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73.銀縁眼鏡上司と

 休み明け、仕事場での俺はと言えば惨憺たる有様だった。


 上司の指示が耳に入らず何度も聞き返してしまったり、パソコンの画面を開いたままボンヤリしていたり、車の鍵をどこに置いたか忘れて探し回ったり……極めつけにガラス戸に正面からぶつかってしまったくらいだ。―――それは俺に批判的な態度を取っていた筈のあの風間でさえ「おい、大丈夫か?具合悪いなら休めよ」なんて本気で心配するくらいの迷走ぶりで。なのに大丈夫大丈夫!なんてカラ元気で対応して、役にも立たないのに結局就業時間まで仕事にしがみついてしまった。


 いつもの俺なら『サッサと帰って寝た方が良い、無駄イコール悪!』なんてバッサリ諦めるところだろうに。……それだけダメージが大きかった、と言うことなのだろう。妥当な判断もバランスの取り方も忘れてしまうくらいに。


 単純に睡眠不足ってだけかもしれない。これ以上みっともない所を見せられないとカッコつけて飲み込んだ言葉の数々が、眠りに就こうとする俺の脳に雨あられと降って来て入眠を妨げるのだ。ああ、こういう台詞を投げつけてやれば良かった。本音はこうだったのに!いや、あれはあれで良かったんだ。口にしてしまえば自己嫌悪に陥るだけなんだ、俺は後悔なんてしていない!……そんな風に納得しきれない俺の中の子供な部分と大人であれと叱咤する心が、ザワザワ未練がましくせめぎ合って騒がしいことこの上ない。


 終わったことをいつまでもグダグダと悩むなんて。ホント、俺ってカッコワリィなぁ……こんな内面をそのまま出してしまったら、きっとみのりは『別れて正解だった』と胸を撫でおろすだろうし、みのりを押しのけてまで俺を手に入れたいと考えていたらしい花井さんは『がっかりだわ』なんて軽蔑した視線を向けるかもしれない。


 そこまで考えてふと思う。この先の人生で交わる可能性が極めて低い女性に対しても、良く思われたい、惜しい人物を手放したと思われたいと言う俺はやはり、かなり懲りない男なのかもしれない……。


 そんなどうしようも無いことをグルグル考え続け、抜け殻と化している俺の肩を、背の高い銀縁眼鏡のイケメンが叩いたのだった。




「戸次!この間はすまなかった。卯月が世話になったな」

「え、あ……はい」




 そうか、そうだった。もともと亀田部長の奥さんである卯月さんが、ヨツバに会いたいと言い出して。―――それで伊都さんも彼女に付いて俺の部屋にやって来たのだ。そこへみのりが現れて……。


「いえ、その……こちらこそあまりお構いも出来ず、すみません」

「誘っておいて一人だけ途中で抜ける事になってしまって申し訳ない、と伝えて欲しいと言われた。その詫びと言ってはなんだが、今日夕飯でもどうだ?渡したいものもあるし」


 手に持っている紙袋から少しだけ覗いているのは、以前貰った座布団の素材に非常に酷似している。それを目にして『この人は本当にうさぎ好きなんだな』と改めて思った。


 そう言う視点で見ると、冷徹そうに見える銀縁眼鏡も人を寄せ付けない雰囲気を醸し出す整った風貌や完璧なスタイルも、隙の無い整然とした厳しい指摘さえ何だか少し違って見える。俺の目に映る景色は、俺が耳にしている言葉や音は―――俺の側から見ればそう見える聞こえる、というだけで現実の物とは本当は違っているのかもしれない。


 つーか違った。それを今回まざまざと思い知らされたような、気がする。








 亀田部長に連れられて入った居酒屋は、駅前にある再開発ビルの二階にあった。


「よくこんな処知っていますね」


 俺も偶に利用する、何を食べても安くて上手い地酒の揃った居酒屋だ。地元っ子ならまだしも、赴任して半年も経っていないのに、と思ったのだ。

 疲れていた所為か、今日は酒が体に染み込むのがやけに早い気がする。ついつい頼んでしまった地酒が演出する酩酊感に身を任せると、凝り固まった気持ちも解れ口も滑らかになって行く。一方亀田部長が顔色一つ変えずに冷で飲んでいるのは石巻市にある酒蔵の超辛口。かつてこの地域一体を襲った大災害の壊滅的な打撃の跡はそこここに残るけれども、こんな風に当たり前に居酒屋で飲めるようになったんだなぁ、と思うと感慨深いものがある。俺が取りあえずのビールの次に頼んだのは大崎市の酒蔵の定番。そう言えばみのりは、この蔵の発砲酒がお気に入りだったなぁ、なんてほろ苦く思い出す。しかしそれにしても銀たらの西京焼きには酒が合うなぁ……!ああ、本当に酔って来た。そもそもこのコワモテ上司とさし飲みって!ちょっと前の俺なら考えられないことだ。緊張を解こうとしていつもよりペースが速くなってしまったかもしれない。


「ここも義母から教えて貰ったんだ。卯月が仙台に来る前は仕事帰りにここで夕飯にしたりな。ここなら職場からも近いし、便利だからな」

「そう言えばお姑さんと一緒に住まわれていたんですよね。やっぱり卯月さんが来るまでは、料理とかしてくれたんですか?」


 お姑さんと一緒に住むのはそんな忙しい亀田部長の生活を支える為でもあったのではないか?と単純に想像したのだ。酔いに任せてプライベートにズバズバ切り込んでしまうが、亀田部長は気を悪くする様子もなく、普通に答えてくれた。


「いや、義母は俺より余程忙しいからな。料理はほとんどしていなかった」

「そうなんですか?」

「彼女は現役の大学教授でな。半年近く同居していたんだが、ほとんど休みなく働いていて、家でも仕事ばかりしていたから―――結局ほとんど話らしい話もしなかった。あまり他人に気を遣うタイプでも無くて、女性と暮らしていると言うより男性とルームシェアしているような感覚だったな」

「へぇー、じゃあ結婚も割とアッサリ決まったんですか?ひょっとして見合いとか?」


 もう遠慮とか配慮とか、そう言うものは頭になかった。普段なら絶対口にしないような質問を次から次へと口に上らせてしまう。


 卯月さん、大学教授の娘さんだったとは。ホワホワした安らぎ系の普通のお嬢さんってタイプに見えたけど―――それはもしかして『箱入り』ってことなのだろうか?じゃあ、ひょっとして亀田部長と卯月さんって見合い結婚だったりして?上司に気に入られて見合いを勧められたとか。そーいうの、ありそうだ!


 亀田部長は確か三十八、九……だったか?この見た目だからかなりモテたことだろうに、これまで結婚しなかったってことは仕事が忙しくてそれどころじゃ無かったって事だろうか。それともモテ過ぎて選べなかったとか?ここに来てやっと、見合いで会った良いトコの若い嫁さんで手を打つことに決めて落ち着いたって所か。やはりハイスペックの出来る男にとっては人生はイージーモードなのか……。


 かつてほどの反発心は薄れたものの、やはり羨ましいものは羨ましい。一方で俺はと言えば女に振り回されるばかりの人生で―――今はヨツバと『お二人さま』で暮らして行く未来しか思い浮かばない。セロリの葉っぱを持って、寂しくヨツバに話し掛けるオレ……うーん、これは絶対モテない。


 しかしヨツバは『幸運のうさぎ』だからな。もしかして俺にも本当に幸運が降って湧く、かもしれない!……いや、ナイナイ。人生はそれほど甘くないって十分思い知ったばかりだし、恋愛も可愛い女の子も当分控えたいくらい、お腹いっぱいだ。


「いや、見合いじゃない。卯月は俺の課に派遣で配属されていたんだ」

「じゃあ、職場結婚なんですね」


 ちょっと思っていたのと違った。が、酔っぱらっている俺はそこで終わりにせず、矢継ぎ早に次の質問を重ねた。


「付き合ってどのくらいで結婚したんですか?」


 これも今の俺には気になる部分だった。如何にも女にモテそうな見た目とスペックのこの上司は、おそらくずっと独身生活を謳歌していたのだろう、と想像している。そんな男が結婚を決めたタイミング、決め手は何だったのか興味が湧いたのだ。


「付き合ってから……そうだな、一年半くらいか」

「どのくらいで結婚を意識したんですか?」

「付き合った後すぐ、だな」

「え!」


 今思うと、亀田部長も酔っていたのかもしれない。俺のプライベートに土足で踏み込むような質問に、あまりにも素直に答えてくれていた。俺と違って顔色は何一つ変わっていなかったが……。


「……変か?」

「いえ、いえいえ。変とかそう言うことじゃなくて……意外だなぁ、と思いまして」

「まぁ、とは言っても母親の方はそんな感じで割とアッサリしていたんだが、父親の方にはなかなか了承して貰えなくてな、認めて貰ったと思った矢先に転勤が決まって、結局入籍も伸びてしまったし、ちゃんと式も挙げていないし旅行も行って無い」


 少し悔しそうに零すその顔を見ていると、不思議な気持ちが湧いて来る。自分と比べて何もかも完璧に見えるこのイケメン上司は―――思ったより普通の人間なのかもしれない。何億光年も離れた場所にある星に住む、宇宙人ではないのだ。いや、当たり前のことなんだけど。


 でも今改めて思うと、そんな予想は付いていたような気もするし、徐々に気付き始めてはいたんだ。


 例えばヨツバにお土産を買ってくれた時、それから若い奥さんに不用意に触れた俺を睨みつけた時に。そして親切にも俺の家まで来て、ヨツバの捕獲作戦に尽力してくれた時にも。確かに俺よりも何倍も仕事も出来る本社採用のエリートだし、雰囲気イケメンの俺と比べ物にならないような、冗談みたいに整った容姿をしている。だから『同じ人間』なんて口にしたら世間に鼻で笑われてしまうかもしれないが―――分かり合えないほど、遠い存在ではないのだ。


「卯月さんのお父さんって、厳しいんですか?」


 亀田部長は気まずげに日本酒で唇を湿らすと、溜息を吐きつつ呟いた。


「いや、気持ちは分からないでもないんだ。卯月より俺はその父親の方と年が近いくらいだからな」

「えっ、そうなんですか?」

「十歳しか違わない。卯月とは十二離れているんだが……」

「えぇ!」

「騙されているんじゃないか、と面と向かって言われたな。最初はかなり強硬に反対していて……それを考えると一年くらいで許して貰えたのは、奇跡なのかもしれんな」


 そんな風に幸せを噛み締めるように目元を緩める亀田部長を眺めているうちに、無性に羨ましくなってしまった。


 何でそんな風にしっくりくる相手と、幸せな家庭を当たり前のように築くことが出来るのだろう?傷だらけな自分を守る事に懸命で、相手と向き合えない俺には―――その幸せの域に到達するのは、やはり物凄く遠い遠い星の出来事なのかもしれない。やはり俺と彼とは明らかに違う。それは自らの努力が足りないのか、育ちの所為なのか。そもそも生まれついた時から、違ってしまっているのか。




「いいですね、部長は……仕事も出来るし、出世頭で。おまけに若くて可愛い奥さんと結婚出来て。俺のように女に振り回される、なんてことは無縁なんでしょうね」

「……」




 はっ……と思わず口を手で塞いだ。

 やばい……これは流石に、マズい。失言だ。




 意外と話しやすい相手だったことに安心して、警戒心を置き忘れてしまった。


 が、亀田部長は俺の上司の上司―――きっと人事権にも大きな発言力を持っている筈だ。何しろあの、有能で人望もある桂沢部長の後釜として本社から呼ばれたくらいなのだ。やり手と畏れられている桂沢部長の、現夫の東常務のお気に入りだとも言われていて……本来なら、俺がこんな風に気安い口などきける相手ではないのだ。なのに愚痴、というよりほぼ嫌味のような事を目の前で口走ってしまった……!仕事のことがすっかり頭から抜け落ちていたのだ。思った以上に酔っていたのかもしれない。


 恐る恐る視線を上げる。


 すると、銀縁眼鏡の向こうから冷ややかな視線がこちらに向けられていた。一瞬で俺の背筋は凍り付いてしまったのだった。

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