ただいま
長距離走るのって体力よりも、集中力だと思う。
だから無理。
魔人イヴィドギが玉座に座り始めてから十度目の朝が来た。
あと幾度朝を迎えれば、この生は尽きるのだろうか。
一向に腹は減らず、一向に喉は乾かない。そして一向に惨劇の記憶が薄れることはない。目を開ければ夢であったと、そう思わない日はない。
あの軽薄な異世界人はどこへ行ったのだろうか。
ここ数日その姿を見ていない。この国を脱し、ソーラスへと向かったのだろうか。無謀にもその身一つで。
だとすれば既に森の中で蛮族に身ぐるみを剥がされるか、妖精に誑かされるかして、動植物の餌となっている頃だろう。
惜しくはない。
ただ、あの男の持っていた短剣だけが、心残りだ。
唯一この世界で魔人を殺せる可能性を持った武器。
まさに神の兵器と言ってもいいあの短剣があれば。
あれがあれば。
「っ」
もはや波と海鳥の鳴き声しかしないはずのこの国に、聞き慣れた不穏な音が響いてくる。
「ごきげんよう。魔人」
現れたのは、白いローブを纏った初老の女。
ソーラスの女王、アナム・ソーラス。
イヴィドギは目も向けず、返事をしない。
「おや。そろそろ体力が落ち始めたのかしら? それとも、話すことすら面倒になったのかしら。どちらにせよ、歓迎されていないことは確かね」
気にも止めずアナムは馬を降りた。
「他国の城中に馬で踏み入るとは、魔人を恨むあまり礼儀を忘れたか」
「城中? はて、城などどこにあるのでしょう。あるのは馬舎よりも劣悪な環境にある魔種の巣窟だけでは?」
ぼろぼろになった城を揶揄する、明らかな挑発。
「怒りすらも湧かん。貴様も懲りんな」
「魔人の消滅はこの世界の悲願ですよ。諦められるわけがないでしょう。再び世界を常闇にするわけにはいかないのです」
「して、今回はどうやって殺す? 地獄の業火で熱するか? 大蛇の牙で毒殺するか? はたまた雷を落としてみるか? どれでも試してみるが良い。私を、殺してみせよ」
「いいえ。そのどれでもありません。我々は、神器を得ました」
「神器?」
アナムがローブの内から取り出したのは、碧色に輝く歪な意匠がこされた短剣。
それはあの、異世界人が持っていたものだ。
「初めて、驚く顔が見れましたね」
「貴様……あの異世界人を殺したのか?」
「魔人と一緒にしないでください。彼はソーラスで元気にしていますよ。今は年に一度の祭を楽しんでいるでしょう。我々も、早く戻って祭りに参加しなけなければ。彼らの家族も夫の帰りを待っています」
アナムの後方、滅びた町には埋め尽くさんばかりの兵士たちが待機していた。
その数は視界に入る限りで千はいるだろう。
たった魔人一人に対し、ソーラスの精鋭部隊がこぞって出征してきたのだ。
「……ではその短剣をどこで手に入れた」
「異世界の少年に協力していただいたのです。世界の毒である魔人を殺すために」
「協力、か」
そうかなるほど。この世界で生き抜くためには、協力は必要だろう。
あの少年もまた、大勢に身を委ねたのだ。
生き抜くために。
そしてそれは、正しい。
「では私は、死ねるのだな?」
「ええ。ようやく」
碧色の短剣を手に、アナムが歩み寄ってくる。
心の底から願った最後が、そこにある。
「その前に」
アナムは言って、イヴィドギの足元へとなにかを投げた。
それは四角い石板に描かれた、この国の紋章だ。鋭い牙を持った魚のような四足歩行の生き物の絵が描かれている。
「貴女の国の紋章です。何故何の信仰も持たない魔人が、このような紋章を掲げたのですか?」
「説明する意味があるか」
「私は魔人を畏怖の対象として以上に、研究の対象として興味があるのです。貴女がいなくなっても、いずれまた魔人は起こるでしょう。そしてその時、同じように滅することができるとは限りません。我々人類は、非情にも襲い来る脅威に対して、確実な対処法を見つけるまで、知識と経験を積み重ねていかなければならないのです。だから教えてほしい。魔人の、心を、少しでも」
「酔狂な奴だな」
イヴィドギは納得したかのように、静かに目を閉じ、口を開いた。
「……私が初めて意識を持った時。私は海の中にいた。その時既に呼吸の仕方を知っていて、泳ぎ方も知っていた。不思議な感覚だ。何も知らないはずなのに、自分がやるべきことがわかっていた。私の周りには色とりどりの魚たちがいて、それらはまるで私の誕生を喜んでくれているように遊泳していた」
「ほう」
「魔人の始まりは誰も知らぬ。私とてわからぬ。フォトンが寄り集まって成ったものという見方もあるが、私は、魔人は他の生物から進化し人の姿となった存在ではないか……そう思えて仕方がないのだ。だから私にとって、海に住まう彼らは家族であり、起源であると、そう思っている」
「だから、自分のかつての姿を、紋章に描き起こしたと」
「この姿形に深い意味はない。かつて仲の良かった人間の子供が、私の話を聞いて描いてくれたものだ」
イヴィドギは愛おしそうに石版を見つめる。
「そう。大海に棲んでいた生物が、人の形に進化したのが貴女だと……」
アナムはその足で石板を踏み潰した。
「醜い魚類が陸へと上がるな。海の藻屑に帰るがいいわ」
振り上げる。その右手に持った碧色の短剣を。
魔人を殺せる、唯一の神器を。
しかし、イヴィドギに振り抜いたその短剣は、彼女へ届かなかった。
振り抜きはした。
本来であれば、その刃はイヴィドギの脳へと到達しているはずだ。
なのに、その短剣の刃がない。
七海によって抜刀された刃が、再び柄の中に収まってしまっている。
「どう、して」
それに驚きを隠せないのは、イヴィドギだけではなくアナムもだった。
「どうした……早く殺せ」
「どうして……どうして!」
「アナム様!」
外からの声に振り替えると、兵士の一人が困惑した様子で駆けてきた。
「報告です。たった今、ソーラスよりナナミ殿が到着されました。どちらにお通しいたしましょうか?」
「なんですって?」
覚えのない報告に、アナムは外へと出た。
待機させていた討伐軍の隊列の奥。
そこからふらふらと、見覚えのある衣服を纏った男が近づいてくる。
「お母様。あいつ……」
同行していたファラが近寄り、同じように視線を向ける。
隊列が、その男の道を開けるように左右に割れていく。
そして、その男――吉良七海は城前まで辿り着いた。
「貴方、何をしに来たのですか?」
アナムが声を掛けるも、七海は汗だくで疲れきった表情で黙って脇を抜けていく。そしてそのまま玉座の間へと入っていった。
ファラと二人、顔を見合わせて追うように中へと入る。
七海は脇腹を押さえながらイヴィドギの前まで行くと、そこで力尽きたように前のめりに倒れた。
「貴様……」
驚いたように声を漏らしたのはイヴィドギだ。
「どうしてここに」
「いや……なんか、やっぱこっちの方が、水が合うなあと……」
地面に突っ伏しながら、七海は笑う。ただ笑うのもしんどそうだ。
「どうやって来たの?」
堪らず後ろからファラが尋ねた。
「馬……向こうで買って……途中、森で、変な弓を持った人たちに襲われて……」
「蛮族か……その脇腹、射たれたの?」
「いや、これはその後、走ってたから……僕あんまり、長距離得意じゃないので」
「走って逃げたってこと? 森の民は容赦ないはずよ。貴方みたいな人間を逃がすとは思えない」
「いやいや……そういう人たちがいるってのは聞いてたので、ソーラスから持ってきたお金とか、貴金属とか、いろいろ配ったら喜んで通してくれました……あ、でも予想外だったのは馬もとられたことです。おかげでひたすら走るハメになって……ここに辿りつくまでの旅路で一本映画、作れる程ですよ」
少しは落ち着いてきたのか、七海は力を振り絞って立ち上がった。
「魔人さん。ただいま」
七海はそう言って小さく笑った。




