う、うん……ふふふふ!!」
どうやら笑いのつぼに入ってしまったようで、少女はしばらくお腹を抱えて笑い続けた。
青や紫の紫陽花が弾いいた水滴が雲間ら差す光にきらきら光る。
「んふふふふ!にじがね、みたいの」
「虹って、空にかかるあの虹?」
「うん!雨がはれると見えるんだって。パパが言ってた」
「なるほどね」
なるほど納得。この子は虹が見たくてわざわざ雨の中外に出てきたのだ。晴れ間に虹が現れるのを期待して。
「お兄ちゃんは?」
「僕?僕は雨が降ってたからちょっと散歩しにきたんだよ」
「お兄ちゃんもにじを見にきたの?」
「違う違う。ちょっと考えごとがあってね。うまくまとまらないから、雨の中を散歩してみようかと思ったんだ」
「雨なのにお散歩しにきたの?」
「そうそう。僕は雨が好きだから」
「へんなの!!」
けらけらと少女は笑い、水溜りの周りをぴょんぴょん跳ねた。
「じゃあさ、いっしょに虹が出るまであそぼ!」
「え?」
「みんな雨だからあそんでくれなかったの。だからかわりにお兄ちゃんあそんでよ」
「ええ……」
おじさんという年齢になるには、まだまだ時間がかかるけれど、雨の日の公園で遊ぶほど子供でもない。
そんな僕の困惑なんてお構いなしに、少女は少し離れた木に向かい、こちらに背を向けて声を張り上げた。
「だーるーまーさーんーがー」
「わっ、ちょっと待ったちょっと待った」
「ころんだ!!!お兄ちゃんうごいたぁ!お兄ちゃんが鬼!」
「ぇぇ……」
強引に遊びに引きずり込まれた僕は、なぜか次第に夢中になって、少女と雨の中遊んでしまった。
「ちーよーこーれーいーっっと!わたしのかち!」
「負けた……ジャンケン強すぎじゃない?」
「えへんっ、がっこうではいちばんだもん」
「さすがでございます、お嬢様」
脚をそろえて一礼すると、少女はけたけたお腹を抱えて笑う。
「あはははっっ、お兄ちゃんひつじさんみたい!」
「羊じゃなくて執事だけどね」
「ひつじ?」
「しつじ、だよ」
「しーすーし?」
「し・つ・じ」
「しーつー……ああ!!にじ!!」
空を指差して叫ぶ少女につられて振り替えると、雲の間にスッと薄い七色のカーテンが掛かっていた。
「本当だ。虹見えたね」
「うん!ママとおともだちにおしえなきゃ!お兄ちゃんばいばい!」
「え?あ、うんまたね」
傘を持つ手を大きく振りながら輝く笑顔で別れを告げた少女は、テテトテテト、公園の向こうに消えていった。
「いつのまにか止んでたな」
優しくて明るい子だった。五月晴れみたいな笑顔と一緒に過ごすうちに、いつのまにか雨も悩み事も消えていた。
いつもは雨の中過ごして、止まないうちに帰っていたけれど、これからは晴れ間が見えるまで待ってみてもいいかもしれない。そう思ったある日の午後だった。
4年前に書いてたものをこそっと投稿しました。お読みいただきありがとうございます。